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トプハーネ協定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トプハーネ協定
署名 1886年4月5日
署名場所 トプハーネ
締約国 ブルガリア公国オスマン帝国
主な内容 ブルガリアの統一英語版の承認
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トプハーネ協定(トプハーネきょうてい、英語: Tophane Agreement)は、1886年4月5日イスタンブルで開催された大使会議において、ブルガリア公国オスマン帝国の間で締結された条約[1][2]

条約の名前は締結地のトプハーネからとられたものである。

概要

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オスマン帝国の大宰相メフメト・キャミール・パシャ英語版、ブルガリア外相イリヤ・ツァーノフドイツ語版、および列強の大使の間で締結されたこの条約ではブルガリア公(当時はアレクサンダル1世)がオスマン帝国の東ルメリ自治州の総督を兼任することが承認された。これにより、1885年9月18日に実質的に果たされたブルガリアの統一英語版名目上にも承認された。

トプハーネ協定によりブルガリアがオスマン帝国に割譲した領土。

オスマン帝国は補償としてクルジャリ一帯とタムラシュ共和国英語版の合計1,640平方キロメートルの領土を受け取り、統一ブルガリアの面積は94,345平方キロメートルとなった[3]。ブルガリアは後に1912年から1913年までの第一次バルカン戦争でこれらの領土を奪還した。

脚注

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  1. ^ Hertslet, Edward (1891), “Act agreed between the Plenipotentiaries of Great Britain, Austria-Hungary, France, Germany, Italy, Russia, and Turkey, for modifying Articles XV and XVII of the Treaty of Berlin; Governor-Generalship of Eastern Rumelia to be entrusted to the Prince of Bulgaria, and Musulman Villages of Kirdjali and those of Rhodope District to be placed under administration of the Porte, Constantinople, 5th April 1886. (Translation)”, The Map of Europe by Treaty; which have taken place since the general peace of 1814. With numerous maps and notes, IV (1875-1891) (First ed.), London: Her Majesty's Stationery Office, pp. 3152–3157, https://archive.org/stream/mapofeuropebytre04hert#page/3152/mode/2up 2013年1月4日閲覧。 
  2. ^ Raymond Detrez: Historical Dictionary of Bulgaria, Scarecrow Press, London 1997, ISBN 0-8108-3177-5, P. 437
  3. ^ Magarditsch A. Hatschikjan: Tradition und Neuorientierung in der bulgarischen Außenpolitik 1944 - 1948. Die "nationale Außenpolitik" der Bulgarischen Arbeiterpartei (Kommunisten). Verlag Oldenburg, München 1988, ISBN 3-486-55001-2, P. 20