ノート:ヘンリー・シーモア=コンウェイ (1805-1859)
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メモ。
[編集]- 記事名は英語読みです(フランス語で何と発音するのかわからないが、このような人物の場合どっちが適切なのだろう)。
- 儀礼称号の卿 (Lord) はフルネームに付くかファーストネームに付き、ファミリーネームには付きません(参考)。ただフランス語だとこのへん適当なのか、“Lord Seymour”と表記しているものもあるようです(例えばgw.geneanet.org。ここエピソードが豊富なんですが出典不明なんですよね…)。
- 記事パリ大賞典だと「フランス馬種改良奨励協会(Société d'Encouragement)とジョッキークラブを組織」とあり、この2つは別団体としていますが、英語版en:Jockey-Club de Parisだと“The Jockey Club was originally organized as the "Society for the Encouragement of the Improvement of Horse Breeding in France", (後略)”とあり、フランス馬種改良奨励協会が名称変更してジョッキークラブになったと言っているように見えます。記事フランスギャロに前身としてフランス馬種改良奨励協会が挙げられているので、英語版の記述は疑わしいでしょうか。
- ジョッキークラブの発起人はDNBだと18人。Horse-racing in France (1886) だと12人。
- 遺産の寄付先はDNBだとパリの病院に36,000ポンド、Horse-racing in France (1886) だとロンドンとパリの病院に72,000ポンド。
- Horse-racing in France (1886) には彼を記念して Prix Seymour が Paris Summer Meeting で行われているとあるが、ググってもヒットしません。ロンシャンで行われている Prix Lord Seymour (L) というレースがヒットしますが[1][2][3]、関連は不明。
- 競馬から撤退した理由は、gw.geneanet.org では「勝馬に対する裁判で敗訴したから」となっています。1840年のジョッケクルブ賞で「フランス産の Tontine として登録され1位で入線した牝馬が実はイギリス産の Herodia であった」と彼は主張して裁判を起こしているようなので (Horse-racing in France (1886) ,pp.56-57)、これっぽいですが…。
--霧木諒二(会話) 2022年8月28日 (日) 09:19 (UTC)
- 記事凱旋門賞に「名目上の父親はイギリス人だが、実父はフランス人だった」とあります。参照した資料にはそんなこと書かれていないのですが、ウィキデータでは fr:Casimir de Montrond が実父だという説があるらしいですね。--霧木諒二(会話) 2022年8月28日 (日) 12:07 (UTC)