ノート:マリア崇敬/過去ログ1

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中立的な観点について[編集]

こちらの記事ですが、内容的に「どういう信心か」は説明していますが、カトリック(という区分で間違っていたら修正をお願いします)としてどういうものか、ということに対して、あくまで内的な解釈をメインで述べているのはそれはそれでいいのですが、「誰が」述べているか、という点について書いていないため、Wikipediaが自分の言葉で話している(WP:OR)ように感じられます。例えば「ローマ・カトリック教会のマリア崇敬(マリアすうけい)とは、聖母マリアに「神への取り次ぎを願う」 聖母マリアが「人々と共に祈る」ということであり、三位一体の神に捧げられる礼拝とは、本質的に違うものである。」という文ですが、自分のようなキリスト教に関する知識が浅いと分からないと思います。また、外部リンクも聖書協会へのリンクを示しているもので(WP:RS)これがマリア崇敬に関してより詳細な情報を伝えてくれるものであるかどうかも疑問です。それから文献を出典とされる場合は、ページ数の記載、できれば版数までお願い致します。お手数ですが、色々とお話を伺えますと幸いです。--遡雨祈胡会話2016年8月31日 (水) 03:34 (UTC)


遡雨祈胡様へ
コメントをありがとうございます。
1.「誰が」述べているか、という点ですが、カトリックの教義であるので、もちろん「カトリック教会」の立場です。カトリックでは、聖書や教えの「勝手な解釈」は許されません。
2.>「ローマ・カトリック教会のマリア崇敬(マリアすうけい)とは、聖母マリアに「神への取り次ぎを願う」 聖母マリアが「人々と共に祈る」ということであり、三位一体の神に捧げられる礼拝とは、本質的に違うものである。」という文ですが、自分のようなキリスト教に関する知識が浅いと分からないと思います<
>聖母マリアや諸聖人への祈りは、「礼拝」では無く「尊敬・崇敬」、「信仰」では無く「信心」。「マリア崇拝」ではない。< とも説明しています。キリスト教の知識がない方に対しても、分かりやすい表現をしたつもりですが・・。
3.>外部リンクも聖書協会へのリンクを示しているもので(WP:RS)これがマリア崇敬に関してより詳細な情報を伝えてくれるものであるかどうかも疑問です。<
外部リンクに聖書協会へのリンクを追加したのは、記事に載せている聖書のみ言葉に興味をもたれた方が、すぐに読めるようにとの配慮をしました。これは、削除してもかまいません。そして、マリア崇敬を述べるには、聖書と聖伝が不可欠ですので、聖書のみ言葉は必要です。プロテスタントの方々は、「聖書のみ」の教義の教派が多いので、理解してもらえるように記しています。
4.>文献を出典とされる場合は、ページ数の記載、できれば版数までお願い致します。< この御意見には同意します。脚注が多すぎるのは良いのだろうか?と思い、迷っていましたので。
5.>「マリア崇敬は驚くほどの発展を遂げている。」など、布教のような印象があります。< 布教はしておりません。もし、そういった印象をお受けになられるのでしたら、文章を少し変更することは可能だと思います。--ベアトリス会話2016年8月31日 (水) 11:15 (UTC)
ベアトリス様へ
お早く丁寧なご回答を本当に有難う御座います。ポイントで分けて頂いたので、それに合わせて返答させて頂きますね。少々長くなりますので、お時間とご都合の宜しい時にご確認いただけると嬉しいです。
1.カトリック教会の立場
分かりました。明確な回答をありがとうございます。
2. 礼拝、尊敬・崇敬 / 信仰、信心
前者はともかく、後者は仏教などだと言葉の扱いが違うそうです。そこで信仰、信心については脚注などを用いて補足した方が良さそうです(参考)。「信心 信仰 違い」などでグーグル検索を使えば一応説明は出ますが、リンクにいいのかは判断しがたいと思っております。もしかしたら当方が世間知らずなだけかもしれませんが、そうでしたら申し訳ないです。
3. 外部リンクについて
なるほど、聖書と聖伝の文言(中立のつもりでこの言葉を使用しましたが、問題がある場合はお知らせください)が理解に必要ということならば、理解の補助として置いているのですね。そうであればリンクは問題ないと思います。聖伝については関連項目を作って聖伝などとすると分かり易そうですね。
4. 文献の出典について
前述のとおり、基本的にWikipediaは独自研究を記載しない(WP:NOR)という日本語版の方針があります。逆に言えば、出典のない怪しい文言だと、その記事の信憑性が薄れるという訳です。逆に文献の出典に関しましてはWP:CITE #記載すべき情報のところに、「著者名、著書(論文)名、雑誌名、巻数、発行所名、叢書名、刊行年、参照ページの順で記す。」との旨の記載があるので問題ないと考えております。脚注に関しましては、おそらくいくつもの意見があると思うのですが、基本的に記事に記載されている内容を立証するものであれば載せるべきだと考えております(当方もまだそこに関しては未熟で、不要な記載を載せてしまったりすることが覆いので人のことを言える立場では全く以てないのですが)。Wikipediaでも架空の文献が出典にされたり、実際の文献の架空の内容が記載されたこともあるようですので、それも踏まえると記載することで記事の信用が保てると思います。要は第三者が「本当かな?」と確認するためのものですから。ちなみにウェブページは消える可能性があるので、ウェブ魚拓Internet Archiveなどのアーカイブのページにしておくことをお勧めします。
5.「マリア崇敬は驚くほどの発展を遂げている。」という文面
すみません。この一文で当方が布教の可能性を考えた理由を述べていなかったので、不躾な文になってしまいました。気になったポイントとしては、「驚くほどの発展」は ①発展の内容が不明 ②驚くほど、ということは何か比較対象があるのか、それとも出典に基づいた記載なのか の2点です。この2点が分からないので、修正しようにも手が出せない、というのがこちらの状況です。単純に削除することはできますが、書かれたということは何か意図があると解釈しております。
以上になります。こちらでもまとめて修正しようかと思います。何かまた御座いましたらお気軽にご連絡ください。--遡雨祈胡会話2016年8月31日 (水) 15:59 (UTC)
ごめんなさい、2. 礼拝、尊敬・崇敬 / 信仰、信心の信仰は、こういうリンクを貼ればいいと思いますと言おうとして言葉足らずでした。補足させて頂きます。--遡雨祈胡会話2016年8月31日 (水) 16:12 (UTC)
遡雨祈胡様へ
迅速で丁寧なアドバイス、そして、記事を修正して頂き、ありがとうございます。遡雨祈胡様の助言を参考にさせて頂きながら、できるだけ早く、時間のある時に編集したいと思っています。宜しくお願い致します。--ベアトリス会話2016年8月31日 (水) 22:52 (UTC)
遡雨祈胡様へ
記事を修正致しましたので、ご報告致します。
・・遡雨祈胡様に修正して頂いた注釈等を削除してしまい、すみません・・(カトリックの「信心」の意味とは違うもののようでしたので)私が追加した外部リンクも、削除致しました。(参考文献のリンク先より日本聖書協会のHPにいけるようですので)出典も、修正致しましたので、お時間のある時に、ご確認を宜しくお願い致します。--ベアトリス会話2016年9月1日 (木) 06:48 (UTC)
お早い修正を有難う御座います。カトリックの信心は、意味が違ったら修正して頂いて構いませんよ(出典もあるわけですし)。こちらも修正したため一つだけ補足させて頂きます。文献情報を毎回書くと、くどくなるので、何度も出てくる文献やウェブページでしたら出典で文献/ウェブページの最初のページを纏めて紹介すると、記載する量が減るのと(好みもありますので一概には言えませんが)、リンクを貼れば下でハイライトが表示されるようになっているのでお勧めします。以上、お時間がある時にご確認ください。--遡雨祈胡会話2016年9月1日 (木) 15:52 (UTC)
たびたびすみません、77頁(60)の(60)の意味を伺えると幸いです。--遡雨祈胡会話2016年9月1日 (木) 16:04 (UTC)
遡雨祈胡様へ
注釈・参考文献の編集、そして、その記載の方法まで助言して頂き、感謝致します。とても勉強になります。「77頁(60)の(60)の意味」についてですが、「教会憲章」は、1条~69条までありますので、「60条」という意味です。(この部分は全て修正致しました)そして、「信心の方針」を「方針」に修正致しました。宜しくお願い致します。遡雨祈胡様のお時間のある時に、ご確認頂ければ幸いです。--ベアトリス会話2016年9月2日 (金) 11:56 (UTC)
修正確認しました。先ほど実行を忘れましたが、後ほど中立性タグは外そうかと思います。長々とありがとうございました。こちらこそ丁寧な説明、編集など、感謝の言葉は尽きません。
それから別件なのですが、英語版を見たところマリアに対する崇敬、というのは東方正教会やルーテル教会などでもあるそうです。今回の件がひと段落したら、そちらに詳しい方や翻訳が得意な方に加筆していただけるとより多角的に見た記事ができるのでは、とおもっています。そこで、加筆依頼などに出すことも考えています。宜しければベアトリスさんのご意見も伺えればと思います。--遡雨祈胡会話2016年9月2日 (金) 17:22 (UTC)
署名を忘れましたので追加いたしました。--遡雨祈胡会話2016年9月2日 (金) 17:38 (UTC)
遡雨祈胡様へ
こちらこそ、色々と教えて頂き、ありがとうございます。遡雨祈胡様からのご助言等を、これからの記事編集に生かしていきたいと思っております。
それから、正教会やルーテル教会のマリア崇敬の加筆の件なのですが、申し訳ないのですが、正直言いまして同意はできかねます。と、言いますのも、正教会やルーテル教会には、いくつかの教派がある様ですので、正教会やルーテル教会は、それぞれ別々の記事にした方が良いと思われます。私もこの記事を書き始めたころは、1つにまとめた方が良いと思っていたのですけれど、やはり1つにまとめると、キリスト教に詳しくない方がお読みになった時に、かえって、分かりづらくなるのでは?と心配しております。(「正教会のマリア崇敬」「ルーテル教会のマリア崇敬」「(ローマ・カトリック教会の)マリア崇敬」と同じような記事が複数できてしまうと、ウイキペディア側から、「1つにまとめて下さい」と助言される可能性もあるかも知れませんが・・。)それから、もし、加筆依頼を出される場合には、正教会やルーテル教会の信者の方にお願いすることをお勧め致します。--ベアトリス会話2016年9月3日 (土) 04:41 (UTC)
お返事を有難う御座います。なるほど、確かにそのデメリットはありますね。本格的にやるにしても人が集まるかが怪しいわけですしね。もしかしたら将来的には記事名を変えることになるかもしれませんが、火急の用でもないのでそれは追い追いにしておこうと思います。色々有難う御座いました。--遡雨祈胡会話2016年9月3日 (土) 05:54 (UTC)
すみません、それから新共同訳の聖書もISBNや版数、出版年を頂けますか?そうすれば文献として書くことができるので。よろしくお願い致します。--遡雨祈胡会話2016年9月3日 (土) 06:03 (UTC)
遡雨祈胡様へ
ご返信をありがとうございます。
新共同訳聖書のISBNは、978-4-8202-1205-8、出版年は、1998年1月、版数は分かりませんでした。宜しくお願い致します。--ベアトリス会話2016年9月3日 (土) 10:10 (UTC)
修正しましたので、宜しければご確認ください。--遡雨祈胡会話2016年9月3日 (土) 11:04 (UTC)
遡雨祈胡様へ
確認致しました。感謝致します。--ベアトリス会話2016年9月3日 (土) 11:15 (UTC)
すみません、もう一つ。聖書を引用するならこちらを参照してみてはいかがでしょうか。Template:引用文テンプレート--遡雨祈胡会話2016年9月3日 (土) 11:17 (UTC)
遡雨祈胡様へ
お返事が遅くなり、すみません。
アドバイス頂いた「引用文テンプレート」を使用して修正をしてみましたので、お時間のある時にでもご確認をして頂ければ幸いです。ありがとうございます。--ベアトリス会話2016年9月4日 (日) 12:23 (UTC)
こちらこそ返事が遅くなりました。ひとまずテンプレートの使い方を修正しました。それから()の半角は中に入る文字が1バイト以下のもののみの場合(その他の場合は未定)だそうです。大変失礼いたしました。--遡雨祈胡会話2016年9月5日 (月) 15:39 (UTC)
遡雨祈胡様へ
テンプレートの修正をありがとうございました。それから、説明等を加筆致しましたので、お知らせ致します。--ベアトリス会話2016年9月5日 (月) 23:07 (UTC)
ベアトリスさん、本稿は百科事典の1ページですので、改行を多用するよりは筋道立ててそういう話に繋がるかを考えた方がいいと思いますよ(確かに改行は便利ですが)。少し情報を補足したいなら、それこそ脚注の注釈を使えばいいわけですし。ノートも今後書かれる方は、彼らの議題が毎回下に来ると編集しづらくなるかもしれません。他のノートページでの対話などを参照にしつつ(マナーや気遣いも忘れず)対話してみてください。--遡雨祈胡会話2016年9月6日 (火) 00:18 (UTC)
遡雨祈胡様へ
「説明」部分は削除致しました。(「聖母マリア」の記事にて、このテンプレートを使用していましたので、使用して良いと判断して追加したのですが・・)

 >彼らの議題が毎回下に来ると編集しづらくなるかもしれません。< これは・・どなたかとお間違えでしょうか? 他の利用者とは、会話はしておりませんが・・?--ベアトリス会話2016年9月6日 (火) 05:02 (UTC)

そのテンプレートの話ではなく、所々で文中にbrを使って改行している点についてです。そちらについてはむしろいいと思います。それから、他の利用者のコメントを改竄していると考えられる可能性もあるので、毎回返答するのに他の人のコメントにまで改行スペースを開ける必要はないと思います(ブログでもありませんから)。ノートの改行も同じで、今後異なるユーザーが議論に参加する可能性を考えて話をしております。いずれにせよ、一度他の方のノートをいくつか参照して、ノートの書き方を見ることをお勧めします。確かに文字数が多くなると読みづらくなりますが、それはご自身の環境を調整してみてください。--遡雨祈胡会話2016年9月6日 (火) 05:19 (UTC)
遡雨祈胡様へ
先ほど、コメントを追加したのですが「編集の競合」があったようですので。
続きです >「無原罪の聖マリア」と「聖母の被昇天」は、ローマ・カトリック教会の信仰箇条である。< という文章を追加した理由ですが、その前の文に>ローマ・カトリック教会におけるマリア論の教義は、聖書と聖伝との必要な相互補足、正しい関係を前提としている。<と、あるのですが、「無原罪の聖マリア」は、聖書に記されていますが、「聖母の被昇天」の方は聖書には記されてはいません。そこで、「聖書と聖伝」の具体的な例になるのではと考え加筆致しました。でも、遡雨祈胡様のご意見を尊重致します。ありがとうございます。--ベアトリス会話2016年9月6日 (火) 05:31 (UTC)
改行修正致しました。ご確認宜しくお願い致します。--ベアトリス会話2016年9月6日 (火) 06:11 (UTC)
聖書と聖伝はいっそ聖書で説明があってもいいかもしれませんが、そこは一度置いておきましょう。本稿の議題はマリア崇敬ですから、恐らく信仰の内容の全てを包括的に話すのは難しいと思います。それから、子のうちに永遠の父は「御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせた。」のである[16]。とありますが、これの意味が申し訳ないのですが分かりません。もう少し一般の方に分かるように説明をお願い致します。(父が神を意味するのは分かるのですが)--遡雨祈胡会話2016年9月6日 (火) 07:04 (UTC)
遡雨祈胡様へ
1.>聖書と聖伝はいっそ聖書で説明があってもいいかもしれませんが< それは、聖書のみ言葉でという意味ですか?その後に書いていますけど?  >「わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。」—日本聖書協会『聖書 新共同訳』、テサロニケの信徒への手紙二 2章15節) 

「多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。」—日本聖書協会『聖書 新共同訳』、テモテへの手紙二 2章2節)< 

2.>子のうちに永遠の父は「御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせた。」

—日本聖書協会『聖書 新共同訳』、コロサイの信徒への手紙 1章19節)のである。< これは聖書の著作権の問題で、変更はできません。が、その前に記述している、 > ローマ・カトリック教会の中に常に存在してきた聖母マリアに対する崇敬は、独自のものであり、神に捧げられる礼拝とは本質的に異なったものである。それは、マリア自身に対するものではなく、神である御子イエス・キリストが正しく知られ、愛され、讃えられ、その言葉が守られるためとされている[5]。< というこの部分が答えになると思います。(『教会憲章』)--ベアトリス会話2016年9月6日 (火) 10:09 (UTC)

この個所の記述は、修正・削除をしましたので撤回致します。--ベアトリス会話2016年11月19日 (土) 12:53 (UTC)

すみません、色々感情的になっていたと思います。
1. 聖書と聖伝はいっそ聖書で説明があってもいいかもしれませんが
ここに関しては分かりにくい言葉で申し訳ないです。別項目の「聖書」の記事で記載があればいいと思ったという話です。そもそも聖書からの引用文である「わたしたちが説教や手紙で伝えた教え」=聖書の言葉、「多くの証人の面前でわたしから聞いたこと」=聖伝の言葉というのを、この記事を読んだだけの人間にどうやって見分けろというのでしょう(他の記事も読んで頂ければベストですが、それは希望的観測と考える方が無難でしょう)。聖書のたとえ話を使うことが悪いとは言いませんが、百科事典はなるべく簡潔に書く方がいいと思います。伝わらないと始まらないわけですしね。おそらく2も近いところがあって、キリストのことばである聖書の内容がキリストの意図と近い形で理解されるように、という意味で宜しいでしょうか。--遡雨祈胡会話2016年9月6日 (火) 15:05 (UTC)
遡雨祈胡様へ
聖書と聖伝はリンクを付けていますので、リンク先で説明が載っています。>キリストの意図と近い形で理解されるように<ではありません。 それから、この記事の編集は2016年9月2日時点でお話がついていますよね。ですので、もう終わりにさせて頂いて宜しいですよね。もしかしたら、「別件」を断ったことが尾を引いているのかも知れませんが、前にもお答えしたように、同意はできません。(記事名を変えることも含めてです)「マリア崇敬」というのは、そんな単純な教義ではないのです。宗派での違いを並べればよいというものではないのです。遡雨祈胡様には、色々な編集のしかたを教えて頂き、本当に感謝しております。--ベアトリス会話2016年9月6日 (火) 18:27 (UTC)
失礼いたしました。一先ずこの件はこれで終了とさせていただきます。別件はあまり気にしていなくて、いっそ他の教義におけるマリア崇敬について記載するためのページを作ることは考えましたが(その際申し訳ないのですが、こちらのページ名をノートで意見を募って変更することは考えています。例:『マリア崇敬(カトリック)』)、まあ今はいいか、というのが本音です(自分でも現状そこまで対応できるほど力はないと思っています)。以上になります。--遡雨祈胡会話2016年9月7日 (水) 13:13 (UTC)

改名についての相談[編集]

先程英語版のリンクをVeneration of Mary in the Catholic Churchに付け替えました(方法)。現時点では情報量を比べて、「聖母マリア」の方には英語版のMary, mother of Jesusにリンクさせてはおります。この後は

1. 「聖母マリア」と「イエスの母マリア」で統合提案を提出する
2a. 残ったいずれかをリダイレクトにする
2b. 残ったいずれかをマリアの称号としての記載に変更する

辺りが無難かと思っています(すぐにやるかどうかは別として)。Marian devotionsと「イエスの母マリア」はそれぞれ日本語版、多言語版とリンクは現在付けておりません。本題に戻りまして、個人的には英語版に合わせて改名提案を出した方が、何も知らない人からの誤解は少ないのではないかと思っています(それこそ信心、あるいはマリア崇拝と混同するなど)。しかしながら、何も言わずに改名提案を出すのも宜しくないので、信者の方や他の方の意見とその理由が聞きたいと思っています。

余談ですが、言語間のリンクについては、以下の翻訳の文献(とその邦訳)が説明に仕えると思うので紹介しておきます(ざっと調べただけなので、確認は必要ですが)。

以上、差支えなければご意見をお聞かせください。--遡雨祈胡会話2016年9月11日 (日) 22:32 (UTC)

しない場合の選択肢としては、こういうテンプレートがいいかなと思うので一応提案しておきます。

--遡雨祈胡会話2016年9月11日 (日) 23:13 (UTC)

コメント遡雨祈胡様へ  言語間リンクの差し替えの処置、ありがとうございます。私も気になっていた点でした。venerationが「崇敬」の訳に近いと思います。以前の「en:Marian devotions」は"devotions"と末尾に"s"がついていることから、これは「信心業」の訳が適切で、「お祈りを含めた宗教的諸行」を意味します。この英文記事の内容もそれに即していましたので、適切な処置だったと考えます。お疲れ様でした。
なお、新しい他言語版は、カトリック教会に限定した"en:Veneration of Mary in the Catholic Church"ですね。この「マリア崇敬」の記事内容もカトリック教会に限定した内容が中心で、カトリック教会が袂を分かった後の「他の教派」については触れていないことですから、「マリア崇敬(カトリック教会)」とする方が記事の内容に即しているとは思います。
ただ、「マリア崇敬」という言葉は、マリアを記念する他の教派の方々がどう扱っているか。これはその該当する教派の方からご意見があれば、と思うのですが、如何でしょうか。あるいは、カトリック教会のみが「マリア崇敬」という言葉を使い、マリアを記念する他教派では使わない概念なら、いっそ、「マリア崇敬」のままの方が良いとも言えます。
言語間リンクについては、英語版記事の内容とdevotionsの意味で分かると思いますよ。グリニョン・ド・モンフォールその著作]は、リンクの差し替えについて意図する内容から少しずれると思います。なお、Marian devotionsは新たに日本語版を「マリアへの信心業」とでも題して新たに起こす方が適切ですね。--Ann Clara会話2016年9月14日 (水) 03:50 (UTC)
Ann Claraさん、丁寧な回答を有難う御座います。そうですね、ひとまず何もないなら現状問題ないということで、このままにしておきます。マリアへの信心業は、カトリック以外の分野は英語版を訳すのがメインになりそうですね。--遡雨祈胡会話2016年9月14日 (水) 14:37 (UTC)

これから編集に携わる方へ[編集]

はじめまして、初代執筆者のベアトリスと申します。 「マリア崇敬」の編集に携わっていた方が、体調を崩されてウィキブレイクに入られました。これから編集をされようとする方は、このノートや要約、会話ページ等をご覧になることをお勧め致します。(私も、お休みに入ります。) お願いなのですが、「マリア崇敬」の記事は、キリスト教の教義に関する内容、「宗教」の項目ですので、それに不適当と思われる内容はお控え下さい。正しい判断力と常識、教養と他者に対する思いやりをお持ちの方であれば理解して下さると確信しております。宜しくお願い致します。--ベアトリス会話2016年9月17日 (土) 04:42 (UTC)

ベアトリスさんのお考えに必ずしもすべて同意するわけではありませんが、意は尊重したいと思います。不正確だったり、間違っていたら、どんどん元に戻して、協力してよい記事にしていきたいと思います。わたしはキリスト教になじみのない人に少しでも理解しやすくなるように、そして違和感をいだかせないように記事の改善を心がけたいと思っています。こちらこそ、よろしくお願いいたします。--153.221.219.140 2016年9月18日 (日) 02:15 (UTC)
153.221.219.140・MatsunoKobayashi様へ
コメントをありがとうございます。153.221.219.140様は、ご自分のノートに>「神おひとりのほかに、だれも善いかたはおられない(別の訳:善い者はひとりもいない)。」(ルカ18:19)福音書の中で私の好きなところの一つです。--153.221.219.140 <と書かれていますよね。このみ言葉の解釈は、他の宗派・教派の方ですよね。「マリア崇敬」は、カトリックの教義ですので、他宗派の信者、もしくは信者でない人には、到底、協力して頂ける内容のものではありませんので、申し訳ないのですが、お引き取り下されば幸いです。もし、カトリック信者であっても、現在の記事の内容をお読みになればお分かりになるように、もう、「書きかけ」ではありませんので、御協力はお気持ちだけ受け取っておきます。--ベアトリス会話2016年9月21日 (水) 23:35 (UTC)
まず、ベアトリス様の「カトリックの教義ですので、他宗派の信者、もしくは信者でない人には、到底、協力して頂ける内容のものではありませんので、申し訳ないのですが、お引き取り下されば幸いです。」ですが、ウィキペティアはだれでも編集に参加できることを大前提にしている点を踏まえると、この記述は議論の対象になってしまいます。そのため、この弁について少し補足させて頂ければ、とペンを取りました。ここでのベアトリス様のご発言は、「記事内容にある程度の予備知識をお持ちいただいて編集にご参加頂きたくお願い申し上げます。」位の意味と解釈して頂いた方が良いと思われます。なお、編集には、コメントアウトのメモ書きや、ノートへの議論を通じた後に編集を行うなど、他の編集者に配慮しつつ、作業を進めていきたいと思います。
私も精神的に参ってしまい、ウィキブレイクをしておりましたが、問題点に対処するため、復帰することといたしました。よろしくお願いいたします。--Ann Clara会話2016年9月23日 (金) 00:48 (UTC)
Ann Clara様へ
御指摘と補足を感謝致します。以後、気をつけます。ごめんなさい。--ベアトリス会話2016年9月28日 (水) 12:45 (UTC)

上記の3個所を撤回致します。--ベアトリス会話2016年11月19日 (土) 12:53 (UTC)

マリア崇敬の英語表記その他[編集]

申し訳ありませんが、「マリア崇敬」の訳語について、編集のバッティングがあったようです。 Mariolatryの訳はen:Protestant views on Maryを参照してい頂ければ結構ですが、元々はプロテスタントがマリア崇敬(Marian Veneration)について言及するために使い始めた用語で、批判的意味合いを持っています。 ご参照になったキリスト教大事典はプロテスタント系の編集によるものですね。そういった意味合いでマリア崇敬の英語訳はVeneration of Maryでこれは、en:Veneration of Mary in the Catholic Churchをご覧になるとわかるでしょう。dulia、崇敬の訳はen:venerationです。第一、マリア崇拝の英語訳でMariolatryとなっていますよね。 マリア崇敬とマリア崇拝は異なることは、ここからもお分かりかと思います。よろしくお願いいたします。編集合戦はなるべく避ける方向にもっていきたいと思います。

なお、トマス・アクィナスがHyperduliaを初めて使ったという話は誤解です。参照元が間違っていると思われます。まず、en:LatriaのLatria vs. Dulia and Hyperduliaを読むと、この言葉はアウグスティヌスヒエロニムスらの西暦300年~500年頃の教父たちによって使われ、トマス・アクィナスはこの言葉をより深く定義したにすぎないことが書かれています。(そういった意味で、日本語版のラトレイアも英語版を訳しきっておらず、間違っています。)この用語は公式には、第2ニカイア公会議で定められた言葉です[1]。第一、第2ニカイア公会議は787年だし、トマス・アクィナスは1225年生まれなので、おかしいとわかるはずですよね。第一、Hyperduliaはラテン語ですが、ギリシャ語にその語源を持ちます[2]。トマス・アクィナスはシチリア王国出身です。まあ、ギリシャ語もできたでしょうが、それは推測です。よろしくお願いいたします。--Ann Clara会話2016年9月21日 (水) 08:59 (UTC)

典拠を補強しました。[1]--MatsunoKobayashi会話) 2016年9月27日 (火) 12:48 (UTC). 追加しました。[2]--MatsunoKobayashi会話2016年10月2日 (日) 21:02 (UTC)
MatsunoKobayashi様 精力的な参照文献の検索、痛み入ります。
以下に述べることは、この記事をより良く編集するための論議であり、「記事の主題に関する公開討論」のつもりはありませんので、ご了解ください。
確かに私はこのセクションの初めで、「トマス・アクィナスがHyperduliaを初めて使ったという話は誤解です。」後半で「第2ニカイア公会議で定められた言葉です」と申し上げました。これが混乱を招いたのでしょう。ここではっきり申し上げておきますが、Hyperduliaはラテン語です。これの大本の概念は、ギリシャ語でδουλεία: douleíaからきています。そして、これはヒッポのアウグスティヌスが使い、そして第2ニカイア公会議(787年)でさらに、以下のように4段階(後に3段階に改められる)に定められています。Second Council of Nicaea - 787 A.D. 英語文献 
  • our Lord, God and saviour, Jesus Christ, (我らが主、神及び救い主、イエスキリスト)
  • our Lady without blemish, the holy God-bearer, (聖母、穢れなきもの、聖なる神の母)
  • the revered angels(天使への尊敬、畏敬)
  • any of the saintly holy men(諸聖人)
もうお分かりのように、787年の段階で、マリアは天使や諸聖人より上の崇敬をすべきだと定められていますね?つまり、この段階で、Hyperduliaの大本は決定したのです
なお、トマス・アクィナスはこのマリア崇敬の概念をSumma Theologica(神学大全)にラテン語で、Hyperduliaと訳して、次のように書きました。英文で申し訳ありません。
“In more technical terms used by the Tradition to draw this important distinction, devotion to Mary belongs to the veneration of dulia, or the homage and honor owed to the saints, both angelic and human in heaven, and not to latria, or the adoration and worship that can be given only to the Triune God and the Son incarnate. Because of her unique relationship to Christ in salvation history, however, the special degree of devotion due to Mary has traditionally been called hyperdulia. While latria is owed to her Son by reason of unity of his divine and human natures in the Person of the Word made flesh, hyperdulia is due to Mary as truly his Mother.  Summa Theologiae(II-II, q. 103, a. 4; III, q. 25, a. 5),[3][4]
一番大事なところは、the special degree of devotion due to Mary has traditionally been called hyperdulia.(マリアへの特別な信心の度合いは伝統的に特別崇敬:Hyperduliaと呼ばれ続けてきた)[3][4]という箇所です。つまり、トマス・アクィナスは自分の著書で自らHyperduliaを昔から使われた呼び名だと言っているのです。なお、MatsunoKobayashi様が引用元とされた書籍は全てこのSumma Theologica(神学大全)のことを指しています。
MatsunoKobayashi様 どのような日本語の解説文献を引っ張って来ても、Hyperduliaはトマス・アクィナス以前に使われていて、大本のSumma Theologica(神学大全)に、トマス・アクィナス自身が、それをはっきり書いてあることなんですよ。ですから、私は文献が間違っていると申し上げてきたのですが、ご理解いただけなかったようですね。つまり、トマス・アクイナスは、昔からあったこの概念を始めてHyperduliaとラテン語に訳し、詳しく理論づけた神学者なのです。なお、このHyperduliaが、「スコラ哲学で初めて」と解説を入れておいでですが、トマス・アクィナスはスコラ哲学に属する方ですから当然の話で、かえって混乱の元ではないでしょうか。このような解説は、「トマス・アクィナスがラテン語に訳し、概念を深めた。」の方がより良く説明できると思います。
MatsunoKobayashi様 精力的に参照文献をお探しのようですが、トマス・アクィナスに関しては、大本のSumma Theologica(神学大全)を参考にすると、MatsunoKobayashi様の編集された日本語文献の頼りなさが浮き彫りになります。これでは、キリスト教に詳しくない方々に誤解を招きかねません。記事をより良い方向へ編集することをご検討いただけましたら幸いです。残念ながら、私は手元にSumma Theologicaの日本語訳を持っておりません。
なお、トマス・アクィナスとHyperduliaの部分は日本語文献に適当な解釈がなくて、困っている部分でもあるのです。よろしくご高察頂けましたら幸いです。--Ann Clara会話2016年10月3日 (月) 01:05 (UTC)
神学大全』の日本語訳(創文社)第20冊および第29・30・31冊ほかを図書館で予約しました。予約した図書館の蔵書ではないので、借りられるまで1週間から場合によっては1か月以上かかります。日本語訳を見た上でAnn Claraさんにお答えするつもりでいます。ご了承ください。--MatsunoKobayashi会話2016年10月4日 (火) 21:01 (UTC)
『神学大全』の該当箇所を見ましたが、Ann Claraさんがおっしゃる「トマス・アクィナスは自分の著書で自らHyperduliaを昔から使われた呼び名だと言っている」ことは確認できませんでした。なお、マーガレット・アストン「中世における民衆の宗教運動」を典拠に加えて修正しました[3]。--MatsunoKobayashi会話2016年10月19日 (水) 00:44 (UTC)
MatsunoKobayashi様 『神学大全』の検索、お疲れ様でした。日本語の翻訳版を参照して見つからないとのことですね。了解しました。なお、私がネットで調べた分[3][4]には、上記のように記載されているのですが、「神学大全」の日本語翻訳版で該当箇所が見つからないということを確認して頂いたと認識します。
さらに、英語の文献と日本語の文献なら、WP:RSの「日本語以外の言語で書かれた情報源」に従い、日本語文献を優先させることで、この件は了解しました。--Ann Clara会話2016年10月19日 (水) 05:54 (UTC)
コメント お疲れ様です。英語版の『Summa Theologiae』にも該当の記述がなくて混乱していたのですが、Ann Claraさんがご提示の出典のページをよくよく読めばthe special degree of devotion due to Mary has traditionally been called hyperdulia. というのは神学大全そのものの記述ではなくて解説であり、これはこのpdfを参照していて、さらに辿るとこの文は『Our Sunday Visitor's Encyclopedia of Catholic Doctrine』(1997) という本からのもののようですね。(編者を見ると ISBN 978-0879737467 の本かなと思いますが、年が合わない……)--Strangesnow会話2016年10月24日 (月) 04:55 (UTC)

冒頭部分の説明書き及び「信心」のリンクについて[編集]

最近、編集合戦気味の傾向がみられるため、ノートでの議論にて、編集の確認を行っていきたいと思います。

まず、

「カトリック教会では、人間である聖母マリアや聖人に対しては、尊敬や崇敬の語を使い、信仰とは言わずに信心と言う。カトリックでいう信心の対象は天使やロザリオにも及ぶ。」

の部分ですが、

  • (ゴシック体注意)この「信心」リンクは「信仰」へリダイレクトされます。編集意図とは全く別のリンクとなりますこと、如何でしょうか。
  • 「カトリックでいう信心の対象」ですが、天使に信心は行うでしょう。でも「ロザリオ」は信心の対象になるかどうか。疑問です。「ロザリオ」は祈りの業であって、「信心業」[5]ではあるでしょう。ロザリオは聖母マリアへ「信心」[6]するために行う「信心業」ではないでしょうか。

編集されました方、よろしくご回答願います。なお、ご了解いただければ私の方で編集すること、やぶさかではありませんが、合議を経た上の方が望ましいと考えての議論です。--Ann Clara会話2016年9月22日 (木) 23:28 (UTC)

訂正、除去しました。[4]--MatsunoKobayashi会話2016年9月27日 (火) 12:49 (UTC)
MatsunoKobayashi様 編集ありがとうございました。申し訳ありません。これは個人攻撃ではなく、MatsunoKobayashi様に今後もよりよくこの記事を編集して頂きたいと思いまして、あえて申し上げます。天使ロザリオは全く別のもの。若い女性がロザリオを首にぶら下げて歩く時代です。「ロザリオを信心の対象」と記述するなど、前代未聞のお話と思われます。記事、ウィキペティア全体の信頼性に関わるお話ですので、今後は十分下調べ等をしていただいた上、ウィキペティアにご参加いただくのがよろしいのかと存じます。たしかに、ウィキペティアは誰でも参加することが可能なプロジェクトです。間違いには寛容です。しかしながら、MatsunoKobayashi様は十分に下調べができる参考文献をお持ちだとご自分のノートにもお書きなので、あえて苦言を申し上げました。ご気分を害されましたら申し訳ありません。再度繰り返しますが、これは個人攻撃ではなく、ウィキペティアをより良いものにしていくためのお話ですので、お許しください。--Ann Clara会話2016年9月29日 (木) 11:19 (UTC)
それと、ノート等での記述には、私なら、「ご指摘ありがとうございました。」位は記述いたします。私が言えた義理ではありませんが、お互いにWP:CIVをここがけましょう。--Ann Clara会話2016年9月29日 (木) 11:24 (UTC)
ロザリオについて前代未聞の間違いをした点ならびにWP:CIVについてご指摘ありがとうございます。--MatsunoKobayashi会話2016年9月29日 (木) 14:07 (UTC)

脚注[編集]

  1. ^ Possible Response to ‘Veneration of the Virgin Mary in Christianity’
  2. ^ Hyperdulia wiktionary
  3. ^ a b c Praying to Saints by Sebastian R. Fama
  4. ^ a b c Seasons of Grace
  5. ^ カトリック教会那覇地区 信心業
  6. ^ カトリック中央協議会 聖母月とロザリオ