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ノート:キエフ府主教区

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主に中立的観点疑義からの修正

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この編集につき説明させて頂きます。

  • (本文) キエフ大司教区、キエフ管区司教区とも。→キエフ首都大司教区、キエフ管区司教区とも。
    • (説明) 単純に日本におけるカトリック教会用語に暗いということでしょう。単なる「大司教」はarchbishopの訳語であり、Metropolitan bishopの訳語には別のものがあるということです。
  • (本文) 1458年にモスクワの府主教はモスクワ総主教庁の創立を宣言し、コンスタンディヌーポリ総主教庁と手を切った。→1458年にモスクワの府主教は独立正教会位を宣言した。モスクワの独立を認めなかったコンスタンディヌーポリは、モスクワに属さない新たなキエフ府主教区を設置した。
    • (説明) どういう新史料が出て居るのか存じませんが、「総主教」という称号を使うようになったのはもっと後代と普通は言われます(フィリップ2世 (モスクワ府主教)参照)。それから「独立宣言+独立承認要求」なのであって、「手を切った」という表現は不適切です(「手を切った」のなら「承認要求」もしない事を意味します)。
  • (本文) [[1596年]]にキエフ府主教をはじめ府主教区の府主がコンスタンディヌーポリ総主教庁と手を切り、[[ローマ教皇]]と[[ブレスト合同]]を結んだ<ref name="MP"></ref>。これによって正教会に属していたキエフ府主教区は[[聖座]]に所属するようになり、カトリックの管区([[ウクライナ・カトリック教会]])になった<ref name="MP"></ref>。→[[1596年]]にキエフ府主教をはじめ府主教区の主教たちのうち多くがコンスタンディヌーポリ総主教庁から離れ、[[ローマ教皇]]の傘下に入った。これを[[ブレスト合同]]という。これによって正教会に属していたキエフ府主教区は[[ローマ教皇]]に所属するようになり、カトリックの管区([[ウクライナ・カトリック教会]])になった<ref>G. ヴェルナツキー. p282, p304 - p306</ref>。
    • (説明) 「府主」というのは単純に誤りだとしても、全ての主教がブレスト合同によってローマ教皇の傘下に入ったかのような表現は誤りですし、しかも司祭や一般信徒の多数派は合同反対派でした(そうでなければブレスト合同はもっと成功裏に終わっていた筈です)。後に書く問題と合わせて、執筆者のウクライナ東方カトリック教会に偏った姿勢が顕著に表れて居ます。
  • (本文) これによってカトリック教会に属するキエフ府主教区と、→これによってカトリック教会に属するキエフ首都大司教区と、
    • (説明) 上記最初の指摘と同様、カトリック教会では府主教とは言わず首都大司教などと訳される、ということです。
  • 並び順
    • (説明) ここに顕著に表れているのですが、一番の少数派をトップに持ってくると言うのが本当にわけが解りません。「設立年代順」と仰るかもしれませんが、そもそも府主教座の継承については各教会が正統性を同じ起源に求めています。このような「設立年代順」そのものが、ウクライナ東方カトリック教会および反ロシア反正教的態度に過度に偏向した一連の編集傾向をよく表しています(このような編集傾向を持つ編集者の問題は一度や二度で済んで居ません)。

--Kinno Angel会話2013年1月3日 (木) 17:13 (UTC)[返信]

  • OK。勉強になります。
  • OK。書き方を替えても内容は同じです。コンスタンディヌーポリとモスクワが喧嘩したわけです。
  • OK。「偏った姿勢」がどこにあるかわかりません。キエフ府主教を初めキエフ府主教区の組織はカトリックに下ったことが間違いなく事実です。その事実に反対した多くの聖職者と信者がいたことも事実です。1596年のブレスト合同にしても、1685年のモスクワ合同にしても反対派は付きものです。それについてオギエンコ氏が書いております。
  • OK。表現の問題です。ウクライナ語では「府主教区」と「首都大司」を指す時は同じ単語を用いますから。--121.111.125.182 2013年1月4日 (金) 06:11 (UTC)[返信]
OK。書き方を替えても内容は同じです。コンスタンディヌーポリとモスクワが喧嘩したわけです。
全然違いますよ。杜撰に過ぎます。
「偏った姿勢」がどこにあるかわかりません。キエフ府主教を初めキエフ府主教区の組織はカトリックに下ったことが間違いなく事実です。その事実に反対した多くの聖職者と信者がいたことも事実です。
後者について貴方は全く触れて居ないわけでそれが偏向だと言っているわけです。
首都大司
そのような日本語はありません。もう少し「ウクライナ語ではウクライナ語では」と言わず「日本語表現」を尊重して下さい。ここは日本語版ウィキペディアです。--Kinno Angel会話2013年1月4日 (金) 06:15 (UTC)[返信]
  • 「手を切った」という表現は「関係を完全に絶つ」ということですよ。「承認要請をし続けている」際に「手を切る」というのは日本語として有り得ません。
  • 「偏向の証拠」については既に上記に挙げた通りです。--Kinno Angel会話2013年1月4日 (金) 06:27 (UTC)[返信]
「偏った姿勢」がどこにあるかわかりません。キエフ府主教を初めキエフ府主教区の組織はカトリックに下ったことが間違いなく事実です。その事実に反対した多くの聖職者と信者がいたことも事実です。121.111.125.182
後者について貴方は全く触れて居ないわけでそれが偏向だと言っているわけです。Kinno Angel 
1685年にモスクワ合同に反対した多くの聖職者と信者がいたことについても、私は全く触れて居ませんよ。果たして、その姿勢は「ロシア正教会に偏った姿勢」になれますか?--121.111.125.182 2013年1月4日 (金) 06:47 (UTC)[返信]
…えーっと?「正教会のキエフ府主教区でも争いが起こり、キエフ府主教区は独立派・親ポーラナド派・親モスクワ派に分かれた。」と御自身が書いていますよね。「モスクワ合同」についてはこのように「争いがあった」と書く一方で、「ブレスト合同」については「争いがあった」とは貴方は書いていません。明らかな偏向です。--Kinno Angel会話2013年1月4日 (金) 11:51 (UTC)[返信]
…ちゃんと文章を読みましたか?「モスクワ合同」については「争いがあった」と書いていませんよ。「正教会のキエフ府主教区でも争いが起こり、キエフ府主教区は独立派・親ポーラナド派・親モスクワ派に分かれた。」の文は、モスクワ合同が成立した以前の状況を説明していますよ。コサック国家が分かれた結果、府主教区も分かれたを書いております。1657年以後のキエフ府主教区の分裂のことですよ。モスクワ合同については争いがあった一切書いておりませんよ!結局、偏向をもっているのはあなたの方ではないのですか?--121.111.125.182 2013年1月4日 (金) 12:05 (UTC)[返信]
えーっと、すみません、「1685年に後者はコンスタンディヌーポリ総主教庁と手を切ってモスクワ総主教庁に合同を結び、ロシア正教会に所属するようになった。」この「後者」は争いによって生じているものですよね。御自分で書かれた事を忘れていらっしゃるんですか?--Kinno Angel会話2013年1月4日 (金) 12:12 (UTC)[返信]
「モスクワ合同」以前についてキエフ府主教区で「争いがあった」ことは書いているが、「モスクワ合同」以降について親モスクワ派キエフ府主教区の中で「争いがあった」ことは書いていませんよ。同じく「ブレスト合同」以降についてキエフ府主教区「争いがあった」ことは書いていません。あなたの分析では中立観が欠けているのでは?--121.111.125.182 2013年1月4日 (金) 12:30 (UTC)[返信]
インデント戻し
同じく「ブレスト合同」以降についてキエフ府主教区「争いがあった」ことは書いていません。
何を問題にしているかお解りではないようですね。私は「ブレスト合同以降の争いについて貴方が書いていない」事を問題にしているのではなく、「ブレスト合同当時の争いについて書いていない」事を問題にしているのです。意図的ではないと思いますが、論点をずらさないよう気を付けて下さい。それから連続投稿は止めて頂けますか。さっきも書き込みが消えてしまいました。--Kinno Angel会話2013年1月4日 (金) 12:36 (UTC)[返信]
「当時」っていつのことですか?「ブレスト合同」以前には争いはありませんし、キエフ府主教区も一つです。「モスクワ合同」以前には争いがあるし、キエフ府主教区も分裂しています。状況が異なります。合同以降についkて何も書いてなかったので、それは「偏向」だとと言われても可笑しいと思います。--121.111.125.182 2013年1月4日 (金) 12:51 (UTC)[返信]
こちらが設定しました「インデント戻し」を無視しないで頂けませんか(皆が皆ワイドスクリーンじゃないのですよ)
ブレスト合同以前には争いはありませんし
ありましたよ。御自分で書いているじゃありませんか。
その事実に反対した多くの聖職者と信者がいたことも事実です。1596年のブレスト合同にしても、1685年のモスクワ合同にしても反対派は付きものです。
「争いは無かった。反対者は居た」支離滅裂ですよ。--Kinno Angel会話2013年1月4日 (金) 13:34 (UTC)[返信]
あなたは答えを出していませんよ。あなたは唱える「当時」っていつのことですか?
そして私が書いたことを少しも理解しようとしないのです。ブレスト合同以前にはキエフ府主教区では争いはありません。正教会のキエフ府主教区は1つしか存在しないからです。争いは、1596年のブレスト合同以降に正教徒とカトリック教徒の間に勃発したのです。正教会のキエフ府主教区はカトリックのキエフ府主教区になったからです。一方、モスクワ合同の状況はブレスト合同の状況と異なります。モスクワ合同が成立以前に、正教会のキエフ府主教区では3つの派閥が争っています(コサック国家の分裂にともなって)。さらに、モスクワ合同が成立以降にも、親モスクワ派においてモスクワ所属を巡ってさらに争いがありました。私は、ブレスト合同以降の争いについて触れていないし、モスクワ合同以降の争いについて触れていません。あなたの「偏向」の指摘は根拠はありません。--121.111.125.182 2013年1月4日 (金) 14:12 (UTC)[返信]
あなたは唱える「当時」っていつのことですか?
日本語から言って当然、ブレスト合同直前直後ということです。
ブレスト合同以前にはキエフ府主教区では争いはありません。
ありました。ブレスト合同#ブレスト教会会議に至る経緯に全て詳細な事実経緯が月単位に至るまで書かれています。各主教たちの動向に至るまで。「正教においては府主教(ないし総主教)が決定しても、他の主教を含む聖職者、信徒が異議を唱える事が有り得る」ことを、まさか貴方が御存知無いわけではないでしょう。それとも知らない振りをしているのですか?だとしたら大変悪質ですが。--Kinno Angel会話2013年1月4日 (金) 14:17 (UTC)[返信]
あった争いを「無かった」と史実に反する事を主張しているわけです。大変悪質な偏向が再び証明されたわけです。--Kinno Angel会話2013年1月4日 (金) 14:20 (UTC)[返信]
日本語から言って当然、ブレスト合同直前直後ということです。
私は、ブレスト合同も、モスクワ合同の直前直後の争いについても何も書いていませんよ。両方とも簡単に紹介しただけです。それを細かく書かないから「偏向だ」といわれても、大変無茶な指摘だと思います。--121.111.125.182 2013年1月4日 (金) 14:37 (UTC)[返信]

コメント依頼を提出しました

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Wikipedia:コメント依頼/121.111.125.182を提出しました。--Kinno Angel会話2013年1月4日 (金) 13:34 (UTC)[返信]

御礼

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93.73.39.201さん、御加筆、ありがとうございます。まだ精読しておりませんので、後程私の方からも修正させて頂く蓋然性は否定出来ませんが、パっと拝読した所では素晴らしい加筆内容であり勉強させて頂きました。重ねて感謝申し上げます、ありがとうございます。また、93.73.39.201さんの会話ページにも書かせて頂きましたが、アカウント作成をぜひ、御検討下さい。今後とも宜しくお願い申し上げます。--Kinno Angel会話2016年6月17日 (金) 08:44 (UTC)[返信]