ニコライ・ブルガーニン
ニコライ・ブルガーニン Николай Булганин | |
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ブルガーニンの肖像写真(1955年) | |
生年月日 | 1895年6月11日 |
出生地 |
ロシア帝国 ニジニ・ノヴゴロド |
没年月日 | 1975年2月24日(79歳没) |
死没地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ |
出身校 | 実科中学校 |
前職 | 警備員 |
所属政党 |
ロシア社会民主労働党・ボリシェビキ派 (1917年 - 1918年) ロシア共産党 (1918年 - 1925年) 全ソ連共産党 (1925年 - 1975年) ソビエト連邦共産党 |
称号 |
外国勲章 |
配偶者 | エレナ・ミハイロフナ |
子女 |
息子レフ 娘ヴェラ |
サイン | |
内閣 | ブルガーニン内閣 |
在任期間 | 1955年2月8日 - 1958年3月27日 |
最高会議幹部会議長 | クリメント・ヴォロシーロフ |
内閣 | マレンコフ内閣 |
在任期間 | 1953年3月15日 - 1955年2月9日 |
閣僚会議議長 | ゲオルギー・マレンコフ |
在任期間 | 1950年4月7日 - 1955年2月8日 |
閣僚会議議長 |
ヨシフ・スターリン ゲオルギー・マレンコフ |
内閣 | スターリン内閣 |
在任期間 | 1947年3月3日 - 1949年3月24日 |
人民委員会議議長 | ヨシフ・スターリン |
内閣 | ブルガーニン内閣 |
在任期間 | 1937年7月22日 - 1938年9月17日 |
中央執行委員会議長 | ミハイル・カリーニン |
その他の職歴 | |
ソビエト連邦共産党 第18-20期政治局員・幹部会員 (1948年2月18日 - 1958年9月5日) | |
ソビエト連邦共産党 第18期政治局員候補 (1946年3月18日 - 1948年2月18日) |
軍歴 | |
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ソ連邦元帥の制服を着用するブルガーニンの肖像写真 | |
所属組織 |
赤軍 チェーカー 国家政治保安部 ソビエト連邦陸軍 |
軍歴 |
1917年 - 1918年 (赤軍) 1918年 - 1922年 (ВЧК・ГПУ) 1942年 - 1975年 (ソビエト連邦陸軍) |
最終階級 |
(1958年11月26日にソ連邦元帥号を剥奪され、大将に降格となった。なお名誉回復はされていない。) |
指揮 |
国防人民委員代理 国家防衛委員 ソビエト連邦軍事大臣 ソビエト連邦国防大臣 |
戦闘 |
・十月革命 ・ロシア内戦 ・第二次世界大戦 ・冷戦 |
ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ブルガーニン(ロシア語: Никола́й Алекса́ндрович Булга́нин、ラテン文字転写: Nikolai Aleksandrovich Bulganin、1895年6月11日 - 1975年2月24日)は、ソビエト連邦の政治家、軍人 [注釈 1]。党政治局員、軍事人民委員、第一副首相、ソビエト連邦国防大臣などの役職を歴任し、スターリン体制の中枢を担った。ニキータ・フルシチョフ時代前期にはソ連邦首相(閣僚会議議長)を務めた。軍人としての最終階級はソ連邦元帥だが、1958年に大将に降格となった。
ニジニ・ノヴゴロドに生まれたブルガーニンは、1917年にボリシェヴィキ(後のソ連共産党)に入党し、1年後には秘密警察チェーカーの隊員となった。ロシア内戦後の1931年には共産党幹部のラーザリ・カガノーヴィチの支援を受けてモスクワ市ソビエト議長に就任するまで、多くの職を歴任した。また、忠実なスターリン主義者であったブルガーニンは、ヨシフ・スターリンによる大粛清のさなかに共産党の幹部に昇進を果たし、1937年にはロシア共和国閣僚会議議長(ロシアの首相)と共産党中央委員に任命された。その1年後にはソ連副首相兼ソ連国立銀行総裁に任命された。第二次世界大戦中は職業軍人ではなかったが、前線に赴き、多くの赤軍の役職を歴任し国家防衛委員会の委員も務めた。1947年には、スターリンの後任として国防大臣(厳密にはスターリンの役職は軍事大臣であり、ブルガーニンは事実上ソ連初の国防大臣であった。)に就任し、ソ連邦元帥の軍事階級を授与された。1948年初めには政治局員となりソ連最高幹部の中枢を担い、スターリンの側近の1人としてスターリン体制の一役を担った。
1953年のスターリン死後、ブルガーニンはニキータ・フルシチョフを支持し、1955年にゲオルギー・マレンコフに代わってソ連邦閣僚会議議長(ソ連邦の首相)に就任した。当初はフルシチョフの盟友であったが、彼の政策に疑問を抱くようになり、ヴャチェスラフ・モロトフ率いる反対派(反党グループ)に加わる。しかしフルシチョフによる反党グループの党追放が始まり、ブルガーニンも失脚し(反党グループ事件)、1958年にはソ連首相を解任され、政治局からも追放された。引退を余儀なくされたブルガーニンは1975年に79歳で死去した。
来歴・人物
[編集]初期の経歴
[編集]1895年6月11日、ロシア帝国ニジニ・ノヴゴロドで中産階級の家庭に生まれる。父親のアレクサンドルはセミョーノフ市から50キロメートル離れたセイマ駅にあるパン製造工場で事務員として勤務していた[1]。1915年、ブルガーニンはニジニ・ノヴゴロドで電気技師見習いとして働き始め、1917年には実科中学校に学ぶが、ロシア革命を経て、ロシア共産党(ボリシェビキ)に入党した[2]。
1917年から1918年にかけては、ニジニ・ノヴゴロドのラスティアピンスク爆薬工場の警備員として働いた。
チェーカー入隊
[編集]1918年にチェーカー(KGBの前身)に入り、反革命の取り締まりに辣腕を振るう。ロシア内戦では赤軍に対する統制を行う全ロシア・チェーカー特別部に所属した。1918年から1919年にかけてはモスクワ・ニジェゴロド輸送チェーカー副委員長、1919年から1921年にかけてはトルキスタン戦線特別輸送作戦部隊長、1921年から1922年にかけてはトルキスタン軍管区輸送チェーカー部長、1922年からはロシア共和国国家政治保安部輸送情報部副部長など様々な役職を歴任した。
共産党幹部
[編集]内戦終結後の1922年から1927年にかけてはソ連国民経済会議電気トラスト理事、1927年から1931年にかけてはモスクワ電気工場長となった。1930年、同工場はソ連の工場の中で初めてレーニン勲章を授与された。ブルガーニンもまた、ソ連初のレーニン勲章授与者の一人となった。ニーナ・フルシチョワ(ニキータ・フルシチョフの妻)はこの工場の党委員会に勤務しており、フルシチョフ自身もこの工場を視察する委員会の責任者であった。このときから二人の信頼関係が始まり、それは1950年代半ばまで続いた。
1931年から1937年にかけてはモスクワ市ソビエト議長となり、モスクワにおける反右派闘争やモスクワ市改造計画を積極的に推進したことが機縁となってスターリンに認められる。1934年2月には全ソ連共産党第17回党大会で、中央委員候補に選出される。
1937年から1938年にかけてはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国人民委員会議議長(ロシアの首相)、1938年にソ連人民委員会議副議長(副首相)兼ゴスバンク総裁を歴任する。1939年にはソ連共産党中央委員に選出された。
第二次世界大戦
[編集]第二次世界大戦中は進んで前線指導に赴き、西部戦線・第2沿バルト戦線・第1白ロシア戦線で政治委員の最高責任者として活躍した。1944年12月、国防人民委員代理(国防次官)に転出し、スターリンを議長とする国家防衛委員会の委員となった。
1981年から共産党中央委員を務めたミハイル・スミルティウコフは当時のブルガーニンについて次のように語っている。
ブルガーニンは大将に昇進して以来、どこに行くにしても軍服を着用することを好んだ。彼は軍人としての性格はまったくなかったし辛辣さもなかった。しかし時折汚い言葉で罵ることもあった。もちろん戦略家でもなかった。覚えているのは、1941年に西部戦線の前線に来たときのことだ。ドイツ軍の爆撃機が私たちの頭上をモスクワに向かって、安定した音で飛んでいた。ブルガーニンは突然神経質になり、こう叫び始めた。「なぜ撃墜しないのか?」と。するとジューコフ(ソ連邦元帥ゲオルギー・ジューコフ)は言った。「ニコライ・アレクサンドロヴィッチ(ブルガーニンの名)、そんなに心配することはない!我々が撃墜し始めたら、彼らは我が軍の陣地を爆撃し始めるだろう。 後方にいる者に任せておけばいい。」と。
戦後の経歴
[編集]1944年から1946年にかけては国防人民委員副委員に就任し大将に昇進した。第二次世界大戦終了後、1946年3月にソ連軍事省第一副大臣を務め、政治局員候補に抜擢される。
1947年3月3日、ブルガーニンは軍事大臣に就任し、ソ連邦元帥号を授与された。この地位は、1941年以来、スターリンが直接就いていたものであるが、軍を指揮したことのない文民政治家であったブルガーニンを軍部のトップに任命したのは、戦後も軍に対する統制を維持し、戦時中に台頭した人気のある軍指導者(ゲオルギー・ジューコフやコンスタンチン・ロコソフスキーなどの職業軍人)の政治介入を避けたいというスターリンの意向によるものであった。ロシアの軍事百科事典によると、ブルガーニンは1945年5月に1,100万人いた陸海軍を、1948年までに287万4,000人まで削減した。陸海軍の戦時体制から平和への転換を直接監督したという[3]。また彼がソ連邦元帥に昇進したのは、1947年11月7日のパレードを前に、「元帥」キリル・メレツコフがパレードの指揮を執り、「陸軍大将」ブルガーニンがパレードを観覧するという微妙な状況が生じることに配慮するための措置によるものであった。
1948年、政治局員となる。第一次インドシナ戦争ではベトナムを支援した。
1950年4月7日にソ連閣僚会議第一副議長に就任し、スターリン不在の間、ブルガーニンが閣僚評議会議長代理(ソ連首相代理)を務めた。1951年2月16日、ソ連閣僚会議の下に軍産軍事局という別の組織が設立され、その議長もブルガーニンが任命された。しかし翌年10月18日にこの局は廃止され、その代わりに、ブルガーニンを委員長とした国防問題常設委員会が設置された。
1953年3月5日のスターリンの死後、閣僚会議議長に就任したゲオルギー・マレンコフの新政権ではヴャチェスラフ・モロトフ、ラヴレンチー・ベリヤ、ラーザリ・カガノーヴィチと共に閣僚会議第一副議長に就任して国防大臣を兼務した。フルシチョフの回想録によれば、これは晩年のスターリンの指名だったという。なお、ブルガーニンが委員長を務めていた国防問題常設委員会は廃止された。
同年9月にフルシチョフが党第一書記に就任して実権を掌握すると、1955年にマレンコフを閣僚会議議長から解任した。ブルガーニンはマレンコフの後任の閣僚会議議長に就任し、フルシチョフと「B・Kコンビ」を組んだ。1955年5月にブルガーニンとフルシチョフはユーゴスラビアを訪問し、ヨシップ・ブロズ・チトー大統領に和解を申し入れ、スターリン時代に冷却化した両国関係を打開しようとした。次いでインド・ビルマ(現在のミャンマー)・アフガニスタン・イギリスを相次いで訪問し、平和共存外交を展開した。日本にも来日し、鳩山一郎首相と河野一郎農相がソ連を訪問し、日ソ共同宣言と日ソ漁業協定を締結した。内政面では1956年党大会で非スターリン化を推進した。スエズ危機ではフランス・イギリスへの武力行使を示唆した。
しかし、フルシチョフが推進する農業改革・工業管理の地方分権化や外交面での平和共存路線に対して、官僚やスターリン主義者の反撃が行われた。1957年6月、モロトフらいわゆる「反党グループ」がフルシチョフを第一書記から解任しようとした。フルシチョフは党中央委員会を招集し、逆にグループを倒すことに辛くも成功した。この頃既にフルシチョフと確執を持つようになっていたブルガーニンは、この反党グループ事件において積極的に関与し、彼の解任に賛同している。これが後に祟り、1958年3月27日に閣僚会議議長を辞任[4](解任)、閣僚会議議長には代わりに、クリメント・ヴォロシーロフの提案により、フルシチョフ自身が兼任した。同年3月31日にブルガーニンはソ連国立銀行理事長に任命され、再びゴスバンクの仕事に戻る。同年9月、幹部会員(政治局員からの改称)を解任・失脚した。ソ連邦元帥の階級も剥奪され、大将に降格となった。以後スタヴロポリの人民経済会議議長として過ごす。1960年から年金生活入りし、1961年には中央委員も解任された。
スミルティウコフは当時のブルガーニンについて次のように語っている。
タイに行った後のことだった。当時は指導者が海外から帰還すると会議を開き、旅の報告をするという手順が存在した。フルシチョフはなぜか先にタイからモスクワに飛んだ。そしてその後、ブルガーニンは別の飛行機に乗って帰ってきた。フルシチョフはブルガーニンを待たずに集会を開き演説を始めた。すると演壇に立っていたブルガーニンが突然現れた。会場は総立ちとなり拍手が鳴り響いた。誰もが二人は盟友だと思っていたが、フルシチョフはブルガーニンへの拍手から、まるで気が狂ったかのようになった。彼の顔は憤慨し、縮こまり、何も言わずに演壇を去り、テーブルに座った。もう彼らには友情はなかった。フルシチョフはブルガーニンを失脚させるまで仕事を休まなかった。ブルガーニンは他の閣僚と私を執務室に呼んだ。彼は泣きそうで、髭が震えていた。そして私を慰める言葉は何もなかった。 「お元気で、ニコライ・アレクサンドロビッチ」と私は言った。彼は元帥の制服を着てそこに立っていたが、実に情けない姿だった。フルシチョフはブルガーニンが元帥の階級をいかに大切にしているかを知り、すぐに彼を大将に降格させ、スタブロポリ人民経済会議議長に着任させた。
ブルガーニンは1960年2月に引退した。フルシチョフと仲違いしたブルガーニンだったが、クレムリンの会議宮殿で行われた1964年の新年の会合に招待され、そこでフルシチョフと会ったとされ、会話が弾み、一緒に祝宴を後にしたとさえ言われている[5]。
1975年2月24日に死去した。79歳没。ノヴォデヴィチ墓地に埋葬された。
家族
[編集]英語教師のエレーナ・ミハイロヴナ(旧姓コロヴィナ)と結婚。息子レフと娘ヴェラをもうけ、ヴェラはニコライ・クズネツォフ提督の息子と結婚した。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 職業軍人ではないが、1942年からは赤軍の陸軍中将の軍事階級を授与された。
出典
[編集]- ^ Андрей Сидорчик. Премьер Булганин: История неизвестного главы правительства СССР // Аргументы и факты, 11.06.2015. アーカイブ 2015年9月8日 - ウェイバックマシン
- ^ “Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898—1991”. 2018年2月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月20日閲覧。
- ^ “Булганин Николай Александрович”. Министерство обороны Российской Федерации. 2018年2月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年2月3日閲覧。
- ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、85頁。ISBN 9784309225043。
- ^ Валерий Бурт. Николай Третий // Свободная пресса, 11.06.2015. アーカイブ 2015年6月23日 - ウェイバックマシン
関連項目
[編集]公職 | ||
---|---|---|
先代 ヨシフ・スターリン |
ソビエト連邦軍事人民委員 第2代:1947年3月3日 - 1949年3月24日 |
次代 A・ヴァシレフスキー |
先代 ニコライ・クズネツォフ |
ソビエト連邦国防大臣 初代:1953年3月15日 - 1955年2月9日 |
次代 ゲオルギー・ジューコフ |
先代 A・ヴァシレフスキー | ||
先代 ゲオルギー・マレンコフ |
ソビエト連邦閣僚会議議長 第3代:1955年2月8日 - 1958年3月27日 |
次代 ニキータ・フルシチョフ |
- ソビエト連邦共産党中央委員会政治局の人物
- 全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会組織局の人物
- 第2回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第3回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第4回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第5回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第6回ソビエト連邦最高会議の代議員
- ソビエト連邦の首相
- ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の首相
- バシキール自治ソビエト社会主義共和国最高会議の代議員
- カレリア自治ソビエト社会主義共和国最高会議の代議員
- モスクワの政治家
- 第二次世界大戦期のソビエト連邦の軍人
- ソビエト連邦の国防相
- チェーカーの人物
- ソビエト連邦元帥
- 社会主義労働英雄
- レーニン勲章受章者
- 赤旗勲章受章者
- スヴォーロフ勲章受章者
- クトゥーゾフ勲章受章者
- 祖国戦争勲章受章者
- 赤星勲章受章者
- グリュンワルド十字勲章受章者
- 赤旗勲章受章者 (モンゴル)
- ヴィルトゥティ・ミリターリ勲章受章者
- ニジニ・ノヴゴロド県出身の人物
- ニジニ・ノヴゴロド出身の人物
- オールド・ボリシェヴィキ
- 1895年生
- 1975年没