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ニコル・アレント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ニコル・アレント
Nicole Arendt
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 同・ニュージャージー州
ソマービル
生年月日 (1969-08-26) 1969年8月26日(55歳)
身長 177cm
体重 68kg
利き手
バックハンド 両手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1991年
引退年 2003年
ツアー通算 16勝
シングルス 0勝
ダブルス 16勝
生涯通算成績 496勝302敗
シングルス 172勝131敗
ダブルス 324勝171敗
生涯獲得賞金 1,642,964 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 3回戦(1996)
全仏 4回戦(1997)
全英 3回戦(1996・97)
全米 3回戦(1995)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト4(1996)
全仏 ベスト4(1995・2002)
全英 準優勝(1997)
全米 ベスト4(1997)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全豪 準優勝(1996)
全仏 準優勝(1996)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 49位
ダブルス 3位

ニコル・アレントNicole Arendt, 1969年8月26日 - )は、アメリカニュージャージー州ソマービル出身の元女子プロテニス選手。キャリアを通じてダブルスに優れ、1997年ウィンブルドン女子ダブルス準優勝、1996年全豪オープン全仏オープン混合ダブルス準優勝を記録した。女子ダブルスでは、オランダマノン・ボーラグラフと組んで多くの好成績を出した。自己最高ランキングはシングルス49位、ダブルス3位。WTAツアーでシングルスの優勝はなかったが、ダブルスで16勝を挙げた。身長177cm、体重68kg、左利き。

アレントの家族は、父親は化学者、母親は教育コンサルタントで、きょうだいの他の3人も技術系の仕事に就き、スポーツ選手になったのはニコル1人だけである。彼女は1986年全米オープン4大大会に初出場したが、1988年から1991年までフロリダ大学の学生テニス選手としてプレーし、1991年からプロテニス選手になった。1993年5月、「インドネシア・オープン」で女子ツアー大会のダブルス初優勝を果たし、1994年に同大会で2連覇を達成する。最初期によく組んだパートナーは、オーストラリアのクリスティン・ラドフォードであった。1995年4月、アレントはマノン・ボーラグラフオランダ)とペアを組んで3週連続決勝進出を果たし、うち2つの大会で優勝した。このボーラグラフが、アレントにとって最も息の合うダブルス・パートナーとなり、2人はボーラグラフが現役を引退する2000年までペアを組み続けた。1995年はアレントにとって躍進の年になり、全仏オープン女子ダブルスでリンゼイ・ダベンポートと組んで準決勝に進み、ウィンブルドンではパム・シュライバーとのペアでベスト8に入った。全米オープンではシングルスで初の3回戦に進み、ジーナ・ガリソンに 0-6, 6-7 で敗れた。

アレントは1996年、混合ダブルスで同じアメリカのルーク・ジェンセンとペアを組み、全豪オープン全仏オープンで2大会連続の決勝進出を果たした。しかし、全豪オープンはマーク・ウッドフォードオーストラリア)&ラリサ・ネーランドラトビア)組、全仏オープンはハビエル・フラナパトリシア・タラビーニ(ともにアルゼンチン)組に敗れ、2大会とも準優勝に終わった。全豪オープンでは、シングルスでメアリー・ジョー・フェルナンデスとの3回戦に進み、ボーラグラフと組んだ女子ダブルスで準決勝に進む。ウィンブルドンでは、シングルスでシュテフィ・グラフとの3回戦に勝ち進んだ。1997年もシングルス・ダブルスともに実り多い年となり、全仏オープンでシングルス自己最高成績の4回戦進出、ウィンブルドン女子ダブルス準優勝があった。全仏オープンのシングルスでは、3回戦で第4シードのヤナ・ノボトナを破った後、初進出の4回戦でルクサンドラ・ドラゴミルルーマニア)に 1-6, 1-6 で完敗した。ウィンブルドンの女子ダブルス決勝では、アレントとボーラグラフは第1シードのジジ・フェルナンデスナターシャ・ズベレワ組に 6-7, 4-6 で敗れた。アレントは4大大会優勝のチャンスを、3度とも逃したことになる。この後彼女は左肩を痛め、1998年のシーズンを棒に振った。ブランクの間、彼女は再びフロリダ大学に通った。

1年間のブランクを経て、アレントは1999年全豪オープンでツアーに復帰し、再びボーラグラフとのダブルスで活躍した。この年は、全仏オープンを除く3大会で女子ダブルスのベスト8に入っている。2000年全豪オープンの予選敗退を最後に、アレントはシングルスから撤退した。2000年の女子テニスツアー年間最終戦「チェイス選手権」で、アレントとボーラグラフは初めての決勝戦に勝ち進んだが、最後はマルチナ・ヒンギスアンナ・クルニコワ組に 2-6, 3-6 のストレートで屈した。長年の親友ボーラグラフは、この大会を最後に36歳で現役を退いた。

ボーラグラフの引退後、アレントは2001年1月-3月まで日本杉山愛とペアを組み、全豪オープン女子ダブルスで5年ぶり2度目の準決勝に進出した。アレントは杉山とのコンビで2勝を挙げた後、4月からカロリネ・ビスオランダ)と組んだが、このコンビはあまり成功しなかった。2002年、アレントはすべての大会でリーゼル・フーバー(当時南アフリカ国籍)とペアを組み、年頭のニュージーランドオークランド大会で優勝した後、全仏オープンで7年ぶりの準決勝に進んだ。1月のオークランド大会が、アレントの現役最後の優勝になった(16勝目)。ニコル・アレントは2003年6月、ウィンブルドン女子ダブルス1回戦敗退を最後に33歳で現役を引退した。

外部リンク

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