ナーゾ・トーヒー
ナーゾ・トーヒー(パシュトー語: نازو توخۍ, 1651年? - 1717年)は、パシュトゥーン人の女流詩人[1]。アフガニスタンの国民的英雄、18世紀初頭のミール・ワイス・ハーン・ホータキーの母として知られる。また、彼女自身がアフガニスタン史上に残る勇敢な女戦士として知られ、後に伝説化されて「アフガン国家の祖母」と呼ばれるようになった[2][3][4]。ナーゾ・アナー(نازو انا, Nāzo Anā, Nāzo Nyā)とも呼ばれる。アナーは「祖母」の意味。
生涯
[編集]ナーゾ・トキーは1651年ごろ、現在のアフガニスタン・カンダハール州にあるSpozhmayiz Gul村で、有力で裕福なパシュトゥーン人の家に生まれた。彼女はカンダハールの有力な一族で生まれ育った[5]。父のスルターン・マリクヒールは、ガズニー地方を支配していたトーヒー部族の族長である[1][6]。ナーゾはホータク部族の族長、カラム・ハーンの息子、サリム・ハーンと結婚した。18世紀初頭にサファヴィー朝支配に対して反乱を起こし、カンダハール王国を建てて独立したミール・ワイス・ハーン・ホータキーはこの夫婦の息子である。
夫、マリクヒールがナーゾの養育に心を砕いたことで、ナーゾは教養があり礼儀正しく親切な詩人に育った。彼女の詩は現在でも重んじられている。
しかし、彼女が伝説的な権威を得たのは、詩と共にパシュトゥーンワーリー(パシュトゥーン人の掟)を維持した功績のためでもある ナーゾはパシュトゥーンワーリーをパシュトゥーン人諸部族を結びつける法と位置づけ、ギルザイとサドザイの両勢力の紛争を調停した。これによりパシュトゥーン人の対サファヴィー朝同盟はより強固なものとなった。
マリクヒールがスール山付近の戦闘で戦死すると、ナーゾの兄弟は復讐に向かった。家の留守と要塞を任されたナーゾは、みずから剣をふるい要塞を守りきった[7]。
息子のミール・ワイスの死から2年後の1717年にナーゾは死去した。
後世への影響
[編集]ナーゾ・アナーはアフガン人の間で英雄として尊敬されている。アフガニスタンには、彼女の名を冠した学校がいくつか存在している[8][9][10][11]。
出典
[編集]- ^ a b Anjuman-i Tārīkh-i Afghānistān (1967). Afghanistan, Volumes 20-22. Historical Society of Afghanistan. ISBN 0-7787-9335-4 2018年8月14日閲覧。 p.53 (Mrs. Nazo Tokhi の項)
- ^ “Tribal Law of Pashtunwali and Women’s Legislative Authority”. Harvard University (2003年). 2010年9月30日閲覧。
- ^ Hōtak, Muḥammad; ʻAbd al-Ḥayy Ḥabībī; Khushal Habibi (1997). Pat̲a k̲h̲azana. United States: University Press of America. p. 30. ISBN 9780761802655 2010年9月27日閲覧。
- ^ Children of Afghanistan: The Path to Peace. Jennifer Heath, Ashraf Zahedi. University of Texas Press. (2014). ISBN 9780292759336 p.49 (Note)
- ^ “Mirwais Neeka”. www.beepworld.de. 11 January 2018閲覧。
- ^ The Kingdom of Afghanistan: A Historical Sketch. BiblioBazaar, LLC. (2009). p. 36. ISBN 9781115584029 2010年8月22日閲覧。
- ^ The Hidden Treasure: A Biography of Pas̲htoon Poets By Muḥammad Hotak, ʻAbd al-Ḥayy Ḥabībī, p.135
- ^ “Nazo Ana Primary School in Afghanistan”. 2010年9月30日閲覧。
- ^ “Nazo Ana High School for girls in Kandahar, Afghanistan”. 11 January 2018閲覧。
- ^ “Blog – afghanistanwomencouncil.org”. www.afghanistanwomencouncil.org. 11 January 2018閲覧。
- ^ http://www.pajhwok.com/viewstory.asp?lng=eng&id=72917