ドンジュ
Donges | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏 |
県 (département) | ロワール=アトランティック県 |
郡 (arrondissement) | サン=ナゼール郡 |
小郡 (canton) | サン=ナゼール2小郡 |
INSEEコード | 44052 |
郵便番号 | 44480 |
市長(任期) |
フランソワ・シェノー (2014年 - 2020年) |
自治体間連合 (fr) | fr:Communauté d'agglomération de la région nazairienne et de l'estuaire |
人口動態 | |
人口 |
7092人 (2012年) |
人口密度 | 118人/km2 |
住民の呼称 | Dongeois |
地理 | |
座標 | 北緯47度19分27秒 西経2度04分30秒 / 北緯47.324163度 西経2.075度座標: 北緯47度19分27秒 西経2度04分30秒 / 北緯47.324163度 西経2.075度 |
標高 |
平均:m 最低:0m 最高:31m |
面積 | 59.9km2 |
公式サイト | http://www.ville-donges.fr/ |
ドンジュ (Donges)は、フランス、ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏、ロワール=アトランティック県のコミューン。
地理
[編集]ドンジュは、ロワール川河口の北岸にあり、サン=ナゼールの東10kmのところにある。国内ではカマルグに次ぐ広大な湿地帯であるブリエール湿地に近い。多くの動植物の種から構成される地域圏自然公園を持つ。町は岩盤がむき出しになった沖積帯に位置する。
エルワン・ヴァルリーによるブルターニュの区分では、ドンジュは伝統的な地方区分ではブリエール、歴史的な地方区分ではペイ・ナンテに属する。
由来
[編集]1104年、ルドンの修道院による特許状台帳には、Dongia の名で記されている。
地元で話されるオイル語の一種、ガロ語では Donj となる。
歴史
[編集]人の定住は旧石器時代からあったが、人々が活動した痕跡が見つかるのは新石器時代以降である。ドンジュの中では多くの巨石記念物を見つけることができる。ローマ時代には鉛が見つかっている[1]。グレ丘のふもとではガロ=ローマ時代の遺構が発見された。276年頃に起きた最初のサクソン人襲来の際、金品や宝物がエル島に隠された。19世紀、Empereurs gaulois PosthumeとTetricusと刻まれた硬貨が見つかっている。
9世紀、ドンジュの土地はノルマン人に略奪された。ノルマン人たちはロワール川河口に定住していたのである。アラン・バルブトルトはノルマン人を退け、ナント伯そしてブルターニュ公アラン2世となったが、ノルマン人たちは数箇所の地域に残留した。
ドンジュには当時、少なくともブルトン語話者が定住していた。実際に、村や集落の名称の研究によって、地名学はかなり正確に、ブルトン語の方言の東側境界が拡張されていたと認めている。この境界は、1907年に大学教員ジョゼフ・ロットによって決定された。このロット線は、ロワール川からドンジュの東へ、イギリス海峡へ伸び、ロズ・シュル・クエノン(現在はイル=エ=ヴィレーヌ県のコミューン)の東まであった。
11世紀、ナント子爵ロダルは、ロワール川沿いの岩の露頭の上にある、封建時代の山城へ定住した。そこは河口の監視に適した戦略上の要地だった。このダンジョンが、ドンジュの町の最古の起源である[2]。
この城の周りで、ドンジュ領主は世襲制の子爵領を確立した。彼らの領地には、ロワール河口の湿地帯にある15の教区が含まれていた。ドンジュ子爵の領地は、サン=ナザールからコルドメ、そしてル・タンプル=ド=ブルターニュまで伸びていた。西側は公爵のドメーヌであるゲランドおよびグランド・ブリエール・モティエールと接し、北はラ・ロッシュ・ベルナール男爵領およびポン=シャトー男爵領、そして東側はラ・ロッシュ・アン・サヴネ男爵領とレゲール、南側はロワール川とレ男爵領に接していた。
1070年代、子爵フリウー・ド・ドンジュは、自らの城の近くに村や修道院をつくるよう、トゥールのマルムーティエ修道院の修道士たちに依頼した[3]。城は12世紀半ば、ブルターニュ公コナン3世の命令によって、当時のドンジュ子爵サヴァリへの報復として、破壊されている。ドンジュ子爵はその後、クロサック湿地の中にある小島にロリユー城を建てて移り住んだ。
1771年から1925年にかけ、湿地帯の干拓が進められた。
1853年、デクレにより鉄道の通過が可能になった。これが産業化の始まりだった。1917年、サン=ナゼール港の混雑を解消するためドンジュ港が建設され、アメリカやイギリスからの貨物が陸揚げされた。1930年代以降、石油精製所が建設されていった。
1944年7月24日と25日、ドンジュの町は爆撃を受けて破壊され、元の町から1km離れた場所に再建された。
トタルが運営する石油精製所は現在、年間11万トンの石油を処理する、国内第2位の石油精製所である。精製所には鉄道のトゥール・サン・ナゼール路線が横切っており、駅も精製所の影響の真っ只中にある。現在の精製所の北4.5kmの新しい場所にバイパスを建設する計画は、町からまっすぐ伸びる路線と新駅の建設が真っ先にあげられる。しかし、この開発計画の実施は常にコストを理由に延期されている(投資額は1億ユーロと見積もられている)。鉄道の存在が、トタルによる工業用地の拡大計画の妨げになっている。状況を打開しようと、トタルは、1.2億ユーロから1.5億ユーロかかるとされるバイパス事業をてこ入れしようと2015年春に準備しているように見えた。計画への合意は、2015年の終わりまでになされると期待されている。行政手続きや公益の認定を受ける作業は2017年に行われることになっている[4]。
経済
[編集]コミューン経済は、トタルが運営するドンジュ石油精製所に大きく依存している。
人口統計
[編集]1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2006年 | 2012年 |
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6263 | 6458 | 6280 | 6726 | 6377 | 6156 | 6338 | 7092 |
source=1999年までLdh/EHESS/Cassini[5]、2004年以降INSEE[6][7]
姉妹都市
[編集]- クネヴァルデ、ドイツ
脚注
[編集]- ^ Toute l'histoire de Bretagne, Skol Vreizh, 2012, p. 85
- ^ Hubert Guillotel, « Les origines du Bourg de Donges, une étape de la redistribution des pouvoirs ecclésiastiques et laïques aux XIe ‑ XIIe siècles », in « Annales de Bretagne et des Pays de l’Ouest », tome 84, 4, 1977, p. 542-552, et Dom Morice, Preuves, I, p. 408-409.
- ^ Le Diocèse de Nantes, Yves Durand, Éditions Beauchesne, 1er janvier 1985 - page 46.
- ^ http://www.ouest-france.fr/total-la-raffinerie-de-donges-fixees-sur-son-sort-aujourdhui-3337623
- ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=12051
- ^ http://www.statistiques-locales.insee.fr
- ^ http://www.insee.fr