ノート:バラク (チャガタイ家)
バラクのカイドゥによる暗殺説について
[編集]バラクの死因について、『集史』「アバカ・ハン紀」にはバラクがアバカに大敗してビシュバリク方面へ落ち延びた時、バラク、カイドゥ両陣営の王族たちが敗戦の責を巡る小競り合いで死傷者が出て、この混乱をバラク打倒の好機と見たカイドゥがバラクの陣営を取り囲んだという。その知らせを聞いたバラクは「恐怖でその夜のうちに死んだ」といい、カイドゥがバラクの陣営を訪れると将兵やオルドの夫人たちがバラクの死を悼んで哭礼を行っている最中であったと伝えている。
『集史』は急死説を採っているようだが、杉山正明氏は『モンゴル帝国の興亡(下)』(1996年)で「『集史』に次ぐペルシア語の史書『ヴァッサーフ史』は、カイドゥの暗殺と明言する。」(p.61)と紹介している。(『ヴァッサーフ史』はシハーブッディーン・アブドゥッラー・シャラフ・シーラーズィーが『世界征服者史』の続編を企図した『シャー・ナーメ』に範を採る詩文形式の歴史書で、1312年にオルジェイトゥに献呈された。その後アブー・サイードの治世を含めた増補版を1328年に脱稿している)
この文面では「バラクが毒殺された」かどうかは分らないので、『ヴァッサーフ史』の石版本かアーヤティーの『ヴァッサーフ史要約』、あるいは少なくともミールホーンドの『清浄園』を参照してみなければならないと思う。Haydar 2007年2月27日 (火) 11:04 (UTC)
改名提案
[編集]現在はバラクの記事名を本記事で用い、曖昧さ回避はバラク (曖昧さ回避) で行っていますが、用法として突出しているとは考えられず、バラクで曖昧さ回避を行う平等な曖昧さ回避にすべきではなかろうかと思います。本記事はバラク (チャガタイ家) とすることでどうでしょうか?--モンゴルの白い虎 2010年5月5日 (水) 00:30 (UTC)
- 併せてタリクについても同様にタリク (チャガタイ家) へ改名し、平等な曖昧さ回避にすることを提案します。パキスタン海軍の同名の駆逐艦は氷山の一角で、個人名として今日でもしばしば見られるようです。--モンゴルの白い虎 2010年5月5日 (水) 08:44 (UTC)
- バラク (チャガタイ家) とタリク (チャガタイ家) を改名し、タリクを曖昧さ回避記事にしました。バラク (曖昧さ回避) の移動依頼も出しておきます。--モンゴルの白い虎 2010年5月12日 (水) 12:11 (UTC)
- 賛成 妥当と思えるので賛成します。--ヨッサン 2010年5月13日 (木) 03:44 (UTC)
- 報告 Wikipedia:移動依頼での依頼に基づきバラク (曖昧さ回避)をバラクに移動しました。--Penn Station 2010年5月16日 (日) 15:23 (UTC)