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ノート:ハワード・ホークス

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ちょっと思ったこと。
「個人的思い入れを削除」としましたが、(そして書き足しましたが、)世界的評価の高い映画作家(映画監督ではなく?)、ハワード・ホークスとはいっても個人の思い入れや評価は百科事典にはそぐわないのではないか。ましてや、そんな事実があるのかないのか分らないことを断定的に書くものなのか。
今日、少なくとも名前を知られている過去のハリウッド映画の監督で映画会社やプロデューサーと衝突していない監督がいったいどれほどいただろうか。もはや忘れ去られたり、元々憶えてももらえなかった者はいざ知らず、あなた方が知っているかつての映画監督のほとんどが「妥協を許さない監督として知られ」、「プロデューサーとの衝突も多く」辛酸を舐めてきたのである。ホークスだけが「絶対に妥協を許さない監督」で「反骨精神旺盛な性格」というわけでもなく、むしろホークスは題材としては当たり障りのない作品を撮る監督であり、反骨精神というよりも体制的タカ派の人物で、マッカーシズムの時代も何の問題もなく通り抜けたので、アカデミー賞を取らなかったというのは反骨とは何の関係もない。「反骨精神旺盛な性格のおかげで」アカデミー賞を受賞しなかったとか、「スタジオの権力に屈すること」がないのがトリュフォーらに評価されたとかは、少なくとも私は聞いたことがない。
「枚挙に暇がないほどの傑作を生み出した。」との評価はそれぞれの監督に対してそれぞれの人がとれるのであって、これをやっていれば、ここで取り上げられるほどの映画監督は皆「枚挙に暇がないほどの傑作を生み出した」ことになる。
当時のトリュフォーは「ヌーヴェルバーグ」というより評論家時代だから「カイエ」の方が相応しいだろう。
「交友関係は映画界にとどまらず、米文学界の大物」との交友関係の記述は虎の威を借りるているようだ。 小説家が脚本に参加しその後親交があるのはこれも又ホークス独特の特徴を示すものではないだろう。
Kuuri

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