ノート:ヴェルナー・ハイゼンベルク

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一般的な見解と見なすに?[編集]

「量子の考案」は科学者の原著の一部の章をそっくり収載した編集書なので、「真実の世界は科学では不十分でありわからないものであり、『ウパニシャッド』を示して、西洋の公の宗教的な信条という迷信に代わりうる唯一のものは、意識が二を知らぬ一であるという直接の経験に従うことであると、記している」と書きましたが、これはハイゼンベルク原著に書いてある表現のまま自分が短くしたものです。

哲学感についてどういった著作があり、どういった思想的背景があるのかという短い説明もついており、ケン・ウィルバーによるものですが、その観点について書くべきであれば書きます。最初の文について既に書いてあります。--202.94.156.40 2016年10月8日 (土) 06:15 (UTC)[返信]

チェリーピッキング[編集]

先に書いた「チェリーピッキングです」という指摘は、記述が「事実でない」という指摘ではありません。 「チェリーピッキング」は、「事実」の断片を都合よく切り取ることで、自説を強化したり、細部をもって一般的であるかのように見方を歪める類の手法です。

くだんの書籍は、まさに「自説の強化」のために膨大な書籍から断片を切り取ったものです。 その点には異議がないと思いますが、いかがでしょうか。

私自身は、ハイゼンベルクの著作も複数、彼に関する伝記(他の科学者によるもの、奥さんによるもの、日本人によるもの)、ボーアの同僚によるハイゼンベルクの叙述、など多数読んでいますが、K.ウィルバー以外の人物によって「神秘主義者であり、独特の神秘観を持っていた」などと主張するものに出くわしたことはありません。

ハイゼンベルクも含め当時の物理学者は、思考・言語の限界、さらに因果律の破れといったものに関して、深刻な困難に直面しており、その限界にもあり「神秘的にも見える」あれこれの話もしていますし、宗教観に関しても「自分自身は人格神を信じている」といいつつ、プランク流の素朴なキリスト教の限界にも言及しています。また、究極の物理の姿はイメージ不能な数式・抽象でしか表すことが出来ないという点をプラトンにきっかけをもらったことも事実です。 ただ、それらをもって神秘主義云々だとことさらに強調することは不当と考えます。

彼の著作を沢山読めばわかる、たとえば「古き良きドイツ」「プラトン」「キリスト教(人格神)」への思慕の強さ、といった彼の根本に根差している価値観を無視して「神秘主義者」に仕立て上げるのは、まさにチェリーピッキングと見做さざるを得ません。(その意味では「シュレーディンガー」に関しては、やや神秘主義者的な思想を持っていた、と言えるかもしれません。ハイゼンベルクにおいてそれを主張するのは「チェリーピッキング」の謗りを免れません)

彼と彼関連の他の人々の著作(K.ウィルバーのそれではなく)をそれなりに読み込んだ後に、彼が「神秘主義的」であると思えるのであれば、改めて議論しませんか。もしくは、K.ウィルバー以外で、彼に関して「神秘主義者」であると詳細な議論をしている著作が複数あるようであれば、それを提示して頂けませんか?

また、K.ウィルバー著作はおそらく、ハイゼンベルクのドイツ語版→英語版からの引用で、さらに(吉福氏による?)日本語への再翻訳と思われますが、たとえば「部分と全体」に関してはハイゼンベルクの弟子であり10年間ともに研究された、山崎和夫さんによるオリジナルのドイツ語版からの直接翻訳と同じ部分を比較してみてください。かなり昔に読んだ記憶では、訳者(吉福氏)による偏向翻訳のようなものを感じた覚えがあります。 ご希望であれば、私の方でも再度取り寄せて、翻訳比較をしてみたいと思います。

ところでIPアドレスではなく、アカウントでやりとりしませんか? (私の場合、実名アカウントでリスクを負い、それなりの覚悟を持って書いています) --Shirouzu会話2016年10月22日 (土) 07:32 (UTC)[返信]