ノート:一ノ谷の戦い
すいません。2005年6月29日 (水) 03:07の編集を行ったshimoxxと申します。行き過ぎた編集だったと見られたようなので、ちょっとだけ釈明いたします。近年の研究では、一ノ谷の戦いの結果を左右したのは源義経の知略ではなく、後白河上皇のウソ宣旨だったことが明らかとされており、このことは広範な支持を集めているようですので決して自分独自の考察という訳ではありません。また、鵯越の逆落としについてもアカデミックレベルではフィクションの世界だとする見解が非常に強力であるように思えたので削除してしまいました。残念ながら平家物語の史料としての信頼性はそれほど高くないみたいです。ついでに言えば、源氏軍の戦略目標が神器奪還だったとする見解がどれほどの支持を得ているのか非常に疑問に思われます(神器なんかなくても後鳥羽天皇は即位してますし)が、浅学の自分は否定する程の根拠も持っておりませんのでそのままにしておきます。ともあれ、自分がそうしたように、自分の記述もどなたかに大胆に編集して頂ければよいなあと思っております。shimoxx 2005年7月1日 (金) 16:29 (UTC)
- 2005年7月1日 (金) 20:22 の編集を行った味っ子です。軍記物語の史料としての信憑性の低さは理解しますが、日本の合戦の場合、これにある程度依拠しなければ経過の記述がほとんどできなくなってしまうと思います。中でも逆落としについては、「この合戦を決定付けた」「義経の天才性」と、学界ではともかく、一般には強く信じられドラマや小説、一般書では逆落としは定番です。一の谷の戦いの項目を書く場合は、これの言及は避けられないと考えます。否定する場合は、記述を消すのではなく、別にコメントとして否定説を書くのがよいと思います。味っ子2005年7月2日 (金)
- 本音を言ってしまえば、逆落としの記述は百科事典にとって有害なもののような気がするなあ、と思いつつも、楽しいウィキペディアで角突き合わせる論争をするのは好きでないですし、自分に非があることは明らかなようですので、今後は記述を単純消去しないよう肝に銘じることと致します。shimoxx 2005年7月2日 (土) 06:20 (UTC)
全面加筆の趣旨
[編集]大幅に加筆しました。合戦経過ですが、昔馴染みの30年以上前の桑田忠親先生の本を読み返し。次いで、昨年の大河ドラマに便乗した歴史群像『義経』ともう2冊を目を通して、本屋で何冊か立ち読みして合戦地図を見て、更に一の谷の戦いを扱った神戸市関係のサイトに目を通して、桑田先生の頃から経過は大略変わっていないと判断してこれらをベースに書きました。
一の谷の戦いと屋島の戦いと壇ノ浦の戦いを書いていて段々分ってきたのですが、源平合戦の具体的な合戦史というものは『吾妻鏡』と『玉葉』を骨組みに『平家物語』と『源平盛衰記』で肉付けして、相反するものは合理的な説明に都合がいいものを採用してこじつけるという手法でつくられているようです。要するにこれしか史料がないのではないかと。
で、一級史料の『吾妻鏡』と『玉葉』が簡潔にしか書いていないものだから、どうしても『平家物語』と『源平盛衰記』が必要になる。それでも、どうしても情報が足らない、または露骨に矛盾する部分をその時代の軍事科学知識を使って補足してこじつけている。
この項目を書いてて、変だなと感じたのは、なんで、逆落しは鵯越ではなく鉄拐山なんだ? なんで、安田義定だか多田行綱が第三部隊を編成して山の手を攻めてるんだ?そんなこと『吾妻鏡』にも『平家物語』にも書いてない。神戸市関係のサイトを見たら逆落しの場所が須磨区か兵庫区かで論争になってるらしい。
確かにその方が軍事戦術的には合理的で、現在でも一般向け書籍では定着してるが、これは誰が言い出したんだ?桑田忠親先生の30年前の本でもそうなってる。でも、言い出しっぺは桑田先生はではないような気がする。どうもこれは旧軍の参謀本部戦史課くさいと睨んでます。桶狭間の戦いで信長に迂回戦術をさせて長年定着させた人たちだから、義経に鵯越ではなく一の谷の背後の鉄拐山から逆落しさせて、安田義定だか多田行綱に第三部隊を編成させて山の手を攻めさせてもおかしくない。この方が地図の上の戦術的に妥当だからです。歴史群像の一の谷の戦いのページに逆落しの時の義経の兵力が『吾妻鏡』の70騎ではなく30騎と旧軍の推定がちらと載っており。参謀本部戦史課は桶狭間の戦いだけでなく、一の谷の戦いも研究したなと睨んでいます。さては、明治時代か大正時代の戦史課の誰かが神戸に出張して当時のあの辺りの地形を歩いてみて、70騎では無理だが30騎ならなんとかと考えたのでは。軍人さんのやりそうなこと。これは、軍人さんが言うことだから仕方がないですね。国会図書館や防衛研究所へ行く余力がないので裏取りはできません。
個人的な結論として源平合戦の具体的な経過を大真面目に書くなんて言うのは、これは史学ではなく文学の世界ですな。やってることは、機動戦士ガンダムのア・バオ・ア・クーの決戦やソロモン攻略戦の戦史をアニメの映像やら諸設定、さらに関連本情報をつなぎ合わせ、足らない部分を現代科学や軍事技術の情報で補う作業とほとんど変わらないような気がします。もう、『平家物語』や『源平盛衰記』が信用できないと言っても詮方ない。これを外すと書くことがほとんどなくなります。なんでも、研究者の中には『吾妻鏡』まで信用できないと言う人もいるとか。そうなると、「こんな戦いがあった。こっちが勝った。」としか書くことはなくなるのでは?まあ、アカデミックの世界ではそれでいいかもしれませんね。
でも、ウィキペディアなんてものは、しょせんはアカデミックでは未来永劫使いもにならず、一般ピープルの手軽な雑学知識用と信じてます。理由は簡単でわたしのような史学のド素人が堂々と編集できるからです。一般ピープルの手軽な雑学知識用だから、逆落しも扇の的も弓流しも必要なんです。アカデミックではともかく、一般ピープルにとっては欠かせないのです。まず、一般に流布する通説ないし俗説を押さえた上で、各論の部分で論争やら最新の学説、ある程度メジャーな異説をフォローすればよいかと。
「こんなのは俗説でアカデミックでない!」と景気よく消されるのは結構ですが、こっちもそれなりに力入れて書いたので、それなりに抵抗すると思います。
『平家物語』や『源平盛衰記』は創作である。『吾妻鏡』の一の谷の戦いの記事も『平家物語』の影響があるからダメ。となると、『玉葉』しか使えなくなり、ご参考までにどういう本文になるか書いておきますね。
一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/治承8年2月7日(1184年)に摂津国福原で行われた戦い。治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。
福原に進出した2万騎から数万騎と言われる兵力の平氏に、1~2千騎の鎌倉政権軍が攻撃した。義経は三草山と一の谷を落として、範頼は浜から福原に寄せた。多田行綱は山の手を攻略し、合戦は2時間足らずで終わり、平氏は敗走した。この敗戦で平氏は一門の多くを失った。
鎌倉方の勝因は合戦の直前に後白河法皇が派遣した休戦命令の使者の言葉を信じた平氏が武装解除状態になったところを、鎌倉方が襲いかかり、平氏は大敗を喫したという説が有力である。戦後、平宗盛は「奇謀ではないか」と書状で後白河法皇を非難している。
この戦いで義経が鵯越から「逆落し」をしたなどと伝えられるが、軍記物語である『平家物語』の文学的な創作という見方が専門家の中では主流である。
とことん突き詰めると、たぶんこれしか書くことないのですが、『平家物語』や『源平盛衰記』『吾妻鏡』を完全否定して、一般の合戦本を全部却下するのはアカデミックの世界の仕事であって、ウィキペディアの仕事ではないと思うのです。
最新の学説をベースにしろという意見もありましょうが、そんなのはいろいろあって定まってないだろうし、仮にこの項目の「近年の研究」の節の菱沼一憲氏(国立歴史民俗博物館科研協力員)の「源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像― 」(角川選書、2005年)をベースに経過を書いたとします。読者のどなたかが感銘してある程度詳しく書かれたようですが、この本、気になって調べたら、丁寧に史料を調べていて、評判がいいみたいですが、従来の説を否定していて、合戦の様相が全然違うみたいです。その辺りが斬新という評価かな。どうも、一の谷の戦いは『玉葉』を優先しているようです。
いい本らしいですが、じゃあこの本をベースに本文を書くという行為は、九州王朝説の古田武彦氏の本をベースの邪馬台国やら大宰府やらの本文を書く行為と本質的に変わらないと思います。まず、通説、俗説をふまえる。その上での新説、異説であるべきと信じるのです。一の谷の戦いは、まず『平家物語』。そこに旧軍参謀本部やら桑田先生が長年こじつけた伝統ある合戦経過を尊重するべきかと。
各論の部分が長くなってしまって独自の研究化しているような気がしています。調べているうちに分ってきたのですが、この合戦は、主な論争点が二つあって、逆落しの場所が鵯越か鉄拐山か。山の手攻撃の将は安田義定か地元の多田行綱か。地元の郷土史家たちが論争している様子です。
どこかで或る程度詳しく書いて趣旨をフォローしておかないと、誰かに本文の方を強引に兵庫区の鵯越にされるて文章の流れがおかしくなって、恐らく旧軍参謀本部戦史課が考えたであろう一般に信じられる戦術的な合理性がなくなってしまう。そして、鵯越の下を一の谷にされると、これも旧軍参謀本部戦史課が考えたであろう山の手を攻めた第三の部隊の行き場がなくなるのです。鵯越説をベースに全体を直されると、それは完全に独自の研究の世界でしょう。
安田義定か地元の多田行綱かも同じこと、折衷案を採って二人並べましたが、事情を書いておかないと強引にどちらかを消す人が現れかねない。この二人、どっちも根拠があって、本によってバラバラみたいです。個人的には『吾妻鏡』で三将の一人になってる安田義定説です。多田行綱は京の公家と馴染みが深い人だったらしく、九条兼実は合戦の話を聞いて日記にはこちらを書いた、しかし、実際の鎌倉方の編成では甲斐源氏の有力武士の安田義定が大将だったという考えです。
『玉葉』に書いてある兵力差の問題も深刻で、これを採られると合戦の様相が根本的に変わってしまうのです。どこかでフォローしないと、将来勇気ある人によって、これを根拠に本文を新説ベースで全部書き換えられる恐れを抱きました。それは一般に全く馴染みのない独自の研究の世界です。
以上、かなり長くなりましたが今回の加筆の趣旨です。--味っ子 2006年12月5日 (火) 14:19 (UTC)
これはあくまで素人考えなんですが、こと合戦に関して『玉葉』をのみを信じるのは非常に危険だと思います。九条兼実って合戦に付いてどうやらその時々に聞いた伝聞の類を日記に書いて、後でフォローは特にしない人なようです。別段、これは九条兼実に非があるのではなく、彼は公家であって武士ではないのです。儀式や朝廷の政治については、誠実に書いて子孫に伝える立場にあっても、軍事は専門外で分析して正確に子孫に伝える立場にないんです。だから軍事に関しては伝聞の類を書き散らしてる。戦争では誤情報が乱れ飛ぶのです。先年のイラク戦争もそうでしたね。サハフ情報相なんていましたね。アラブの人たちはサハフ情報相を信じてイラクは勝ってると思っていた人も少なくなかったとか。まあ、サハフ情報相もそう思ってたそうですけど。これは当時、こういう情報が京で流れていたという貴重な史料になっても、イコール真実として合戦の様相を組み立てるとトンデモないことになると思うのです。『玉葉』のみを使うと源氏が1-2千騎で数万騎の平氏に攻撃をかけたことになります。これ、仮に後白河法皇の奇謀とやらがあっても、源氏は凄いことをやったことになります。軍事にうるさい立場の人間に言わせれば、はっきり言って、逆落とし以上の奇跡ですね。しかも、逆落としとかの奇襲は一切なしで、後白河法皇の奇謀で平氏は武装解除状態だった、だから源氏は勝てた。史料批判の結果だと言われても、即日武装解除状態なんて、逆落とし以上に荒唐無稽すぎて困ってしまうのです。しかも、武装解除状態なんて『吾妻鏡』にも『平家物語』にも『玉葉』にすら書いてないと思うのですよ。--味っ子 2006年12月6日 (水) 14:57 (UTC)
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[編集]一ノ谷の戦い2010-09-26T04:54:58 梅村伸雄の加筆分を転記
前文での誤りを指摘し、文献の正しい読みを記させてもらう。第一の誤りは、直実親子が忠度の守る塩屋口の西城戸に現れたという記事である。直実が西木戸で戦っている文には忠度が記載されていない点に注目してもらいたい。と云うのは『平家物語・諸本』に記される忠度は、西の手(塩屋口)の大将軍であり、西木戸で行われた「一二の駆け」には登場しない。西木戸の位置を『源平盛衰記』では、「一谷西の城戸口山の手を破り給へ、」と土肥と田代に命じているのは、「一の谷(湖)の西の木戸口にある山の手を破れ」と命じているのであり、同じく「三草山の山口西の城戸口へ廻りて攻む」と記す西木戸の戦いの記事は、「三草山(頓田山)の山口(登り口)である西木戸へ廻って攻め戦う」であり、西木戸は山の手の陣の南麓であり、苅藻川の東岸にあった。したがって、直実が出現した西木戸は苅藻川の畔であり、直実は塩屋口には現れていない。
第二の誤りは、多田行綱らも夢野口(山の手)を攻撃するという文に誤りがある。どの文献にも行綱が山の手を攻撃した記事はない。『玉葉』記載の文は、「多田行綱、自山方寄」であり、文意は「多田行綱は山方(明泉寺の陣)より寄せる」であり、行綱の戦いの意図は、山の手の平家の目を山方の戦いに向けさせ、逆落しの崖に目を向けさせないための陽動作戦であった、と解釈すべきではないだろうか。--梅村伸雄 2010年9月26日 (日) 04:54 (UTC)
ここまで。転記はKs aka 98 2010年9月26日 (日) 09:21 (UTC)