ニューヨーク山中商会
5番街680番地の店舗 | |
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク市5番街680番地 |
設立 | 1934年 |
業種 | 小売業 |
事業内容 | 古美術の販売 |
代表者 | 白江信三(接収前) |
発行済株式総数 | 4,000株(1942年)[1] |
売上高 | 203,000ドル(1941年度)[2] |
総資産 | 523,023ドル(接収時)[3] |
主要株主 | 山中商会 |
関係する人物 | 山中定次郎 |
ニューヨーク山中商会(ニューヨークやまなかしょうかい、Yamanaka & Co., Inc., New York)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市に存在した美術商。大阪市の美術商山中商会最初の海外支店として1894年山中定次郎によって開業し、1917年5番街の一等地にギャラリーを構えたが、太平洋戦争開戦に伴い接収され、1944年閉店した。
歴史
[編集]開業
[編集]1894年11月、大阪の美術商山中家から山中定次郎、山中繁次郎がエンプレス・オブ・チャイナ号でアメリカ合衆国に渡り[4]、11月3日ニューヨーク西27丁目4番地に仮支店を開設したことに始まる[5]。1895年2月、芸術関係の店が集まるマディソン街から程近い西27丁目2番地に移転した[6]。
1896年3月12日アメリカン・アート・アソシエーションで「希有な漆器、絵画、版画と磁器」と題した競売を行い[7]、1898年9月か10月頃5番街254番地に進出した[8]。
最盛期
[編集]1912年山中商会が北京で愛新覚羅溥偉から買い取った仕入品を、ニューヨーク店は1913年2月27日から3日間アメリカン・アート・ギャラリーズで「中国の恭親王の卓越したコレクション」と題した競売にかけ、メディアの注目を集めた[9]。
1917年11月、5番街の中でも一等地のアッパー・フィフスアベニューのロックフェラービルに移転した。得意客のジョン・ロックフェラー2世が設計した7階建のシャトー風建物で、聖トマス教会とトゥオンブリー邸の間にあった[10]。
戦争による閉店
[編集]1930年代から中国情勢の悪化、世界恐慌によって資金繰りが悪化した[11]。1932年11月、12月には5番街664番地の旧A・Aヴァンタイン社店舗でバーゲンセールを行った[12]。1934年ニューヨーク州法により株式会社に改組した[13]。
1941年日米関係の悪化に伴い大阪本社等と対応を検討中、7月21日日本の仏印進駐を受けて在米日本資産凍結令が出され、日本への資産の移動、商品の仕入れ等が不可能となった[14]。8月12日大阪本社では、ボストン、シカゴ店をニューヨーク店に一本化することが決議された[15]。一方、ニューヨーク店では、会計コンサルタントウィリアム・S・シャーウッドは受託人への資産管理委託、弁護士レイモンド・A・ビッドウェルは役員、株主をアメリカ国民とすることを提案したが、いずれも現実的でなく、なす術がなくなった[16]。
12月7日真珠湾攻撃が勃発し、即日財務省の管理下に置かれ閉店[17]、1942年1月19日清算のため再開店したが[18]、4月25日再閉店した。6月16日敵国資産管理人局の支配に移り、資産の清算が行われ[1]、1944年4月8日閉店した[19]。
残りの在庫は5月から6月にかけてパーク=バーネット・ギャラリーズで競売にかけられ[20]、1946年1月法人は解散した[21]。旧店舗にはガラス製品等を扱うアルフレッド・オーリック社が入居した[21]。
戦後の店舗
[編集]解散後、元店員クレア・マクレディはパーク街482番地に店を開き、戦後山中商会に再出店を持ちかけ、1952年8月4万ドルで買収したが[22]、1965年秋古参社員A・セオドア・テーバーの死去後休業状態になり[23]、1966年9月30日閉店した[24]。
関連人物
[編集]- 山中定次郎 - 初代店長。山中吉兵衛養子。
- 山中松治郎 - 山中吉郎兵衛養子[6]。
- 牛窪第二郎 - 2代目店長。元内務官僚。現地採用か[25]。
- 森田太三郎 - 大阪から派遣された。ボストン店開店に伴い移籍した[6]
- 田中吉次郎 - 一時期店長[7]。
- 白江信三 - 四代目山中吉兵衛婿[26]。
- 林愛作 - 5番街移転頃入社。1909年帰国し帝国ホテル支配人[26]。
- 瀬尾梅雄 - 戦後個人で美術商を営み、1998年没[27]。
- 岡島辰五郎 - 1912年修理部門に入社し、1918年日本美術商会を開業[28]。
- アレン・J・マーチャー - 接収後の取締役会長[17]。政府外から雇われた[29]。
- エドワード・H・パービックス - 接収後の社長。敵国資産管理人局員[29]。
- クレア・マクレディ - 接収後パーク街に開業。
- ナタリー・スコルニク - マクレディの下で働いた。
- 井上久四郎 - 戦後初代店長。旧ロンドン支店長[30]。1959年没[31]。
- 二代目山中六三郎 - 戦後2代目店長。幼名豊次郎[31]。
脚注
[編集]- ^ a b 朽木 2011, p. 242.
- ^ 朽木 2011, p. 249.
- ^ 朽木 2011, p. 348.
- ^ 渡辺 1939, p. 6.
- ^ 朽木 2011, pp. 57–58.
- ^ a b c 朽木 2011, p. 66.
- ^ a b 朽木 2011, p. 125.
- ^ 朽木 2011, pp. 75–76.
- ^ 朽木 2011, pp. 139–141.
- ^ 朽木 2011, pp. 147–151.
- ^ 朽木 2011, p. 179.
- ^ 朽木 2011, pp. 183–184.
- ^ 朽木 2011, p. 180.
- ^ 朽木 2011, p. 217.
- ^ 朽木 2011, p. 219.
- ^ 朽木 2011, pp. 223–225.
- ^ a b 朽木 2011, p. 228.
- ^ 朽木 2011, p. 234.
- ^ 朽木 2011, p. 265.
- ^ 朽木 2011, p. 268.
- ^ a b 朽木 2011, p. 279.
- ^ 朽木 2011, pp. 286–287.
- ^ 朽木 2011, p. 296.
- ^ 桑原 1967, p. 162.
- ^ 朽木 2011, p. 67.
- ^ a b 朽木 2011, p. 126.
- ^ 朽木 2011, p. 286.
- ^ “岡島辰五郎の足跡”. 福井県立美術館. 2015年11月15日閲覧。
- ^ a b 朽木 2011, p. 244.
- ^ 朽木 2011, p. 287.
- ^ a b 朽木 2011, p. 295.
参考文献
[編集]- 朽木ゆり子『ハウス・オブ・ヤマナカ 東洋の至宝を欧米に売った美術商』新潮社、2011年。
- 桑原住雄「世界一の東洋古美術商山中商会盛衰記」『芸術新潮』第18巻第1号、1967年1月。
- 渡辺源三『山中定次郎翁伝』株式会社山中商会故山中定次郎翁伝編纂会、1939年 。