ノート:ヴィクトリア&アルバート博物館

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過去に行われた日本での展覧会では「ヴィクトリア&アルバート美術館」を用いていたようです。ただし博物館と表記されることも多い。--忠太 2005年2月13日 (日) 03:24 (UTC)[返信]

  • 本文に「明治政府は、この博物館の「殖産興業のための施設」としての基本理念に強い影響を受け、現在の東京国立博物館設立の際にその参考とした。」と書かれてますが、出典は何でしょう?「殖産興業」と言われても納得し難し。 --忠太 2006年3月27日 (月) 13:52 (UTC)[返信]
その部分を執筆した者です。出典は美術手帖(美術出版社)1998年2月号、特集『テイト・ギャラリーとイギリス美術』からです。以下参考にした部分、91ページを引用します。
「ヴィクトリア&アルバート美術館 開かれた美術館を目指して」(執筆:森口まどか)
・・・ところで、現在の東京国立博物館は、その設立構想段階でサウス・ケンジントン博物館をおおいに参考にしている。明治政府は殖産興業の一環として博物館設立を積極的に推し進めるが、その際サウス・ケンジントン博物館の内容は重要な手本となったのである。逆に言えば、当時の政府高官はサウス・ケンジントン博物館に出合うことで、博物館と勧業が連動しあうことを学んだ。また1877年には、サウス・ケンジントン博物館から陶磁器・織物などを含め、ヨーロッパ各地の美術品の寄贈を受けている。・・・
もっとも、この情報の出典は不明です。どちらにしても東京国立博物館の成り立ちにとってはその発想の源は重要ですが、V&Aにとってはトリビアに近い出来事なので削除するということもできます。Nopira 2006年3月27日 (月) 16:35 (UTC)[返信]
それではコメントアウト化します。『博物館の誕生 町田久成と東京帝室博物館』(岩波新書)を立ち読みしたところ、佐野常民はV&Aを参考にすべし(殖産興業)、町田は大英博物館を参考に(古美術など)とそれぞれ主張してましたが、実際に収蔵された品は、廃仏毀釈で流出した古美術品+動植物などの自然標本だったようです(後者はずっと後に国立科学博物館へ)。なので、設立の過程でそういう主張をする人もいた、というところかと。 --忠太 2006年4月20日 (木) 14:44 (UTC)[返信]
ありがとうございました。日本の博物館も方向が定まらなかったのですね。佐野常民は龍池会を立ち上げるなど、美術やデザインと、外貨獲得・殖産興業を結びつけるのに熱心であったようですね。Nopira 2006年4月20日 (木) 19:14 (UTC)[返信]

改名提案[編集]

「ヴィクトリア&アルバート博物館」への改名を提案します。理由は、この施設の日本語公式ウェブサイトが「ヴィクトリア&アルバート博物館」と表記しているからです。こちらをご覧ください[1]。--Peachkiller 2008年3月30日 (日) 13:01 (UTC)[返信]

移動しました。--Peachkiller 2008年4月16日 (水) 07:25 (UTC)[返信]