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ノート:おおかみこどもの雨と雪

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主題への言及がない情報源を出典とする記述について

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現在、主題への言及がない情報源(1234)を出典とした情報が掲載されていますが、この記述の除去を提案します。理由は、情報と主題との関連が見出せず、この情報が記事に役立つものではないと考えるためです。2012年8月24日 (金) 13:39 (UTC)の版の要約には「比較」という言葉が出てきていますが、これもWikipedia:独自研究は載せないの「未発表の分析」に当たるもので、掲載理由としては不適なものと考えます。--彼方陣会話2012年8月24日 (金) 14:59 (UTC)[返信]

Aという情報とBという情報を単に並べることを独自研究とは言いません。Wikipedia:独自研究は載せないを改めてよく読み理解に努めてください。独自研究の典型としてはそのAとBとの間に(独自の)解釈を加えるようなものであり、情報を並べただけで独自研究となるなどという「誤解」を適用すれば、複数の出典を用いた記事は例外なく独自研究となってしまいます。異なる評価基準や異なる採点者なら独自研究とも言えるでしょうけど、当然ながらそういった稚拙なミスがある訳でもありませんし、作者の前作や作風との比較は作品の評価手法としてはごく普通でしょう。ということで、差し戻しておきます。--氷鷺会話2012年8月26日 (日) 15:58 (UTC)[返信]
今回の編集が単なる併記であり、それのみで独自研究とは判断できないことは分かっておりました。私の1つ前のコメントはあくまで「『比較』という言葉」は主題への言及がない情報源を使う根拠にならないという考えを述べたもので、実際に比較が行われているかについては言及していません。そういった評価手法があると考えていることは分かりましたが、その手法と情報源内の批評との直接の関連が定かでなく問題の解決に至っていないため、現段階での差し戻しは不適だと考えます。--彼方陣会話2012年8月27日 (月) 01:34 (UTC)[返信]
報告および コメント ノート:おおかみこどもの雨と雪/過去ログ1#出典皆無の件における議論に対するコメント依頼と同時にこの節の議論へのコメント依頼も行いました[1]Wikipedia:独自研究は載せないには冒頭文に「独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです。」と、わざわざ太字で記事の記述と出典の関連性を要求する文言がありますので、関連性はおろか本作への言及すら一切ないこれらのソース[2][3][4][5]のみを出典として記述することは明白にWikipedia:独自研究は載せないが定義するところの独自研究に該当すると思います。また彼方陣さんが指摘する氷鷺さんによる差し戻しですが、氷鷺さんはWikipedia:コメント依頼/氷鷺会話ページにおいて散々指摘を受けている最中にこの記事において差し戻しを連発し結果記事の保護・半保護といった被害を発生させていますので、これ以上続くようであれば編集合戦を繰り返す利用者として投稿ブロック依頼の提出やWikipedia:管理者伝言板/投稿ブロックへの通報を検討すべきだと思います。--Henares会話2012年8月31日 (金) 12:28 (UTC)[返信]
当該記述は評者による同一の監督への作品評価が下がった、ということが具体的に理解できる情報として本項目にとって有益なものだと思います。『おおかみこども』の評価と他2作との評価が併記されることで特定の観点や項目執筆者の何らかの主張が推進されるとは考えられませんから独自研究には当たらないでしょう。お二方はWP:NORの冒頭の特定の一文のみを取り出すのではなく、続く本文で具体的にどういったものが問題とされているのか、というところまできちんと把握していただきたいと思います。この方針がそもそも何のためにあるのか、というところまで考えずに文の表面上の意味だけに捕らわれてはただの「法律家ごっこ」になってしまいます。--頭痛会話2012年8月31日 (金) 15:27 (UTC)[返信]
そもそも「当該記述は評者による同一の監督への作品評価が下がった」ということは、映画作品の評価ではなく監督の評価ですので、この項目ではなく細田守に書かれるべきことだと思いますので、個人的にはやはり除去すべきだと思います。しかしせっかくコメント依頼を行いましたので、これからコメントくださる第三者の皆さま方(私自身も第三者ですが)の大半が除去すべきでないとお考えならばそれに従った方がよいとも思います。ただし、少なくともこの議論において合意形成がなされるまでの間に出典に本作との関連性が明示されていない文章をこれ以上加筆したり、この記述を除去したり、あるいは今以上に何らかの差し戻しを行うなどといった行為は、編集合戦をさらに激化させかねない共同作業に不向きな行為だと思います。こうした議論がなされていることをご存じの方はどなたも編集合戦の予防のため慎重な編集をお願いしたいと思います。--Henares会話2012年9月1日 (土) 02:11 (UTC)[返信]
まず議論を続けるうえで確かめておきたいことですが、冒頭で述べてある通り除去提案の理由の主たるものは「この情報が記事に役立つものではないと考えるため」で、独自研究かどうかは議論の上では枝葉の部分です。したがって、「独自研究に当たるかどうかについて」と題されたコメント依頼を、議論の結論を左右するほどの材料として扱うのは不適だと考えます。
これを踏まえて、議論の主部である「情報として…有益なもの」かどうかについて頭痛氏から挙げられている意見ですが、70と40という数字を見て「下がった」と判断することは独自研究に当たるものだと思います。確かに、併記という手段を使うことでその独自研究が表に出ることは避けられると思います。しかし、載せたい情報と、「評者による同一の監督への作品評価」という裏事情との関連がその情報源内で確認できない以上、仮説に基づいて情報を引き立てていることになり、「描写を平等に扱」っていない状態(Wikipedia:中立的な観点)だと考えます。この引き立てを排して判断すれば、挙げられている4資料内の情報の、本記事にふさわしい記述量はゼロであると考えます。--彼方陣会話2012年9月1日 (土) 08:25 (UTC)[返信]
同じ評価方法による点数について、勝手な憶測を展開させて「描写を平等に扱っていない状態」と判断するほうがよほど独自研究でしょう。また、本作について「オタクアニメ臭」を繰り返し指摘していることから、この評論家が「ただオタクアニメに対して批判的」という誤解を防ぐ目的からも、過去2作の評価について簡単に言及することは適切かつ必要なことだと考えます。--氷鷺会話2012年9月1日 (土) 09:11 (UTC)[返信]
いや、「下がった」と言っているのはこの場で私がそう言っているというだけのことですので。70と40という数字を並べて「このように非常に評価が下がった」とか書けば独自研究に抵触するかもしれませんが、本文にそう書かれているわけではありません。独自研究以前の話として有用な情報と考えられるということは最初に述べました。同じ評論家が同じ監督の前作を70点と評価したということは堂々と公表されている事実であって裏事情でもなんでもありませんし、それらの情報を併記することの間に項目執筆者の解釈の入る余地があるとは思えません。いま「仮説を立てて」なにかを述べているのは彼方陣さんであると思います。--頭痛会話2012年9月1日 (土) 10:01 (UTC)[返信]
報告 彼方陣さんのご意見を踏まえコメント依頼の依頼文を「後者はおおかみこどもの雨と雪#評価に記述される一部の文章がこの項目に必要か否かについて。」と変更しました[6]。「この依頼の依頼内容はどなたも適宜修正していただいて結構です。」とも書いておきましたので、「他者発言の改竄」などと口うるさいことを言われることもないでしょう。もし現在の依頼文でも何か不都合があればどなたも再度依頼文を変更して頂いて結構です。--Henares会話2012年9月1日 (土) 12:24 (UTC)[返信]
報告Henares氏のコメントを受けまして、当初からの提案内容通りになるように依頼文の変更を行いましたので報告します。
現在までに記載に値する理由として挙げられている、『おおかみこどもの雨と雪』と『サマーウォーズ』・『時をかける少女』の監督が同一であること、この3作品を同一の批評家が批評していること、その批評において同一手法が使われていること、批評結果に差異があることですが、これら全ては4資料内では言及されていない事情です。したがって、こういった事情を4資料内の情報と関連付けて考えることが不足なく外部の資料による裏付けに基づいているとは今のところ判断できません。掲載が希望されている情報が有用かどうかは、4資料内の情報のいずれかに言及した資料を提示したうえで意見していただきたく思います。--彼方陣会話2012年9月2日 (日) 06:21 (UTC)[返信]
「『おおかみこどもの雨と雪』と『サマーウォーズ』・『時をかける少女』の監督が同一であること、この3作品を同一の批評家が批評していること、その批評において同一手法が使われていること、批評結果に差異があること」という関係を確認するために「そのことが述べられている」資料を探す必要はありません。同一の評者がそれぞれ同一の監督による作品について述べていること、それらが同一の媒体に同一の点数方式で掲載されていること、「40点」が「70点」とは異なる点数であること、は「そのことが述べられている」資料を確認しなければわからないようなことではありませんので。「超映画批評」という同じ媒体の複数のページを閲覧すればなんら解釈を経なくても確認できるようなことを「判断できない」などと言い張るのはやめてください。我々は5歳児のために記事を書いているのではありませんし、そういった態度はWikipedia:独自研究は載せないの方針とは何の関係もありません。--頭痛会話2012年9月2日 (日) 08:58 (UTC)[返信]
私の要望コメントの文面が、書き記していない申し出を読み手の中に生ませてしまっているものとお見受けしました。以下に元来の意図がより具体的に伝わるように書き換え、改めてお願いをいたします。現在、『時をかける少女』・『サマーウォーズ』の批評ページ4つと、『おおかみこどもの雨と雪』の批評ページ、この両方を合わせて使って、前者を出典とした情報を本記事に記載する理由が述べられています。しかし、『おおかみこどもの雨と雪』の批評ページには、他のページに『時をかける少女』・『サマーウォーズ』の批評が存在することやその批評内容には言及がありません。つまり記載理由の材料に使われている資料の1つに、記載したい情報が関与して著されたかどうかが分からないものがあり、それが確かめられないままになっているので、その穴を埋めるためにさらなる外部の資料によって裏付けするということになります。そこで、私がお願いしているのは「細田守監督作品……70点を付けている」(おおかみこどもの雨と雪#評価より)という情報と、『おおかみこどもの雨と雪』の批評ページで為されている批評、この両方を結びつけて述べている資料を新たに挙げてもらいたいということです。--彼方陣会話2012年9月6日 (木) 06:33 (UTC)[返信]
あなたの言っていることについて特に誤解はしていません。理解したうえで間違っていますと述べています。解釈を記載するにはその解釈の裏づけとなる資料が必要ですが、「ある情報を記載する理由」に対して同じような資料が必要、などという方針はありません。あなたの思い込みです。当該記述の主題との関係性は「裏づけとなる資料」を必要とするような性質のものではありません。--頭痛会話2012年9月6日 (木) 09:31 (UTC)[返信]
掲載理由とは、情報が記事に与える効果を編集者に感じさせる原因となったものです。「併記することによって理解が深まる」等という効果があると考えるに至った理由に対して、資料で裏打ちを行うことは、編集によって作られる状態が編集者の裁量や期待のみに基づいた部分のないものであることを示すことになります。出典では『おおかみ……』へ言及せずに行われた『時……』および『サマー……』の批評を、ウィキペディアでは『おおかみ……』を解説する情報として記述するわけですから、外部の資料よりも別作品の情報を主題の作品と深く結びつけて扱うという、Wikipedia:中立的な観点に反する状態を作り出すものと考えます。また、公表者や出自となるサイトを同じくする資料であっても、その中の情報同士に必ずしも関係性があるとは限らないと思います。--彼方陣会話2012年9月20日 (木) 17:21 (UTC)[返信]
あなたの言う『その中の情報同士に必ずしも関係性があるとは限らない』という主張自体が独自研究というか、それですらない、根拠もない取るに足らない憶測です。同一人物による同一サイト、同一方式の点数評価について、これ以上憶測で「関係性がないかもしれない」などと主張することは止めてください。小学校低学年が見ても「同じひとが、同じサイトで100点満点で採点していて、点数がちがう」というのは理解できますし、それを示せというのは、あなたがどう足掻いたところで認められない、純粋に屁理屈や駄々の類です。ある都市(※市域に変更なしと仮定)の人口について、2010年国勢調査の値とともに2005年、2000年のそれを並べることについて異議をとなえる、そんなお話です。--氷鷺会話2012年9月20日 (木) 18:00 (UTC)[返信]
共通しているものとして挙げられている事項が主題に関連する要素と掲載が希望されている情報に関連する要素を両方持ち合わせている、ということは事実として検証可能な状態にありますが、その持ち合わせの内容のいずれもそれぞれの事項の一面として存在しているものであると思います。出典となる資料でそれらの一面同士の脈絡が記されていないのであれば、他資料で発表されている方の一面は編集者が任意に選んで重きを置くほかないものであり、掲載理由への活用は不適であると考えます。--彼方陣会話2012年10月20日 (土) 16:47 (UTC)[返信]
(インデント戻す)彼方陣さんの2012年10月20日 (土) 16:47 (UTC)のコメントはなにを言っているのか日本語として理解できません。どちらにしろ「掲載する理由に出典による裏づけが要る」というような、方針文書のどこにもない独自の主張を彼方陣が自説の根拠としている以上、さらに議論をつづける意味はないと思います。このうえ議論を続けてもこの記事にとって意味のある何らかの生産的な結論が得られるとは思えません--頭痛会話2012年10月25日 (木) 13:29 (UTC)[返信]
うーん、はたして何を言っているのでしょうね。最初から無茶苦茶なことしか言っていませんでしたが…。どう足掻こうが、彼方陣さんの主張は認められることはないし、検討の余地もなければ相手をする意味もないのですから、そろそろお仕舞いにしましょう。--氷鷺会話2012年10月25日 (木) 17:24 (UTC)[返信]
2012年10月20日 (土) 16:47 (UTC)のコメントを言い換えます。『おおかみこどもの雨と雪』と『時をかける少女』の両方に対する批評が「採点方式が使われている批評」として外部の資料で述べられています。一方、『時をかける少女』も『おおかみこどもの雨と雪』も、それぞれ「採点方式が使われている批評」に当てはまる批評がされている映画の事例の1つとして別々に発表されているものであり、片方を理解すればもう片方の理解が直接深まるという形にはなっていません。現状、出典となっている『時をかける少女』の批評ページを、『おおかみこどもの雨と雪』の批評事例を引き合いに出して見ることが出来ているのは、編集者が思い付いた資料の中から特定の情報に独自に着眼するという過程を経た結果だと考えます。よって、『時をかける少女』の批評ページを『おおかみこどもの雨と雪』に直接関連するとする立場は外部に存在するものではないため、この立場から得られた知見を扱わずして書くことのできない記述は非中立的なものであり、編集者が記事に反映することはできないと判断します。このことは、着眼した部分が「細田守が監督をした映画が対象となった批評」・「ある特定の批評家が作成した批評」・「ある特定のサイトが公表場所として使われた批評」の場合でも、『サマーウォーズ』を片方に据えた場合でも同様です。--彼方陣会話2012年11月25日 (日) 14:03 (UTC)[返信]
この節の議論についてWikipedia:コメント依頼/彼方陣で引用しています。お手数をお掛けいたしますが誤認があればご指摘ください。よろしくお願いいたします。--Degueulasse会話2014年1月20日 (月) 15:38 (UTC)[返信]

公開規模に関する表記の一部削除について

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素人が勝手なことしてすみません。事後相談になります。

「43の国と地域」で公開予定、との記述がありますが、毎日新聞系の記事及びWikipediaのページと、それらを引用したと思われる記事以外では、公式な発表も含め「34」という数字が多く見られます。

また、日テレホールディングス第80期報告書(平成25年6月作成)では「45」、日本芸術文化振興基金の平成24年度助成事業事例集(平成25年9月1日発行)では、打診した数を基にしているのか「80」との記述も見られます。

実際、公開される国と地域は時間の経過とともに増えていくものですから、現時点では45かもしれませんし、80かもしれません。しかしながら、どの時点でどの数字が正確か、断言するには情報が少ないと思います。

逆に、「34の国と地域」という表現は複数の場所で見られ、内訳もはっきりしているので信憑性は高いと思います。(韓国、台湾、香港、マカオ、タイ、シンガポール、マレーシア、インドネシア、ブルネイ、フランス、スペイン、ポルトガル、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ、ドイツ、ポーランド、イタリア、ギリシャ、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、スロヴェニア、ブルガリア、ルーマニア、チェコ、スロヴァキア、オーストリア、ハンガリー、スイス、ノルウェー、アイスランド、オーストラリア、ニュージーランド)

このことから、「現状では」この記事においては、2012年6月18日のジャパンプレミアで発表された「34」という数字を記載しておくのが適切ではないかと考えます。いずれ正式な発表があればその時「世界○○の国と地域で公開された」という表現に置き換えれば良いのではないでしょうか。

また、続いての「50プリント」、「100館に迫る公開数」という表現は、あくまでも個人(セールス担当者、記者)の予想であり、(Wikipediaフランス語版には「49 copies」とありますが、)実際にどの程度であったか、はっきりと示す資料がないことと、可読性向上の観点から、省いたほうがよいと考えました。

なにぶん、細部の編集以外の編集は初めてですので、大きな見落とし・誤認等があるかもしれません。 今後のためにも、この件について皆様のご意見を伺い、勉強させていただきたいので、ご指導よろしくお願いします。 --HogieNimura会話2013年12月14日 (土) 15:37 (UTC)[返信]