トミーリー
トミーリー | |
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欧字表記 | Tomy Lee |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 栗毛 |
生誕 | 1956年 |
死没 | 1971年 |
父 | Tudor Minstrel |
母 | Auld Aliance |
母の父 | Brantome |
生国 | イギリス |
生産者 | D. H. Wills |
馬主 | Mr. & Mrs. Fred Turner Jr. |
調教師 | Frank E. Childs(アメリカ) |
競走成績 | |
生涯成績 | 31戦14勝 |
獲得賞金 | 405,014ドル |
トミーリー(Tomy Lee、1956年 - 1971年)は、イギリス生産のサラブレッドの競走馬、種牡馬。アメリカ合衆国で競走馬となり、1959年のケンタッキーダービーなどに優勝した。
経歴
[編集]出生、幼駒時代
[編集]1956年にイギリスで生産された競走馬で、体高は16ハンド(約162.56センチメートル)と大柄で、体重も1000ポンド強あったという[r 1]。馬体は見栄え良く、また4本の脚すべてに白徴を持っていた[r 2]。
馬主となるフレッド・ターナー・ジュニアはテキサス州の出身で、本来はタルヤーの産駒を求めてイギリスに出向き、そこで25000ドルで目的のものを購入した。このとき、馬を1頭だけで輸送するのは馬にとって辛いものであるため、帯同馬として6762ドルで購入された幼駒がトミーリーであった[r 3][1]。馬名は本来「Tommy Lee」と名付けられる予定であったが、ありふれた名前ゆえに既に使われている可能性を考えて、mをひとつ抜いて登録することにした[r 4]。
若駒時代
[編集]デビューは2歳時からで、カリフォルニア州でハギンステークスやC・S・ハワードステークス、スターレットステークスにデルマーフューチュリティを含む6競走で連勝を挙げる活躍を繰り広げた。特にハギンステークスは8馬身差の圧勝で、またデルマーフューチュリティではロイヤルオービットを相手に3馬身差で勝っている。その後東海岸に遠征し、シャンペンステークスとガーデンステートステークスに出走しているが、ともにファーストランディングの2着に敗れている。
3歳時はやはりカリフォルニアからの始動であったが、年明け初戦のサンヴィンセントステークスでは2着に、続くサンフェリペハンデキャップでも2着に敗れている。しかし続くキーンランド競馬場での7ハロン(約1408メートル)の一般戦ではトラックレコードでの勝利を挙げ[r 5]、さらに翌戦のブルーグラスステークスでも優勝した。
1959年のケンタッキーダービー当日は72951人の観客が詰めかけた[r 6]。話題馬シルバースプーンやソードダンサーらも出走するなか、1番人気はファーストランディングが推され、ウィリー・シューメーカーを背に出走したトミーリーはそれに次いで単勝4.7倍の2番人気に支持された。トミーリーはスタートから先行するトロイラスという馬の後ろ2番手につけて進み、その馬が力尽きて後退すると先頭に立った。コーナーに差しかかるところでソードダンサーが詰め寄り、残り2ハロンというところで並びかけられた際には鞍上のシューメーカーも諦めかけたが、トミーリーは再び懸命に走りだし、2頭の激しい攻防が繰り広げられた[r 7]。2頭はほぼ同時にゴールし、18分ほどの審議と写真判定の結果、トミーリーが勝利をもぎ取った。シューメーカーは後に、残り1ハロンというところで2頭は接触したが、このときトミーリーの手前が変わり、より走りやすくなったことが勝因のひとつだと語っている[r 8]。
ケンタッキーダービー後はクラシック路線に残らず、西海岸に戻って6月のハリウッドパーク競馬場で行われるシネマハンデキャップへと登録された。しかし鞍上を務めていたシューメーカーが、ターナーの騎乗依頼に応じなかった[2]こともあり、前走で破ったシルバースプーンに敗れて着外へと沈んだ。
ターナーはシューメーカーと彼のエージェントの対応に憤り、抗議の意味を含めてトミーリーを半年の休養にあてた[r 9]。休養明けは翌年まであと2日まで迫った年の瀬で、ジョニー・ロングデンを鞍上にして6ハロン(約1207メートル)の一般戦で勝ちを挙げた。
その後
[編集]4歳になっても競走馬として活動したが、トミーリーは3歳の頃までのような走りを見せられなかった。この年4戦して2勝を挙げるが、年明けのサンカルロスハンデキャップやサンタアニタマーチュリティといったステークス競走では着外に沈んでおり、シーズン前半で引退して種牡馬となった。
ケンタッキー州の牧場で種牡馬入りしたものの、受胎率が非常に悪く、早くも種牡馬失格の扱いを受けた[r 10][3]。このため6歳になって競走馬に復帰することになり、復帰から7歳での再引退までに14戦を経験、ステークス競走勝ちこそ無いものの、4勝を挙げた。
引退後は牧場で過ごし、1971年に死亡した。遺骸はレキシントンのピラースタッドに埋葬されている。
評価
[編集]主な勝鞍
[編集]※当時はグレード制未導入
- 1958年(2歳) 8戦6勝
- ハギンステークス、C・S・ハワードステークス、スターレットステークス、デルマーフューチュリティ
- 2着 - シャンペンステークス、ガーデンステートステークス
- 1959年(3歳) 7戦4勝
- ケンタッキーダービー、ブルーグラスステークス
- 2着 - サンヴィンセントステークス、サンフェリペハンデキャップ
- 1960年(4歳) 4戦2勝
- 1962年(6歳) 1戦1勝
- 1963年(7歳) 13戦3勝
血統表
[編集]トミーリーの血統(オーエンテューダー系(ハイペリオン系) / Hyperion 3x3=25.00%、 Swynford 4x4=12.50%) | (血統表の出典) | |||
父 Tudor Minstrel 1944 青鹿毛 イギリス |
父の父 Owen Tudor1938 青鹿毛 イギリス |
Hyperion | Gainsborough | |
Selene | ||||
Mary Tudor | Pharos | |||
Anna Bolena | ||||
父の母 Sansonnet1933 鹿毛 イギリス |
Sansovino | Swynford | ||
Gondolette | ||||
Lady Juror | Son-in-law | |||
Lady Josephine | ||||
母 Auld Alliance 1948 栗毛 |
Brantome 1931 鹿毛 フランス |
Blandford | Swynford | |
Blanche | ||||
Vitamine | Clarissimus | |||
Viridiflora | ||||
母の母 Iona1943 栗毛 イギリス |
Hyperion | Gainsborough | ||
Selene | ||||
Jiffy | Hurry On | |||
Juniata F-No.1-n |
脚注
[編集]備考
[編集]- ^ 本来のお目当てであったタルヤー産駒はトゥレッグと名付けられ、実際に競走馬となっているが、2歳時は怪我により休養、3歳時には屈腱炎で引退と、成績を残さなかった。
- ^ この依頼を断って、シューメーカーはソードダンサーでベルモントステークスを制している。
- ^ 一応産駒は出しているものの、目立つ成績を挙げた馬はいなかった。
出典
[編集]参考文献
[編集]- The History of Thoroughbred Racing in America [p.531-539] (1964 著者: William H. P. Robertson 出版: Bonanza Books ASIN B000B8NBV6)
- ケンタッキー・ダービー・ストーリーズ [p.56-58] (1996 原著: ジム・ボウラス 翻訳: 桧山三郎 出版: 荒地出版社 ISBN 4-7521-0098-3)
外部リンク
[編集]- 85th Kentucky Derby - brisnet.com
- 競走馬成績と情報 netkeiba、JBISサーチ