ニコライ・ギカロ
ニコライ・フョードロヴィチ・ギカロ Николай Фёдорович Гикало | |
---|---|
1934年のギカロ | |
生年月日 | 1896年3月20日 |
出生地 | ロシア帝国ヘルソン県オデッサ郡オデッサ |
没年月日 | 1938年4月25日(42歳没) |
死没地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ、コムナルカ射撃場[1] |
出身校 |
チフリス軍医学校卒業 共産主義アカデミー卒業[1] |
前職 | 軍医 |
所属政党 | ボリシェヴィキ |
称号 |
赤旗勲章(1919年) レーニン勲章(1935年) |
在任期間 | 1929年 - 1929年8月 |
在任期間 | 1929年8月5日 - 1930年8月5日 |
在任期間 | 1932年1月23日 - 1937年1月25日 |
在任期間 | 1937年2月5日 - 10月 |
在任期間 | 1921年4月 - 1921年 |
その他の職歴 | |
全連邦共産党(ボ)北カフカース地方委員会 第二書記 (1926年 - 1927年8月) |
ニコライ・フョードロヴィチ・ギカロ(ロシア語: Николай Фёдорович Гикало、1896年3月20日 - 1938年4月25日)は、ロシア帝国の革命家、ソビエト連邦の政治家。
生涯
[編集]1896年3月20日(ユリウス暦8日)に、ロシア帝国ヘルソン県オデッサの労働者階級に生まれた[2]ロシア人[3]。1915年にチフリス軍医学校を卒業し、同年から1917年まで軍医として従軍した[4]。同年7月からボリシェヴィキの党員となり、翌1918年3月からグロズヌイ市委員会議長および市ソビエト執行委員会議長、5月からソビエト軍司令官となり[4]、8月から11月にかけて同地で白軍コサック部隊との戦いを指揮した[2]。翌1919年にはボリシェヴィキ・カフカース地方委メンバーとなり[4]、1920年までテレク州とダゲスタン州でアントーン・デニーキンの軍と戦った[2]。1919年には赤旗勲章を授与され、1920年から翌1921年まではテレク州ソビエト執行委副議長も務めている[4]。
1921年からボリシェヴィキ山岳州委責任書記、同年(あるいは1923年[2])から1925年まで中央委南東局メンバー、1924年から翌年まで北カフカース地方委煽動・宣伝部部長、1925年から1927年8月まで同委書記並びに第二書記を歴任[4]。同年までは共産主義アカデミーでマルクス・レーニン主義を学んでいた[4]。1927年から翌1928年までは中央委中央アジア局組織部部長および局員を務めた[4]。1929年から翌1930年まではウズベキスタン共産党中央委書記であり[2]、1929年8月までは第一書記も務めている[4]。同月5日からは[4]レヴォン・ミルゾヤンの下で混乱した文化政策を立て直すためにアゼルバイジャン共産党中央委第一書記に任じられたが、結果を出すことができず翌1930年8月5日に退任した[5]。
1930年から翌1931年まで連邦共産党中央委組織・指導部副部長、1931年2月から翌1932年1月までモスクワ市およびモスクワ州委書記・組織部部長を歴任[4]。同月23日から1937年3月18日まで(実際には1月25日まで[6])は白ロシア共産党中央委 (be) 第一書記を務め、1935年3月には農業分野における功績を賞してレーニン勲章を授与された[4]。同国においては中央執行委員会および革命軍事ソビエトのメンバーも務め、またソビエト連邦中執委メンバーも務めた[1]。
1930年7月から1934年1月まで連邦共産党中央監査委 (ru) メンバー、同年2月から1937年10月までは連邦共産党中央委員候補[4]。同年2月から10月まではウクライナ共産党ハリコフ州委第一書記、同年3月から翌1938年1月までは同党中央委政治局メンバーであった[4]。しかし、1937年10月11日にはNKVDによって逮捕され、イギリスのスパイとの罪状により死刑判決を下された[1]。そして1938年4月25日に銃殺刑に処せられたが、1955年10月に連邦最高裁軍事参議会によって名誉回復がなされた[1]。
ギカロの名は、チェチェン共和国の村(ギカロ)やウラジカフカス (ru)、そしてミンスクの通りに残されている[1]。また、グロズヌイの人民友好広場 (ru) には、ガプル・アフリエフ (ru)、アスランベク・シェリポフとともにギカロの記念碑 (ru) が建てられている[7]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f Маракоў Л. У. (2004). "ГІКАЛА Мікалай Фёдаравіч". Рэпрэсаваныя лiтаратары, навукоўцы, работнiкi асветы, грамадскiя i культурныя дзеячы Беларусi. 1794-1991. Энцыклапедычны даведнік. Vol. III. Кнiга I. Мн.: Абрамовіч—Кушаль.
- ^ a b c d e Гикало // Газлифт — Гоголево. — М. : Советская энциклопедия, 1971. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 6).
- ^ Абубакаров С. (2004年5月7日). “В Грозном открыт памятник Дружбы народов”. Кавказский Узел 2016年9月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “Гикало Николай Фёдорович”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. knowbysight.info. 2016年4月20日閲覧。
- ^ Zülfüqarlı, Məhərrəm (2009年5月5日). “Ruhulla Əli oğlu Axundov”. 525-ci qəzet: p. 5
- ^ Иоффе Э. Г. (2007年8月15日). “Две короткие биографии”. Советская Белоруссия 2016年9月7日閲覧。
- ^ Байсултанов О. Х. [in ロシア語] (10 November 2010). Об утверждении Перечня памятников культуры и истории, расположенных на территории Чеченской республики, стоявших ранее на государственном учёте (Report). Постановление правительства Чеченской Республики. p. 1.
党職 | ||
---|---|---|
先代 クプリヤン・キルキシュ |
ウズベキスタン共産党(ボ)中央委員会第一書記 1929年 - 1929年8月 |
次代 イサーク・ゼレンスキー |
先代 レヴォン・ミルゾヤン |
アゼルバイジャン共産党(ボ)中央委員会第一書記 1929年8月5日 - 1930年8月5日 |
次代 ウラジーミル・ポロンスキー |
先代 コンスタンチン・ゲイ |
白ロシア共産党(ボ)中央委員会第一書記 公式には1937年3月18日まで 1932年1月23日 - 1937年1月25日 |
次代 ダニイル・ヴォルコヴィチ 代行 |
先代 セルゲイ・クドリャフツェフ |
ウクライナ共産党(ボ)ハリコフ州委員会第一書記 1937年2月5日 - 1937年10月 |
次代 アレクサンドル・オシポフ |
先代 なし |
ロシア共産党(ボ)山岳州委員会責任書記 1921年4月 - 1921年 |
次代 アレクサンドル・ノソフ |
先代 ボリス・ポゼルン |
全連邦共産党(ボ)北カフカース地方委員会第二書記 1926年 - 1927年8月 |
次代 ウラジーミル・イヴァノフ |
- ウズベキスタン共産党中央委員会第一書記
- 白ロシア共産党中央委員会第一書記
- アゼルバイジャン共産党中央委員会第一書記
- ウクライナ共産党中央委員会の人物
- ウクライナ共産党ハリコフ州委員会第一書記
- ロシア共産党(ボリシェヴィキ)山岳州委員会責任書記
- ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の軍人
- ソビエト連邦共産党中央監査委員会の人物
- ソビエト連邦共産党中央委員会の人物
- ソビエト連邦中央執行委員会の人物
- 第一次世界大戦期のロシア帝国の軍人
- ロシアの軍医
- オールド・ボリシェヴィキ
- レーニン勲章受章者
- 赤旗勲章受章者
- 大粛清犠牲者
- ヘルソン県出身の人物
- 刑死したロシアの人物
- オデッサ出身の人物
- ロシア帝国の革命家
- ロシア革命の人物
- ロシア内戦の人物
- 1896年生
- 1938年没