ドロシー・トイ・フォン
ドロシー・トイ・フォン | |
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ドロシー・トイ・フォンとポール・ウィン、1942年頃 | |
生誕 |
1917年5月28日 アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ |
死没 |
2019年7月10日 (102歳没) アメリカ合衆国カリフォルニア州オークランド |
職業 | ダンサー、ダンス指導者 |
配偶者 | ポール・ウィン、レ・フォン |
子供 | 2人 |
ドロシー・トイ・フォン(Dorothy Toy Fong,1917年5月28日 - 2019年7月10日)は、アメリカ合衆国のダンサーである[1]。1930年代に中国系のステージネームを名乗り、中国系のダンサー、ポール・ウィン(Paul Wing,1912年10月14日 - 1997年4月28日)[2]と「トイとウィン」 (en) というペアを組んでタップダンサーとして活動した[2]。太平洋戦争の開戦により、日系人である彼女は一時仕事を失ったが、終戦後に公演活動を再開して1970年代まで舞台に立った[1]。
生涯
[編集]サンフランシスコの生まれ[1][3]。本名はシゲコ・タカハシ(Shigeko Takahashi)といい、日系の家庭の出であった[1][3][4]。両親がレストランを経営するロサンゼルスで育ち、ヘレンという名の姉妹がいた[1][3][5]。彼女の娘の話では、カトリック系の学校に通っている間に「ドロシー」と名乗り始めたという[3]。
彼女はプロとしての活動を始める前に、バレエとタップダンスを学んだ[3][3]。幼い頃から彼女はポアント(つま先)で踊っていた[6]。レストランのある通りの向かい側にはボードビル劇場があって、その劇場の支配人が彼女の踊りを見て、ダンスのレッスンを勧めた[6][5]。ロシアのバレエ教師に教えを受けた際に、彼女はコサックダンスなどのアクロバティックな技巧を習得した[6][5]。
日本が軍国主義への傾斜を深めつつあった1930年代、彼女は中国系のステージネーム「ドロシー・トイ」(Dorothy Toy)を名乗った[1]。彼女が中国名を使ったのは、当時日本人があまり好きではなかったという他に、より短く紙に表示しやすいという理由があった[6]。1934年、彼女とヘレンはディック・パウエルとジョセフィン・ハチンソン (en) 主演の映画『春の夜明け(Happiness Ahead)』 (en) のダンスシーンに出演した[6][5]。
この映画には中国系のタップダンサー、ポール・ウィンも出演していた[6][5]。1936年にトイが高校を卒業すると、トイとヘレン、そしてウィンは「ザ・スリー・マージャンズ」(The Three Majong’s)というグループを結成してシカゴで活動することになった[6][5]。後にヘレンは歌手の道を選んだが、トイはウィンとともに活動を続け、「トイとウィン」というペアを組んだ[1][2][3][6]。優雅さと大胆さを両立させた2人のパフォーマンスは好評を博し、「中国のアステアとロジャース」と称賛された[2][3][4]。
トイとウィンは、ニューヨークのパラマウント劇場などでヘッドライナー を務め、1939年にはロンドンのパラディウムシアター (en) に出演した[2][3]。2人は、パラディウムシアターに出演した初のアジア系アーティストとなった[2][3]。2人の活躍はステージにとどまらず、映画にもその活動を広げた[1][3]。
2人は1940年に結婚した[3][6]。ただし、トイによればこの結婚はロマンティックな恋愛の結果ではなく、ホテルの予約などを簡単にするには好適だったという[6][5]。順調だった2人のキャリアは、1941年の真珠湾攻撃によって暗転した[3][6]。日系人であるトイの両親と親戚は、ユタ州のトパーズ戦争移住センターに強制収容された[3][7][6]。さらにウィンも陸軍に徴兵され、活動を一時停止せざるを得ない状況に追い込まれた[3][6]。そして、彼女の出自が日系であることが密告によって知れ渡り、映画出演や他の出演契約も破棄された[1][3][6]。
ウィンは復員を果たしたものの、PTSDに苦しんでいた[3][6][5]。トイは当時の彼について、「私が踊っていた人とは別人でした」と語っている[3][6][5]。2人は後に離婚した[3][6][5]。
2人は1950年代初頭に舞台に復帰し、サンフランシスコのフォービドン・シティナイトクラブに1960年代まで出演した[3]。さらに1970年代の半ばまで、アメリカを始めカナダ、ヨーロッパ、日本で公演した[1][3][7]。
トイは実業家のレ・フォン(Les Fong)と1952年に再婚し、以後はドロシー・トイ・フォンと名乗った[3][6]。しかし、この結婚も離婚という結末を迎えた[3]。彼女はフォンとの間に2人の子をもうけた[3][6]。ダンスのキャリアから退いた後、彼女はカリフォルニア州の薬局で働き、90代になるまで子どもたちのためのダンス教師を続けた[1][3][7][5]。
2016年、トイを題材としたドキュメンタリー映画『Dancing Through Life』が制作された[3][7]。彼女は映画内のインタビューで「私たちはダンスが大好きで、皆様にもそれが伝わったと思います」と述べた[3][7]。トイは長寿を保ち、2019年7月10日にカリフォルニア州オークランドの自宅で生涯を終えた[1][3]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l “ドロシー・トイ・フォンさん死去 往年の日系人女性ダンサー”. SANSPO.COM. 2020年4月19日閲覧。
- ^ a b c d e f “OBITUARY -- Paul Wing” (英語). sfgate.com. 2020年4月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab “Dorothy Toy, dazzling dancer known as the ‘Asian Ginger Rogers,’ dies at 102” (英語). Washington Post. 2020年4月19日閲覧。
- ^ a b Vaudeville old & new: an encyclopedia of variety performances in America. Psychology Press. (2004). p. 36. ISBN 978-0-415-93853-2
- ^ a b c d e f g h i j k “Remembering Dorothy Toy, a Dazzling Asian-American Tap Dance Star” (英語). Smithsonian Magazine.com. 2020年4月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s “Dorothy Toy, 102, Half of Asian-American Dance Team, Dies” (英語). ニューヨークタイムズ. 2020年4月19日閲覧。
- ^ a b c d e “Dorothy Toy Documentary to Be Screened at CHSA”. Rafu Shimpo. 2020年4月19日閲覧。
外部リンク
[編集]- Famed Dancer Dorothy Toy Reveals How Rival Sabotaged Career CBSN BAY AREA
- Dancing Through Life - The Dorothy Toy Story : BAAFF 2017 | Trailer Boston Asian American Film Festival