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ドードーナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドードーネーから転送)
ドードーナ
Δωδώνη
ドードーナのブーレウテリオン英語版
ドードーナの位置(ギリシャ内)
ドードーナ
ギリシャにおける位置
別名 ドドナ、ドドネ
所在地 ギリシアイピロス地方、ヨアニナ県ドドニ
地域 イピロス
座標 北緯39度32分47秒 東経20度47分16秒 / 北緯39.54639度 東経20.78778度 / 39.54639; 20.78778座標: 北緯39度32分47秒 東経20度47分16秒 / 北緯39.54639度 東経20.78778度 / 39.54639; 20.78778
種類 聖域
歴史
完成 紀元前二千年紀
放棄 391–392年
時代 ミケーネ文明 から ローマ帝国
文化 ギリシア, 古代ローマ
追加情報
状態 廃墟
所有者 公共
一般公開 可能

ドードーナ(ドーリス方言: Δωδώνα, Dōdōna)、あるいはドードーネー(アッティカ・イオニア方言: Δωδώνη[1], Dōdōnē)は、ギリシャ北西部イピロスに存在した最古の古代ギリシア神託所である。日本語表記においてはドドナ[2]ドドーナ[3]ドドネとも。ヘロドトスによればおそらくその起源は紀元前2千年紀にまで遡るとされる。古代の吟遊詩人であるホメーロスはドードーナをゼウスの神託所だとした。古代ギリシアの主要なポリスから離れた遠隔地に位置していたため、デルポイの神託所に次ぐ2番目の位階に留まった。

アリストテレスはドードーナ周辺の地域はヘラスの一部であり、ヘレネスの起源となる場所であるとした[4]。神託所は初めはテスプロティア人英語版の支配下にあったが、後にモロシア人英語版の手に渡った[5]古代ローマにおいてキリスト教が隆盛するまで、宗教的に重要な聖域であった。

ドードーナの神託の板は2023年に世界の記憶に登録された[6]

説明

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古典古代の時代に記された様々な記録によれば、巫女神官たちは神聖な洞窟においてオークカシあるいはブナ)の葉のざわめく音によって、正しい行動をとるための判断をしていた。新しい解釈では、神託の音は、オークの枝に吊られた青銅製の風鈴に似たものが風で揺れたときに発する音であるとされる[7]

ニコラス・ハモンド英語版に依れば、ドードーナの神託所は(他の場所ではレア[要曖昧さ回避]あるいはガイアとも識別されるが、この地ではディオーネーと呼ばれた)地母神へ捧げられたものであった。この神は時を経るうちにいくつかの部分がギリシア神話の神格であるゼウスへと取り込まれ、ギリシア神話の一部となった[8]

歴史

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初期の歴史

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ドードーナに捧げられた槌、ブロンズ製、紀元前7世紀頃。ルーブル美術館所蔵

この神託所に刻まれた最古の碑文はおよそ紀元前550-500年のものである[9]。1世紀以上に渡る考古学的発掘調査によって、ミケーネ文明初期の遺物が復元されており[10] 、その多くはアテネ国立考古学博物館で、またいくつかは近隣のヨアニナの考古学博物館で展示されている。

ドードーナにおける神事は後期青銅器文明(ミケーネ文明)の頃にはある程度の形式が確立されていた[11]。ミケーネ文明の後の時代(暗黒時代)にはドードーナが活動していた記録はほとんど残されていないが、南ギリシアからの青銅製の奉納品(三脚など)よりアルカイック期(紀元前8世紀)にはドードーナと南ギリシア間で再び繋がりがあったことがわかっている[11]。考古学者たちは、紀元前8世紀中に神託所に捧げられたイリュリア人による奉納品などの品々もまた発見している[12]。紀元前650年まで、ドードーナは主に北方の部族の宗教と神託者たちの中心であったが、650年以降は南方部族にとって重要なものとなった[13]

ドードーナにおいて、ゼウスは「ナイオスのゼウス」や「ナオス」(テメノス[14]においてオークの木の下にいる泉の神。ナーイアスも参照)[15]また「助言者ゼウス英語版[16]として礼拝されていた。プルタルコスは、ドードーナでのユーピテル(ゼウス)への礼拝はデウカリオーンピュラーによって、おそらくは大洪水の後に掲げられたと記述している。

最も古いドードーナへの言及はホメーロスによってされており、ここではゼウスについてのみ述べられている。『イーリアス』(紀元前750年頃)においてアキレウスは「ゼウス神よ、またドードーネーの、またペラズゴスの、はるかな宮においでになり、寒風すさむドードーネーをお治めの大神さま」[17]と祈りを捧げている。建物については何も言及されておらず、セロイ[18]と呼ばれる神官が足を洗わず地面に寝ていたとされる[19]。ホメーロスは巫女について言及していない。

神託所はオデュッセウスの旅路の一部でも登場しており、ドードーナを訪れた物語が残されている。『オデュッセイア』では「(略)ご本人はドドネへ出かけられたとの話でした。つまりそこにある神様の高く茂ったオークの木から、ゼウスの御神慮をうかがって(略)」[20]と記されている。これはオデュッセウスが神託所でイタケ島への戻る際、公然と帰るか秘密のうちに帰るかを尋ねたものであった[21]

いくつかの研究者たちは、ドードーナはもともとは巫女たちが地母神へと臨む神託所であったとしている。この地母神は他所ではレアーあるいはガイアと考えられていた。またこの神託所は(単に女神を意味する)ディオーネーとも共有された。古典時代には、ギリシアのどの地域でもディオーネーは小さな役割のみを与えられており、ヘーラーが一般的なゼウスの妻としての一面を持ったが、ドードーナでは決してそうならなかった[22]。この神託所跡から復元された碑文の多くは、ディオーネーとナイオスのゼウスに捧げられたものであった。

いくつかの考古学者たちは、紀元前4世紀の直前になって、神託所に小さな石の神殿が追加されたとしている。

エウリピデスがドードーナに言及した時点(『メラニッペー』の断片)また、ヘロドトスが神託所について言及した時点では、巫女たちはこの地に現れていた。

古典時代

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古典古代ギリシアの主要な聖域地図

デルポイにあるアポローンの神託所を凌ぐことは無かったが、ドードーナの神託所はギリシア世界において大きな名声を得ていた。ロドスのアポローニオスによって書かれたイアーソーンアルゴナウタイの物語である『アルゴナウティカ』では、イアーソーンの船であるアルゴー号は、ドードーナからもたらされたオークが木材として使われていたために予言の能力を持っていたとされた。

紀元前290年頃、エピロスピュロス1世はドードーナを宗教的首都と位置づけ、美化のために再建計画を立てた。この計画はゼウス神殿を壮大に改築し、また他の建造物の建築、アスレチック競技や音楽コンテスト、劇場での演劇など多岐に渡るものだった[19]。これによって聖なる木と神託所を囲む壁に、同じくヘーラクレースとディオーネーの為の神殿が建てられた。

紀元前219年、ドリマコス将軍が率いるアイトーリア人が侵略し、神殿は徹底的に破壊された[23]

紀元前3世紀後半になって、ピリッポス5世がイピロス人たちと共にドードーナの建築物を再建した[24]。紀元前167年、ドードーナはアエミリウス・パウルス率いる[25]ローマ人によって破壊されたが[26]、後のローマ皇帝アウグストゥスは紀元前31年に再建した。2世紀には、旅行記『ギリシア案内記』で知られるパウサニアスがドードーナを訪れているが、この時、神聖な森は一本のオークの木にまでなっていた[27]。241年、ポプリウス・メミウス・レオンという名の祭司がドードーナのナイア祭をまとめている[28]。362年にはローマ皇帝ユリアヌスがペルシア遠征に先立ち、神託所の助言を求めた[29]

391-392年にテオドシウス1世がすべての非キリスト教の神殿を閉鎖し、全ての非キリスト教の宗教的活動を禁じ、ゼウスの聖域にある古オークの木を切り倒すまで、巡礼者は神託所へと助言を受けるために訪れていた[30]。残された町は小さなものであったが、非キリスト教であっても長らく神聖化されていたこの地は、ドードーナの司教であったテオドルスが431年のエフェソス公会議に参加していることからみて、キリスト教徒にとってもなんらかの意味が残されていた[25]

ドードーナ劇場のパノラマ。現代のドドニ村とトマロス山を背景に

ヘロドトス

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聖域の設計図。ドードーナの聖域はローマ時代まで開発されつづけた。地図にある16番はかつてはゼウス神殿が存在したが、キリスト教のバシリカに取って代わられた。

ヘロドトス[31](『歴史』2:54–57)は紀元前5世紀にエジプトのテバイの祭司から次のように聞いたとした。

「二人の巫女がフェニキア人によってテバイより浚われ、一人はリビアへ、もう一人はヘラスへと売られた。これらの女性がそれぞれの地で神託所を設立した人である」

これらの記述からわかることは、エジプトはギリシア人に対してだけではなくエジプト人たちにとっても、計り知れないほど古いが、全ての人類文化の泉であったということである。この神話の要素が伝えるのは、リビアシワのオアシスとイピロスのドードーナにある神託所は共に古く、フェニキア文化においても同じように同様の伝承を持ち、また女予言者であるということである。ヘロドトスは「シビュラ」とは伝えず、「女性」と伝えている。ヘロドトスはドードーナでペレイアデス英語版(Peleiades, 鳩)と呼ばれた女予言者たちについてドードーナの巫女たちから聞いた話として以下のように記した。

二羽の黒鳩がエジプトのテバイから飛びたってその一羽はリビアへ、他は彼らのもとへたどり着き、そしてそれが一本の樫の木にとまって、人語をもってそこにゼウスの神託所を設けねばならぬと告げ、彼らはそれが自分達に対する神のお告げだと考え、それにしたがって彼らの神託所を設けたという。また、リビア人の所へ行った鳩は、リビア人にアンモンの神託所を作るように命じたということであって、これもゼウスのものである。以上がドドナの巫女の話であるが、その最年長者をプロメネイアと呼び、その次をティマレテといい、ニカドラというのが最年少者である。その神殿に関係しているほかのドドナ人も彼女等と同じことを語っていた。 — ヘロドトス『歴史』[32]

この最も簡単な解釈としては、これはエジプトの神託所の伝承を確認するものである。鳩の要素は、神聖な女性への古代の名についての伝承的語源を説明するであるともされるが、ゼウスとの関係について見出すことはできず、巫女によって語られた物語を正当とするものである。彼女たちのペレイアデス (Peleiades) という名前につながるpel-という要素はペーレウス (Peleus) やペロプス (Pelops) のように「黒」や「泥(に汚れた)」という要素を源とするか?何故鳩は黒か?という疑問についてヘロドトスは下記のように追記している。

しかし、私としてはそれについて次のような見解を抱いている。もし真実フェニキア人がそれらの巫女を連れ出してその一人をリビアへ、他をギリシアへ売り飛ばしたものとすれば、私の考えとしては、以前は同じ国でありながらペラズギア (Pelasgia) と呼ばれ、今日ではギリシアと呼ばれている国でも、その婦人の売られた先はテスプロトイ人の所であって、その後、その行った先の地で、テバイ・ゼウスの宮にかしずいていた彼女が自然その廟を思い起こし、その地に奴隷でありながら、はえていた樫の木の下にゼウスの祠を建立したものと思う。その後に、ギリシア語を解するようになって神託を始めたのであって、彼女の姉妹が、自分をも売った同じフェニキア人のためにリビアで売られたと物語ったものであろう。 — ヘロドトス『歴史』[33]
それらの婦人がドドナ人に鳩と呼ばれたのは、彼らが異邦人であって、彼らにはその言葉が鳥のさえずりのように思われたからであろう。そして、しばらくたって鳩が人語でしゃべったと称しているのは、その婦人が彼らに解されることを話すようになったからである。つまりどうして鳩が人語を話しうるのかと問わざるを得ないといったわけで、彼女が異国語を話していたかぎり、彼らには鳥のような声を出すと思われていたのである。また、黒鳩であったというのはその婦人がエジプト人であったことを意味している。 — ヘロドトス『歴史』[34]

ドードーナの西海岸であるテスプロティアは海で暮らすフェニキア人にとって利用可能であったのかもしれないが、ヘロドトスの読者にとってはドードーナほど遠い島にまで侵入するとは予期されていなかった。

ストラボン

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ストラボンは、神託所はペラスギによって設立されたと記している。

この神託所は、エポロスによれば、ペラスギによって開かれた。このペラスギは最も早くギリシアをその手に収めた者たちと言われる。 — ストラボン『地理誌[35][36]

神託所のあった場所ではトマロス山がそびたっており、この地域は最初にテスプロティア人が、次にモロシア人が支配した。

古代には、ドードーナはテスプロティア人たちに支配されていた。そこにはトマロス山[37]があった。麓には神殿が位置していた。悲劇詩人たちもピンダロスも、共にドードーナを「テスプロティアのドードーナ」と呼んでいたが、その後にはモロシア人たちの支配下となった。 — ストラボン『地理誌』[38]

ストラボンは、ピンダロスによれば、元々は予言は男性によって告げられたと記した。

最初は、これは真実であるが、予言を告げるものたちは男であった。これはたぶん間違いなく詩人が語っているのだが、詩人たちは彼らを「hypophetae」(通訳者)と呼び、これらの内で予言者には階級があったと思う。 — ストラボン『地理誌』[35]

同じく、ピンダロスの残した記録について、不確かなものであるが、ドードーナの神託所の前身がテッサリアにあったと伝えた。

...神託所の神殿はテッサリアから、ペラスギアの一地方、おおよそスコトゥサ(スコトゥサは「ペラスギ人たちのテッサリア」と呼ばれた領土に属していた)から、移された。そして、現在は巫女となっている多くの女性たちは、この時一緒に移った者たちの子孫である。これは、ゼウスを「ペラスギ人」とも呼んでいた事実からのものである。 — ストラボン『地理誌』[35]

また、ピンダロスの断片からは次のような記述がみられると伝える。

テスプロティア人とモロシア人の間では、年老いた女は peliai 、年老いた男は pelioi と呼ばれる。これはマケドニア人の場合も同じである。いずれにせよ、彼らの中で高位のものは peligones と呼ばれる。(ラコニア人とマッシリア人の間のgerontes[39]と比較できる)つまり、これが伝えるのは、ドードーナのオークの木にあるペレイアデス (Peleiades) という鳩の神話の起源である。[40] — ストラボン『断片』[41]

他の記述

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リチャード・クレーヴァーハウス・ジェッブ卿英語版によれば、ドードーナにおけるネウオス (Neuos) のゼウスという二つ名は主に「小川の神、より一般的には水の神」を示すものである。また、アケローオスが水の神として、ドードーナで特別な崇拝を受けていたとした[42]。神託所のあった場所は、湖の為にかなりの湿地であり、また、後にはドードーナの聖泉を仄めかして追加された可能性もあるとした。

彼はストラボンの見解を支持しており、ゼウスの予言者であったセロイ (Selloi) はトモウロイ (tomouroi) とも呼ばれており、この名前はトマロス山からのものだとした上で、いくつかある『オデュッセイア』の編集版からもトモウロイの言葉を見ることができるとした。

また、ドードーナのペレイアデスはかなり古く、デルポイの神託所の最初の巫女であったフェモノエ英語版の任命にも先立っていて[42]、女性仲介者の導入が起きたのは、おろらく5世紀であったとした[43]。しかしながらこの変化の時期は、これ以前にヘロドトス(紀元前5世紀)の鳩とエジプトの物語により明らかにされている。

アリストテレス(『気象論』, 1.14)はヘラスをドードーナの一部とアケロース川に位置づけ「かつては Graikoi と呼ばれ、今では Hellenes と呼ばれるセロイ」が住んでいたと述べた[4][44]

セロイ (Selloi) はヘロイ (Helloi) との表記もされる。アリストテレスは、明らかに神託所があった地域のすべてを指して、ドードーナという名で呼んでいた。これに従って、いくつかの研究者は(ギリシア世界を指す)ヘレネス (Hellenes) 及び、ヘレス (Hellas) という言葉の起源は、ドードーナにあるとした[44]。また、ギリシアという言葉もこの場所から発生したともされる。

脚注

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出典

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  1. ^ Liddell & Scott 1996, "Dodone"
  2. ^ ドドナとは”. コトバンク. 2018年8月9日閲覧。
  3. ^ ヘンリー・デイヴィッド・ソロー『ウォールデン森の生活 上』小学館、2016年、252頁。ISBN 978-4-09-406294-6 
  4. ^ a b Hammond 1986, p. 77; Aristotle. Meteorologica. 1.14.
  5. ^ Potter 1751, Chapter VIII, "Of the Oracles of Jupiter", p. 265.
  6. ^ UNESCO Memory of the World Register”. UNESCO. 2023年5月27日閲覧。
  7. ^ Harissis, Haralambos. “A Bronze Wheel from Dodona. The Iynx, the Cauldron and the Music of the Gods”. 2017年4月1日閲覧。
  8. ^ Hammond 1986, p. 39: "...Greek gods too, especially Zeus the sky-god, were at home on Mt. Olympus and in Pieria, and the Zeus of Dodona derived his importance from the Bronze Age when he displaced a Mother Goddess and assimilated her as Aphrodite."
  9. ^ Lhôte 2006, p. 77.
  10. ^ Eidinow 2014, pp. 62–63; Tandy 2001, p. 23.
  11. ^ a b Eidinow 2014, pp. 62–63: "There appears to be evidence for contact between Epirus and Mycenean culture from the early and middle Bronze Age (mostly ceramic), with most evidence dating to the late Bronze Age and including as well as pottery remains, weaponry (swords and double-axes), tools and jewellery, and imports from the Europe and the Near East. Objects and archaeological remains at the site of Dodona suggest that there was already some kind of cult activity there in the late Bronze Age. There is little evidence for the Dark Age period (1200/1100-730/700 BC), but contact between the area and cities in South Greece seems to resume in the eighth century (with the foundation of Kassopeia in 730-700 BC by Elis, and settlements by Corinth, including Ambracia, Anaktorion Epidamnus and Apollonia, 650/630 BC), and this is supported by the appearance at Dodona of bronze votive offerings from the south of Greece, dating to the end of the eighth century, and beginning with the pervasive tripod, but going on through the archaic period to encompass a variety of animal, human and divine imagery."
  12. ^ Boardman 1982, p. 653; Hammond 1976, p. 156.
  13. ^ Boardman 1982, pp. 272–273.
  14. ^ 聖域。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『テメノス』 - コトバンク
  15. ^ Kristensen 1960, p. 104; Tarn 1913, p. 60.
  16. ^ LSJ: bouleus.
  17. ^ 呉茂一 訳。『イーリアス(下)』, ホメロス, グーテンベルク21, (Kindle版:1712/6118)
  18. ^ Selloi、ヘロイとも。
  19. ^ a b Sacks, Murray & Bunson 1997, "Dodona", p. 85.
  20. ^ 「『オデュッセイア(下)』, ホメロス, 呉茂一 訳」より引用
  21. ^ 呉茂一訳。『オデュッセイア(下)』, ホメロス, グーテンベルク21, (Kindle版:549/4467)
  22. ^ Vandenberg 2007, p. 29.
  23. ^ Dakaris 1971, p. 46; Wilson 2006, p. 240; Sacks, Murray & Bunson 1997, "Dodona", p. 85.
  24. ^ Sacks, Murray & Bunson 1997, "Dodona", p. 85; Dakaris 1971, p. 46.
  25. ^ a b Pentreath 1964, p. 165.
  26. ^ Sacks, Murray & Bunson 1997, "Dodona", p. 85; Dakaris 1971, p. 62.
  27. ^ パウサニアス. 『ギリシア記』, 1.18.
  28. ^ Dakaris 1971, p. 26.
  29. ^ Dakaris 1971, p. 26; Fontenrose 1988, p. 25.
  30. ^ Flüeler & Rohde 2009, p. 36.
  31. ^ Vandenberg 2007, pp. 29–30.
  32. ^ 「『歴史(上)』, ヘロドトス, 青木巌 訳」巻二エジプト地誌、エジプト人の習俗―神祇祭礼 (55)より引用
  33. ^ 「『歴史(上)』, ヘロドトス, 青木巌 訳」巻二エジプト地誌、エジプト人の習俗―神祇祭礼 (56)より引用。カッコ内の綴りは編集者による。
  34. ^ 「『歴史(上)』, ヘロドトス, 青木巌 訳」巻二エジプト地誌、エジプト人の習俗―神祇祭礼 (57)より引用。
  35. ^ a b c ストラボン『地理誌』, 7.7.
  36. ^ ストラボンの記した『Geographica』(古代ギリシア語: Γεωγραφικά Geōgraphiká) は直接的には「地理学」とも訳されるが、日本語訳では『ギリシア・ローマ世界地誌』という名で出版されている。
  37. ^ Tomaros あるいは Tmaros とつづられた
  38. ^ ストラボン『地理誌』, 7.7.9ff.
  39. ^ スパルタで年老いた人を指す名称。「年長」を意味する
  40. ^ 二つの単語の類似を指している
  41. ^ Strabo. Fragments, Book VII.
  42. ^ a b Jebb 1892, Appendix, p. 202, Note #4.
  43. ^ Eidinow 2014, p. 64: "But from the fifth century the sanctuary appears to have been managed by priestesses, and this may indicate some sort of reorganization in the intervening period."
  44. ^ a b Guest 1883, p. 272.

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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