ノート:エネルギー
2003年~のコメント
[編集]電力がエネルギー源で新エネルギーと並列で新エネルギーに太陽光発電があるのは変ですねぇ。 Kozawa 09:23 2003年10月24日 (UTC)
ふむ〜。単純に一次エネルギーを列挙してから、 「新」エネルギーと呼ばれるものはをその後リストするのがよいと思う(重複してもいいから)。 「新エネルギー」という言葉はよく知らないけど、なぜ「新」なのかを言わなきゃならないから、現代の技術(何でも電気に変換しよーとゆう)と、現代(とゆうか日本)が化石燃料と原子力の時代だという背景も述べる必要あり。
あと、どのエネルギーがどのような技術で別なエネルギーに変換し得るかということも書く必要あり。 --HarpyHumming 13:55 2004年3月12日 (UTC)
- 新エネルギー(曖昧な用語ではあるが)を検索したいのにこの項目に転送され大変迷惑です。(TAK)
- 何がどのように迷惑なの書かなければ対処の仕様も無いよyhr 2005年1月23日 (日) 04:55 (UTC)
物理学におけるエネルギーについて
[編集]まあ、定義するのが難しい用語であるとは思いますけど、現状の定義はちょっと…
たとえば熱的死を迎えた宇宙に残っている熱エネルギーは何かを変化させる元とはいえませんよねぇ。仕事との関係とか、エネルギー保存則とか書くことはいろいろ有ると思うのですが、冒頭定義文となると…
思いついたら書き換えるという事にしますけど、なんか妙案がありましたら書き換えてください。yhr 2005年1月23日 (日) 04:55 (UTC)
冒頭の追記について
[編集]まあ、なんていうか”気”はさすがに飛躍しすぎと言うか…
リバートするにも適切な版がないし…
yhr 2005年4月24日 (日) 06:44 (UTC)
エネルギーの定義について
[編集]「エネルギーとは、 その量が孤立系の運動の前後で保存される3種の運動積分のうち、時間の一様性に基づいて導かれるものである」とする見解がある。そこでは、系のエネルギーは、「相互作用がなく、運動の速さのみの関数である運動エネルギー」と「相互作用の結果、系の座標のみに依存するポテンシャル・エネルギー」という二つの本質的に違った項の和であるとしている。(出典L.D.ランダウ、E.M.リフシッツ『力学・場の理論、ランダウ・リフシッツ物理学小教程』水戸 巌、恒藤敏彦、廣重 徹 訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2008年、35頁)・・・この版は取り消されたのですが、何が問題かごぞんじのかた、ご教授ください。
定義について
[編集]冒頭の要出典になっている「3.ある系が潜在的に持っている、外部に対して行うことができる仕事量のこと」は、不要だと感じます。「2.仕事 (物理学)をすることのできる能力のこと」に集約できる(含まれる)からです。
また、「自然科学」の節の冒頭にも要出典として、「ある系が潜在的に持っている、外部に対して行うことができる仕事量のこと」とありますが、系と限定した書き方が好ましくないと思います。これも「仕事 (物理学)をすることのできる能力」に置き換えてよろしいでしょうか? --BLsky-Ockham(会話) 2012年12月12日 (水) 00:07 (UTC)
出典をしっかり示すべし。著作権に対する配慮が足りない。
[編集]小保方晴子を見てもよくわかるが、自然科学系の若い学生の連中は、他人の著作の内容を勝手に写して(著作内容を泥棒して)なんとも思わない輩が多い。(若い学生や未熟者は勘違いしているようだが)すべての記述は、誰かの努力によって生み出されている。記述を生みだした人の著作名を出典としてしっかり表示するのが、著作権保護の基本。学問のマナーとしても、誰かの著作から情報を得たら、勝手に自分の手柄にするのではなく、その情報を与えてくれた著者・著作に対して感謝の気持ちも込めて、先人たちの無数の努力に感謝の気持ちを込めて、そして勝手に自分の手柄にしてしまわないように、出典を細やかに正しく表示するのが当然のこと。
日本の学生に特に悪い傾向があるのか? だから小保方みたいな奴が生まれてくるのかもしれない。ウィキペディアがそういう悪しき風潮の発信源になってはいけない。修正すべし。--222.146.122.47
- 出典を明記することと著作権への配慮をすることは、全くではありませんが関係のないことです。出典明記の原則は情報源を明かすことでその記述に対する検証性を高めることであって、著作物の保護は主とした目的ではありませんし、著作者への感謝を表明するものでは断じてありません(たとえば「科学的に誤った記述がある」ことを示すために「誤った記述」を含む著作物を出典に示すことは日常的に行われていることです。穏当な例としてはブラウン運動にまつわる誤解などが挙げられます)。「すべての記述は、誰かの努力によって生み出されている」ということも著作権の保護とは必ずしも結びつかない理由付けで、理念としてそのような記述を保護すべきであるという考えを否定するつもりはありませんが、「努力の痕跡のない記述」は保護されないべきかと言えばそうではないでしょう。また、単なるコピーならともかく、文章を推敲することはそれなりの労力が伴うことでもあり、「努力」に依拠するならば出典を明記することは無視されかねません。なので、「著作権をどのようなものに位置づけるか」といったよりインフラ的な議論ならともかく、運用上の問題に関して議論する際にそれを強調することは避けるべきです。
- これは蛇足になってしまうのですが、「日本の学生」や「自然科学系の若い学生の連中」などに限らず、日本語話者が英語版やスペイン語版の Wikipedia 記事を編集できるのと同様に、日本語版 Wikipedia の記事においても様々なバックグラウンドを持った方々が編集作業を行っています。勝手な憶測の下で無関係な人を攻撃することは著作権の保護を訴える以前の問題として、マナーがなっていないと言わざるを得ません。Wikipedia においては編集者である個人をIPやアカウントレベルで特定できるのですから(これでも完全な個人の特定には程遠いですが)、何かしら問題があるならば、問題のある編集者の会話ページでその旨を伝えるべきです。--Glayhours(会話) 2015年4月18日 (土) 17:30 (UTC)