ノート:ガレオン船
このポーランドの船の写真は例として適当でないと思います。代表的なガレオン(新大陸の富をスペインに護送した)に比べてあまりに小さく観光船としての運用上の制約からプロポーションも違っていて、誤解の元になります。これだったらモノクロでも古い銅板画か何かの方がいい。 --Ypacaraí 2005年5月5日 (木) 03:15 (UTC)
若干古い資料になるのですが、須藤利一『船』(法政大学出版局、ものと人間の文化史 No1 1968年7月30日発行)によると、「家康時代、リーデフ号で豊後に漂着したウィリアム・アダムスが、伊豆で慶長10年頃建造した120トンおよび80トンの西洋型帆船は日本におけるこの種の船の建造の最初であり、同17年、伊達政宗が幕府の船奉行向井将監と謀って建造し、支倉六右衛門をメキシコの・・・がこれにつづく、後者のばあいに関しては発表されている資料に疑わしい点があって、そのまま信ずるわけにはいかないが、通説に従えば、長さ十八間、幅五間半、帆柱の高さ十六間半の船である。云々」とあり、1968年当時サン・フアン・バウティスタ号はスクーナー型というのが通説だったようです。
しかし、須藤利一編『船』では、その当時はヨーロッパでもスクーナー型は存在せず、ウィリアム・アダムスの建造による120トンおよび80トンのものも、サン・フアン・バウティスタ号もガレオンと推定し、また向井将監が派遣した公儀大工与三郎ら三名にガレオン船を造る技術があったとは考えらないので、乗船を失って帰れなくなってしまったセバスティアン・ビスカイノの弱みに付込んで造船・航海に協力させたという『金銀島探検報告』の記述の方が信憑性があるようだとなっていました。ですので通説は通説として、ここではこの程度が適当かと。--210.159.177.51 2007年10月6日 (土) 02:33 (UTC)