ドミニク・サルヴァトーレ・ジェンタイル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドミニク・サルヴァトーレ・ジェンタイル
ドン・ジェンタイルと愛機P-51B“シャングリ=ラ”
渾名 "ドン(Don)"
"エース・オブ・エース(Ace of Aces)"
生誕 (1920-12-06) 1920年12月6日
オハイオ州ピクア
死没 1951年1月28日(1951-01-28)(30歳)
メリーランド州フォレストヴィル
所属組織 カナダ空軍 (1940–43)
アメリカ陸軍航空軍 (1943–47)
アメリカ空軍 (1947–51)
軍歴 1940–1951
最終階級 少佐
戦闘 第二次世界大戦
勲章 殊勲十字章 (2)
殊勲飛行十字章 (8)
エア・メダル (4)
テンプレートを表示

ドミニク・サルヴァトーレ・“ドン”ジェンタイル(Dominic Salvatore Gentile、1920年12月6日-1951年1月28日[1]は、「エース・オブ・エース」としても知られる第二次世界大戦のアメリカ陸軍航空軍(USAAF)パイロットであり、第一次世界大戦におけるエディ・リッケンバッカーの撃墜記録26機を破ったエース・パイロットである[2]。戦後にはアメリカ空軍に勤務した。

若いころ[編集]

ドミニクはオハイオ州ピクアにおいて[3]、1907年にイタリアから移民したパッツィとジョセフィーナ・ジェンタイルの息子として生まれた[4][5]。子供の頃に飛行に魅了されたドミニクに、父はエアロスポーツ複葉機を贈った。これにより、彼がアメリカ陸軍航空隊に加わろうとした1941年7月までに、彼は300時間以上の飛行を経験することとなった。

カナダ空軍でのキャリア[編集]

当時の米軍ではパイロットのために2年間の大学教育を要求していたが、ドミニクにはその経験がなかった。そのため、彼はカナダ空軍に入隊し、1941年に英国に派遣された。ドミニクは、1942年に有名な「イーグル飛行隊」の1つである第133飛行隊でスーパーマリン スピットファイアを操縦した。彼の最初の撃墜戦果(Ju88Fw190)は、1942年8月19日[6] 、ジュビリー作戦中に生じた[7]

アメリカ陸軍航空軍第4戦闘航空群[編集]

1942年9月、イーグル飛行隊はアメリカ陸軍航空軍に移籍し、第4戦闘航空群となった。ドミニクは1943年9月に小隊指揮官となり、P-47 サンダーボルトを操縦するようになった。スピットファイアのパイロットだったドミニクと他の第4戦闘航空群のパイロットは、鈍重なP-47に移行したことで不満を持っていた。 1943年12月16日、ドミニクは3番目の共同撃墜でJu-88を破壊したと主張した。1944年1月5日には、彼はトゥールの西方でFw190の撃墜を主張した[8] 。さらに1月14日には2機のFw190の撃墜を[9]、2月25日には1機のFw190撃墜を主張した[10]

1943年後半までに、航空群司令官のドン・ブレイクスリー大佐は、より軽快で機動性の高いP-51 マスタングの再装備を推進した。 1944年2月末にP-51Bに機材を更新したことで、ドミニクは1944年3月3日から4月8日までにさらに15.5機の撃墜記録を加えることができた[11]。P-51を操縦した彼の最初の勝利は、3月3日、ヴィッテンブルク地域でDo217を撃墜したときだった。

ドワイト・D・アイゼンハワー大将は、1944年4月11日に、殊勲十字章をドミニク(左)とドナルド・ブレイクスリー大佐に授与した。

4月8日にさらに3機の航空機を撃墜した後[1]の1944年4月13日、デブデンの第4戦闘航空群基地で、用意された報道記者とカメラマンたちのために曲芸飛行を行って「シャングリ=ラ」と名付けた自機を墜落させたとき、彼は第8空軍で一番のエースだった。その結果、ドミニクはすぐにブレイクスリーによって飛行勤務から外され、戦時国債を売る宣伝ツアーのためにアメリカ本国に送り返された。 1944年、ドミニクは有名な従軍記者アイラ・ヴォルフェルトとともに、彼の戦闘任務を解説した自伝『One Man Air Force』を共同執筆した。

彼の戦果の最終的な集計は、撃墜19.83機、損傷3機[11] および地上撃破6機、戦闘飛行時間350時間に及んだ。加えて、カナダ空軍にいる間に2機の撃墜を主張した。

添付のカラー写真では、空気の流れをスムーズにするために通常は6つの排気口を囲んでいるシュラウドが取り外されていることに注意。これは、戦闘時の加熱に対処するパイロットの一般的な慣習であり、エンジンに追加の冷却を提供し、パフォーマンス向上に役立った。

彼の僚機であるジョン・T・ゴッドフリーとともに、彼らは「キャプテン・カレイジャス」、「二人空軍」、「メッサーシュミット・キラーズ」、または「ダモンとピュティアス」として知られていた[12]

戦後[編集]

戦後、彼はアメリカ空軍において、ライトフィールド空軍基地のテストパイロット、ファイター・ガンナリー・プログラムの教官、そしてエア・タクティカル・スクールの士官学生として過ごした。 1949年6月には、ドミニクはメリーランド大学に軍事科学を学ぶ学部生として入学した。

死去[編集]

1951年1月28日、彼はT-33 A-1-LO シューティングスター(AF Ser. No. 49-0905)に教官として搭乗中、メリーランド州フォレストビルで墜落し、事故死した。妻のイサベラ・マスデア・ジェンタイル・バイトマン(2008年10月死去)と息子のドン・ジュニア、ジョセフ、パスクアーレの3人が残された。

ドミニクは、オハイオ州ロックボーンのセント・ジョセフ墓地に完全な軍葬で埋葬された。

記章・勲章[編集]

ドミニクが得た記章と勲章は次のとおりである。

空軍航空機操縦士記章(シニア・パイロット)
イギリス空軍パイロット・ブレベット
Bronze oak leaf cluster
殊勲十字章(2回受章/銅柏葉付)
Silver oak leaf cluster
Bronze oak leaf cluster
Bronze oak leaf cluster
殊勲飛行十字章(8回受章/銀および2枚銅柏葉付)
Bronze oak leaf cluster
Bronze oak leaf cluster
Bronze oak leaf cluster
エア・メダル(4回受章/3枚銅柏葉付)
Bronze oak leaf cluster
Bronze oak leaf cluster
大統領殊勲部隊章(3回受章/2枚銅柏葉付)
アメリカ戦役章
Bronze star
ヨーロッパ・アメリカ・中東戦役従軍章(従軍星章付)
第二次世界大戦戦勝記章
国防従軍章
Bronze oak leaf cluster
空軍勤続記念章(2回受章/柏葉付)

イギリス殊勲飛行十字章

ベルギー戦功十字章(椰子葉付)

カナダ義勇従軍メダル

記念[編集]

オハイオ州ピクアにあるドミニク・サルヴァトーレ・ジェンタイルの像。

オハイオ州シドニーを拠点とする民間航空パトロール飛行隊は、ドン・ジェンタイルに敬意を表して命名された。

1986年7月6日の独立記念日の週末に、ドミニクの像(写真)が故郷のオハイオ州ピクアに設置された[13]

オハイオ州ケタリングにあるジェンタイル空軍施設は、1962年に彼の名誉にちなんで名付けられた。施設は1996年に閉鎖された。

ウィンストン・チャーチルは、ギリシャ神話の伝説的な人物にちなみ、ドミニクとその僚機であるジョン・T・ゴッドフリー大尉を「ダモンとピュティアス」と呼んだ。1995年、ドミニクは国立航空殿堂に列した[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c Gentile, Salvatore Dominic”. National Aviation Hall of Fame. 2020年12月21日閲覧。
  2. ^ Johnson, Richard Riley (1995). Twenty Five Milk Runs (And a few others): To Hell's Angels and back. Victoria, Canada: Trafford Publishing. p. 4. ISBN 1-4120-2501-X. https://books.google.com/books?id=LNCcrP6ANi8C&pg=PA4 2009年10月30日閲覧。 
  3. ^ Video: American Army Women Serving On All Fronts Etc. (1944). Universal Newsreel. 2012年2月21日閲覧
  4. ^ Salvatore John LaGumina, The Humble and the Heroic: Wartime Italian Americans (2006) p.182
  5. ^ Philip Kaplan, Two-Man Air Force: Don Gentile & John Godfrey World War Two Flying Aces (2006) p.7
  6. ^ Major Dominic S. Gentile – 4th Fighter Group”. AcePilots.com. 2009年10月30日閲覧。
  7. ^ Beitman, Isabella Gentile (June 2, 2007), letter from Don's widow  (transcribed by Johnson, p. 4)
  8. ^ http://www.wwiiaircraftperformance.org/p-47/er/4-gentile-5jan44.jpg
  9. ^ http://www.wwiiaircraftperformance.org/p-47/er/4-gentile-14jan44.jpg
  10. ^ http://www.wwiiaircraftperformance.org/p-47/er/4-gentile-25feb44.jpg
  11. ^ a b USAF Historical Study No. 85: USAF Credits for the Destruction of Enemy Aircraft, World War II, Air Force Historical Research Agency, p. 70.
  12. ^ Cohen (2016年2月1日). “The Last Flight of Don Gentile”. Warbird Digest. Vintage Aviation Publications. 2020年5月21日閲覧。 “"Don Gentile needs no introduction. Whether known as 'Captains Courageous', 'The Two Man Air Force', 'Messerschmitt Killers', or 'Damon and Pythias', the exploits of he and his wingman, John Godfrey,"”
  13. ^ Deeter (2016年2月1日). “Piqua Bad Boy Becomes 'One Man Air Force'”. MyMiamiCounty. 2020年6月21日閲覧。
  • Jablonski, Edward (1971). Airpower. Garden City, NY: Doubleday & Company. http://www.alibris.com/booksearch?qwork=-38504524  4 volumes–I: Terror from the Sky (pages 1–168), II: Tragic Victories (pages 1–192), III: Outraged Skies (pages 1–136), IV: Wings of Fire (pages 1–218)
  • Gentile, Don (1944). One Man Air Force. New York, NY: L.B. Fischer Copyright held by North American Newspaper Alliance 

外部リンク[編集]