ノート:イボア
初版作成にあたって
[編集]本文注釈でもふれましたが、イボアの現役時代の競走成績について、日本語でまとまって読めるほぼ唯一の文献は『十勝の産馬』です。この本は1915年=イボアが十勝種馬牧場でバリバリの現役だった頃に出版されており、おそらく当時の英語の原典(成績書、血統書)をもとに書かれているのだろうと思います。しかし、注釈で書いたとおり、この『十勝の産馬』でのイボアの競走成績の説明には明らかな誤りがあったり、他の記録と照合すると全然一致しなかったりします。たとえば、グレートジュビリーHを勝った時のイボアの斤量を150ポンドとしているのですが、150ポンドというのは65キロであり、クラシックを勝ったわけでもない、大レースを勝ったわけでもないし、他の出走馬の実績・雲量と比べても明らかに重すぎます。他の記録では105ポンドになっており、おそらく150ポンドというのが何かの間違いでしょう。また、「Walk Over」を障害飛越と訳していたり(正しくは「単走」)、シティアンドサバーバンハンデの着順など、他の記録と不整合を起こしています。また、この時代の文献を読んだことがある方ならわかると思いますが、現代文に比べると極端に読点が少ないため、一文がとても長く前後の節との関連がよくわからない、何を言っているのかよくわからない部分が正直あります。これだけアテにならない以上、他の部分にも疑問視しながら読むべきだろうと思いますが、他の英文献(もっぱら当時の新聞記事)と照合しながらある程度確認できたものだけを書いています。
また、後世の多くの日本語文献では、イボアが『2000メートル2分のレコードを出した』旨の記述があります。しかしこれだと具体的なレース名などが特定できていません。そもそもイギリスではメートル法で競馬はやりませんし、たぶん、グレートジュビリーハンデの“約2011メートルを2分2秒3/5”が不正確に広まったものだろうと思います。なので、『イボアが2000メートル2分のレコードを出した』という事を書いた日本の出典はたくさんありますが、これは本文には記載しませんでした。
産駒の成績のうち、帝室御賞典は細字、連合二哩ほかその他の重賞を太字にしてあります。知名度から言えば帝室御賞典のほうが連合二哩よりはるかに上でしょうが、連合二哩は明らかにチャンピオン決定戦ですが、イボア産駒が勝った時代の帝室御賞典は新馬戦を勝ったばかりの馬が2走目でころりと勝っちゃうような中距離戦です。(統一されてからの年2回制になった帝室御賞典はチャンピオン戦です。)
参考文献はたくさん書きましたが、私は本当にこれらを全部読んだ上で書いています。(10年かかりました)特に、種牡馬経歴の節なんかでは、「しかし明治の中頃になると、在来馬の改良が実際にはあまり進んでいないことが、次第に明らかになってきた。」というようなことをサラッと書いていますが、要するにこれらの文献をトータルするとそうなるということでして、どこかの文献に一行でそう書いてあるということではありません。端的には「日本競馬史」「日本馬政史」あたりの前半数巻を読んでいただくと、要するにそういうことが書いてあるわけですが、それだけでも5000ページぐらいにはなるはずです…。国立種馬牧場の設立趣意書の序文にそのあたりのことが割と端的に出ていたと思いますが、設立趣意書がどこに出ていたかはもうわかりません。--零細系統保護協会(会話) 2013年11月13日 (水) 03:13 (UTC)