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ノート:エリス (ネットアイドル)

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独自見解に基づく編集を差し戻します

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「冒頭文を適当にぶった切って無理矢理節を作る意味不明な編集」等と詭弁を吐いているユーザーがおりますが、これは独自見解に基づく編集であり、Wikipedia:検証可能性にも反します。何故ならいかなる信頼できる情報源にも「冒頭文を分割して節を作る編集を禁止する」と記述されているものは1つもないからです。故に編集を差し戻します。--コバルトブルーとターコイズブルー 2009年9月13日 (日) 17:05 (UTC)[返信]

Wikipedia:独自研究を載せないWikipedia:信頼できる情報源Wikipedia:検証可能性は記事の内容に対するものでレイアウトに対するものではないでしょう。

Wikipedia:レイアウトの指針#記事の構成でも一行単位の短いコメント文しかない節をいくつも作るのは避けてください。とあること。人物節を分けることで冒頭の定義があまりにも短く、また分割された人物節も短いものであり、あえて節を分ける必要性は感じられません。すでにYassieさんとはるひさんによって冒頭を一文のみにする編集には反対されているところをこうした方が良いのではと言った場合はWikipedia:コメント依頼などを通して広く意見を求めて合意が得られた場合にのみ実施すべきであり、コバルトブルーとターコイズブルーさんがこの記事で4度目となる節の分割をされている編集はWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#具体例のような不適切なものであると思います。--Tiyoringo 2009年9月13日 (日) 23:13 (UTC)[返信]

Tiyoringoさんへ反論しますが、確かにWikipedia:独自研究を載せないWikipedia:検証可能性は確かに記事の内容の方針ですが(Wikipedia:信頼できる情報源はウィキペディアの3大方針の2つであるWikipedia:独自研究を載せないWikipedia:検証可能性から導かれる方針なのであえて除外します)、ウィキペディアの3大方針は例え記事の内容以外でも(レイアウトを含む)可能な限り適用させるべき方針であると私は考えております(この件についての私の意見はWikipedia:井戸端/subj/ソックパペットの認定方法についてを参照)。ただTiyoringoさんは私の編集はWikipedia:腕ずくで解決しようとしないに反すると指摘されましたので、今回は節の分割はせずにWikipedia:コメント依頼に提出します。--コバルトブルーとターコイズブルー 2009年10月11日 (日) 07:58 (UTC)[返信]
コメント依頼から来ました。レイアウトに関するコメント依頼ですよね? 人物に関する記事のレイアウトとしては、Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)が最優先だと思います。それに従えば、導入部としてコバルトブルーとターコイズブルーさんが編集した1行のレイアウトは問題ないでしょう。Tiyoringoさんの指摘されたWikipedia:レイアウトの指針#記事の構成一行単位の短いコメント文しかない節をいくつも作るのは避けてください。は、あくまで記事本文の節が対象であり、導入部は対象外と考えます。むしろ2行目以降の内容は導入部としては書きすぎであり、解説本文とすることが適切だと考えます。なお、Wikipedia:独自研究を載せないWikipedia:検証可能性は記事内容についての方針であり、レイアウトに適用すべきではないとのTiyoringoさんの見解には同意します。--アルビレオ 2009年10月11日 (日) 10:36 (UTC)[返信]
アレビレオ様へ。スタイルマニュアルを参照するのであれば、まず導入部に関する全般的事項であるWikipedia:スタイルマニュアル (導入部)をご覧ください。特に同文書の「概要」節を作る場合という節をご覧頂ければ、私が複数の記事の要約欄で述べているように、「概要」やそれに類する節は冒頭文を適当にぶった切って作るものではない、ということがお解りいただけるかと存じます。なお、Wikipedia:独自研究を載せないWikipedia:検証可能性は記事内容についての方針であり、レイアウトに適用すべきではないとの見解には私も同意します。と言うより私の個人的な見解では、単にコバルトブルーとターコイズブルー氏が何が何でも自分の編集を押し通したいがためにルールを悪用しているだけ、としか見ていません。Yassie 2009年10月11日 (日) 21:02 (UTC)[返信]
当然ながらWikipedia:スタイルマニュアル (導入部)は読んでいますし、一般論として「概要」やそれに類する節は冒頭文を適当にぶった切って作るものではないにも同意します。しかし、Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)#関連項目には人物を紹介する項目のスタイルマニュアルとしてWikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)が提示されており、Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)#例では導入部は単純な記述だけになっていまて、本記事の導入部が「エリスは日本のネットアイドル・詩人」だけで妥当なことがお解りになると思います。
結局のところ、Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)とでスタイルに若干の違いがあり、本記事にどちらを優先して適用すべきか、ということでしょうが、人物の記事については後者を優先すべきだと考えます。(そうでないと後者の意味がなくなってしまいます)
確かにコバルトブルーとターコイズブルーさんのノートでの論調は自分の編集を押し通したいとの意思が強く出ているようには思いますが、それと記事のスタイルとして何が適切かは別の話ではないでしょうか。--アルビレオ 2009年10月11日 (日) 22:01 (UTC)[返信]
では改めてWikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)に照らし合わせて検証することに致しますが、結論から言えば、やはり導入部を「エリスは日本のネットアイドル・詩人」の1文のみにするのは不適切、ということになりますね。なぜならば、その1文だけでは導入部の節で説明されている事項のうち、「5. 人物がどうして重要か(主な活躍を記載する)」を満たさないからです。一方、現状の記事を検証しますと、その5.の部分が2-5文目に書かれています。つまり、導入部としての要件をWikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)に添った形で満たす上でも、現状の5文全てが導入部に含まれるべきであり、それをぶった切って2文目以降を節に送るコバルトブルーとターコイズブルー氏の編集は不適切であると言うことになりますね。Yassie 2009年10月11日 (日) 22:53 (UTC)[返信]
かなり議論が絞れてきたようでなりよりです。「5. 人物がどうして重要か(主な活躍を記載する)」については、私もちょっと気にしていたところではあります。ただ、私は2-5文目の内容も項番5を満たしているとは思えないのです。もともと私はコメント依頼を見てこの議論に参加したのであって、記事の対象者には何の思い入れもありません。その程度の第3者からみると、2-5文目の内容は単に記事の対象者の活動を記録したものであって、重要性や活躍というレベルではないと思います。記事のあるべき姿は「エリスは日本のネットアイドル・詩人」に、更に重要性を記述したものを導入部とし、2-5文目の内容は節を分けて記述したものになると思いますが、私には重要性を記述することはできませんので、これ以降はもっと対象者を良く知っている人にお任せします。--アルビレオ 2009年10月12日 (月) 00:33 (UTC)[返信]
それならば、重要性の部分を導入部に加筆できる人が現れるまで、しばらくは現状維持ということにしませんか? と言うのも、私もこの記事の対象者に対しては何の知識も思い入れも無く、単に、記事の導入部や短い記事を適当にぶった切って無理矢理「概要」やそれに類する節を作るという安易で意味不明、かつスタイルマニュアルにも反する編集が他の記事にまで蔓延しては困るという思いから最初の差し戻しを行い、この議論にも参加しているまでですので(最近では私のメインの執筆分野の記事、それも私が主執筆者であるアトランタという記事でそういう編集が行われたのを発見し、差し戻したばかりです)。アルビレオ様の仰るように、導入部を適当にぶった切るだけでなく、重要性の部分を導入部に付け加えた上で2-5文目を本文とする分には、私は反対しません。Yassie 2009年10月12日 (月) 01:13 (UTC)[返信]

Wikipedia:スタイルマニュアル#段落にある長すぎる段落も、短すぎる段落も読みにくいものです。にあるように一文で冒頭を区切り節を作るのは読みがたいように思います。短い記事の場合は脚注、関連項目、外部リンクなどを除き節をわざわざ設ける必要はないように思います。--Tiyoringo 2009年10月18日 (日) 04:09 (UTC)[返信]

この記事に特筆性はあるのだろうか?

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一応詩作家のはしくれの私から言わせてもらえば、対象者の特筆製があるようには思えないんだけれど…。著作の出版社であるミッドナイトプレスは、自費出版も行っています。もう1社については、私はよく判りません。参考までに、実力が認められて出版社から出版の話が持ちかけられる詩作家あるいは詩人は非常に少なく、そのほとんどが自費出版に頼っています。つまり、著作物があるからといって、それが特筆に値するだけの価値があるとは認めにくいのではないか、というのが、そのあたりの実情を知っている私の見解です。ISBNコードを付加した書籍の自費出版を行う会社も、山ほどありますし。--静葉 2009年10月24日 (土) 10:15 (UTC)[返信]

前回の削除依頼「Wikipedia:削除依頼/エリス (ネットアイドル)」にて、そのあたりは解決していると思われます。出版物のみを材料にすれば静葉さんのように考えられる方もいらっしゃるかもしれませんが、それ以外にも複数の媒体で取り上げられているようですし、特に問題は無いのではないでしょうか。あとは、「そのあたりの実情」とか、コメントアウトの部分とか、それは個人的な意見のように感じられますが。--Bellcricket 2009年10月24日 (土) 12:09 (UTC)[返信]
いや…私がこのような発言をするのは、ひとえに、今回の記事の案件を最低限満たしていれば、記事として掲載してもいい、なんてことなると、それ以上の功績を持っている詩人は、数えたらきりがないもんでして。たとえば、存命の徳島現代詩協会メンバーで言うと、鈴木漠さんはすでに掲載されているけれど、他にも、徳島県立池田高等学校の校歌の作詞者である合田さんとか、うちの会長も、Wikipediaに掲載するだけの特筆性がある、なんてことになる。下手したら今回のような基準さえ満たせばいいのであれば、協会メンバーの大多数が特筆性があるとかいって、20名以上の記事が、長期プロジェクトであるWikipediaに残ることになる、それだけじゃなく、日本現代詩人会日本詩人クラブやらに所属している詩人で、今回の名前空間に登場する方以上の実績を持つ人なんてごろごろいらっしゃいますけれど、そんな人たちも片っ端から記事にしていくようになるがそれで本当にいいのか、って事です。要するに、特筆性として判断するハードルがあまりにも低すぎるんじゃないかってことね。複数の媒体に紹介されている…なんてことも、意外と珍しいことでもないです。たとえば、詩のボクシング全国大会優勝者は、全員、「複数の媒体」に登場していますけれど、その詩のボクシングの名前空間には、歴代の優勝者なんて書かれてないでしょ。以前の合意形成にケチつけるようで悪いけれど、実際に詩に携わっている者としては、強烈な違和感を覚えたから、このような発言を行なったわけだけれど、そのあたり、どうでしょ。--静葉 2009年10月24日 (土) 13:08 (UTC)[返信]
ウィキペディアにおける「特筆性」の解釈の問題ではないでしょうか。我々利用者が対象の功績を直接判断するような独自研究ではなく、特筆性を担保するような検証可能な資料の存在を基に判断すべきものだと思います。私は詩の世界には疎いので静葉さんが名前を挙げられた方々については存じ上げませんが、その方々に功績があるのであれば、それを紹介する二次情報源が存在し、それを基にWikipediaの記事を発展させることができるでしょう。この記事に関してそれらを考えれば、そうした情報源が既に示されていますし、今後より良い記事になる可能性は有ると思われます。静葉さんのように「特筆性の程度が低い」と感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、それでも「無い」=「記事として成り立たない」と言い切るのは、難しいのではないでしょうか。--Bellcricket 2009年10月24日 (土) 15:01 (UTC)[返信]
私は、「実際に詩に関わっている者としては」、違和感を感じません。かように、主観的な判断は当てになりません。すべては独立性のある出典の有無に左右されることでしょう。--アイザール 2009年10月24日 (土) 18:55 (UTC)[返信]
Wikipedia:特筆性 (人物)についても掌握しておりますよ。独立性のある出典さえあれば、何でもありという事になるような気もしますが…ともあれ了解です。おかげで今後の編集動向の参考になりました。回答ありがとうございました。--静葉 2009年10月25日 (日) 00:01 (UTC)[返信]
静葉さんのおっしゃりようがなんとも微妙なので、言わずもがなのことを申し上げますが、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないは、良くご存知ですよね? 私からは以上です。--アイザール 2009年10月25日 (日) 15:14 (UTC)[返信]