ノーサンプトン条例
ノーサンプトン条例(英語: Assize of Northampton)は、1176年にイングランド王ヘンリー2世が発布した条例。内容は1166年のクラレンドン条例に概ね基づいており、ヘンリー2世が行った一連の施策のうち、騎士賃借人の権利を固め、すべての土地の所有を王法に従わせ保証するものであった。1176年1月ノーサンプトンで行われた議会で可決されたと考えられている。
概要
[編集]クラレンドン条例に従って陪審員が提出(プレゼントメント)する犯罪を確認し、犯罪の一覧に放火と偽造を追加した[1]。また、犯罪者の右手を切り落とすなど、新たな厳罰が定められた。ヘンリーの息子リチャード(the Lionhearted)、ジェフリー(後のブルターニュ公ジョフロワ2世)、ジョン(Lackland)が起こした1173年から1174年の反乱(Revolt of 1173–74)のときと同様に、条例は城に関する項目(8と11)だけでなく、広範囲な忠誠の誓い(項目6)を含め、特に「司法官は城が破壊されたものは完全に破壊される」としている[2]。
条例は、巡回する司法官の再編成と関連づけられており、全国を巡回するよう任命された6つの司法官団に対する指示を盛り込んでいる。廷吏と保安官は、その利益について責任を負い、盗賊を拘束する権限を与えられた[3]。第7項では、重要な新法が導入され、主に国王が特定の事件を法廷に提訴する権利を持つようになった。また、ノーザンプトン条例はセズィン[注釈 1]とディセズィン[注釈 2]の問題に関する情報を含む最初の公式文書であり、後のモール・ダンセストル条例(Assize of mort d'ancestor=「先祖の死条例」)と新ディセズィン条例(Assize of novel disseisin)を先取りしたものである[4]。
条例発布以降、王室の収入は大幅に増加したが、これは司法のエイア[注釈 3]による影響を反映したものであった[5]。ジョージ・マコーリー・トレヴェリアンは、「司法官は、王の平和の執行のみならず、王の歳入の徴収があり非常に忙しかった。この2つは同じ活動の表裏一体だったのです」としている[6]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ G. O. Sayles, The Medieval Foundations of England (London 1967) p. 336
- ^ Quoted in D. Baker ed., The Early Middle Ages (London 1966) p. 151
- ^ D. Baker ed., The Early Middle Ages (London 1966) p. 151-2
- ^ J. R. Tanner ed., The Cambridge Medieval History (1926) p. 586
- ^ H. G. Richrdson, The English Jewry under the Angevin Kings (London 1960) p. 64
- ^ G. M. Trevelyan, History of England (London 1926) p. 161