ノート:三河牧野氏
牧野氏研究者の目的は、穂国造、三河国府、山本勘助、東三河の覇者という根拠の作成にある
[編集]発祥や事跡が不明なら、本来なら、欠史八代のように架空説などの疑惑があってもおかしくないのに、穂国造、三河国府、山本勘助、東三河の覇者を牧野氏の発祥・事跡に合流させるために、研究と称して、論文を発表してるに過ぎない。無理やり結び付けようとするから、論理矛盾が生じて破綻し、両論併記などという逃げ道を使用する。
牧野氏が、阿波・讃岐発祥説は、三河守護の細川氏が、阿波・讃岐の守護でもあったという理由のようだが、細川氏は三河国額田郡細川庄の発祥ですよね?牧野氏は、西三河には全く縁がないですよ。
ほとんど、はっきりしないものを創作しているとしか思えない。欠史八代と同じです。
牧野氏は穂国造とか、三河国府の有力者の牧野氏とか、山本勘助は牧野氏家臣で豊橋人とか、東三河の覇者の牧野氏とか、
すべて根拠薄弱。
時空の旅人さんへ。ノートページに編集・投稿と直接関係ない自己主張・他編集者の中傷発言を止めるよう忠告します。
両論併記は編集合戦や議論紛糾を避けるためのウィキペディアの方針に乗っ取った解決方法に沿ったものです。自己に都合のよい勝手な解釈をしないように。なお、2007年4月2日 (月) 10:32にあなたが書き込んだ上記の自己主張・中傷内容をご自分で削除するよう忠告します。自発的に処置されない場合はこちらで適切な処置をします。
それと、「阿波・讃岐発祥説は、三河守護の細川氏が、阿波・讃岐の守護でもあったという理由」が三河牧野氏の本文のどこに書いてありましたか?お答え下さい。--故城一片之月 2007年4月3日 (火) 15:01 (UTC)
西三河の松平氏と対等たりえない東三河の牧野氏
[編集]ここまで、牧野氏を過大評価して、美辞麗句を並べ立てる意味が理解できないね。牧野氏は、戦国時代の一勢力にすぎません。--221.119.62.126 2007年2月22日 (木) 13:58 (UTC)
私も、牧野氏は戦国時代の東三河地方の部分的な一勢力にすぎないと思います。当ページは源平合戦以前の話はともかく(これも、検索可能な出典はあります)、三河での事歴は三河、それも東三河地域を越える範囲のものは殆ど無いはずです。 過大評価、美辞麗句の陳列が具体的にどの当たりかお手数ですが御指摘下さい。牧野氏が他の国人氏族、例えば奥平氏や戸田氏よりも優れていたとか強かった等の記述があればその通りと思いますし、本来は織田氏・徳川氏を制して天下を抑える存在であったなどと書いてあれば唯我独尊の過大評価にあたるでしょう。
また、他のページに比してボリュームが多いことは一つ言える事だと感じております。それが相対的に目立ち取り上げ方が過大と受け取られるかも知れません。これについてページ立ち上げ者の私は二つの考えがあります。
一つは内容整理が立ち遅れている点。もっと簡潔な記述にできないか改善余地はあると思います(反省を込めて)。
二つ目、ボリュームがあること自体はウィキ方針では推奨事項であり、内容のボリュームが無いページの増加がむしろ問題とされている点、これについて例えば奥平氏のページはこれに当たり今、気になっています。今後、牧野氏関係が一段落した後はどこまでできるか判りませんが、スタブ以下のページのフォローをしていきたく思います。一定のボリュームのあるページが増加すれば牧野氏関係のようなペ-ジが突出している印象も変化すると考えます。とりあえず・・・故城一片之月 2007年2月23日 (金) 12:08 (UTC)
だから、幕末の越後長岡藩の河井継之助の活躍が、会津白虎隊のようにTVドラマで大きく取り扱われないフラストレーションから、wiki上で、出生不詳の牧野氏をさまざまな説でもって、由緒をでっちあげている。その中でひどいのが、穂国造の出身で、古代から東三河の統治者だったと名乗るもの。もう、メチャクチャだね。後付けで、どんどんエピソードを追加して、人為的にどんどん捏造されていく。--220.217.215.140 2007年2月23日 (金) 13:27 (UTC)
河井継之助やTVドラマ云々は一体何の根拠をもとに発言しているのか判りません。それ自体なにか推量によるものとしか受け取れません。折角、意見下さっているのだから、もっと具体的に資料的根拠をもって指摘なり反論いただけませんか? それなりの対応は誠意をもってしますが。なお、穂国造が牧野氏の出自とは私の記述ではなく、また学説とされているようですが未だ確認してません。太田亮氏はたしか『姓氏家系大辞典』の編者として著名な人と思いますがこの人がその様な主張をしているか未確認で私自身のコメント・対応も保留の状態でした。今後確認するつもりですが、220.217.215.140さんがもし現物の確認をされているならば、それを基に具体的反論なり、提案をして貰えればありがたいです。故城一片之月 2007年2月23日 (金) 14:53 (UTC)
220.217.215.140です。このパソコンと、IPは自分のものではありません。ただいま自宅パソコンは故障中です。
牧野氏・東三河に関する執筆者がたまたまたくさんウィキにいただけで、どんどんエピソードを追加して、人為的にどんどん捏造されていくという批判はあたらないと思います。例えば戦国大名の尼子氏も天から下った天女の子孫とする伝説があり、それを紹介・記述したら捏造伝説であるとの批判が出るのはおかしいと 思います。当該伝説があれば、その伝説を紹介・記述することは独自調査によらない限り、ウィキの執筆方針に反しないと思います。
--219.127.75.122 2007年2月24日 (土) 10:58 (UTC)
松平氏は、酒井氏・石川氏・本多氏などの西三河有力土豪を従える総領であり、何をもって牧野氏を松平氏と対等に並べるのか?東三河で松平氏と対等なのは、田原の戸田氏のみであり、今川氏の幕下の武将の牧野氏は、松平(徳川)の家臣の石川氏・酒井氏と同等である。松平氏の東三河攻略は、対戸田氏、対今川氏のものであり、今川氏の幕下の武将の牧野氏を特定したものではない。偏向主観にも、程がある。牧野氏を東三河の首領とみなす主観は、まったくのデタラメ。牧野氏は、戦国大名ではない。
↑オタスケマンさんへ、上記投稿記事は無署名です。ノート記述の際はご署名を願います(ルールですから)。
それから、時系列で(発生順に上から下へ)投稿記入もルールですので正常位置に移動しました(今後もよろしく)。
さて、内容についてですが、松平氏と牧野氏が対等であるかどうかの議論ですね。私はこの様な単純比較は意味もないように思いますが(三河の諸氏について成立過程も背景も互いに異なっているので)、上記内容から今川氏の被官であったかどうかが、あなたの判断基準のようですからそれを前提としましょう。
田原の戸田氏は天文16年(1547年)に今川氏に攻められ壊滅し、残る二連木戸田氏は今川氏にすでに服属した状態であり、城主戸田康貞が徳川家康に帰属したのは永禄7年5月とされる(『戦国時代の徳川氏』煎本増夫著、108頁)。
永禄4年4月以降東三河に進攻した松平氏(徳川氏)もその前年、永禄3年5月(桶狭間合戦)までは明らかに今川氏に帰属していた。また、永禄5年1月に織田信長といわゆる清洲同盟を結ぶまでは表面上今川方を装ったとされる(もっとも今川氏真は永禄4年時点で家康が逆心したととらえている)(→『岡崎市史資料編5・古代中世』所収今川氏真発給文書など)
牧野氏は牛久保六騎をはじめ複数の土豪衆を糾合する東三河国人の一つである。この時点では、松平氏はあなたの説ではやはり複数の有力土豪を従える西三河の国人領主である。これが戦国大名となるには一国一円支配が実現したときとされるので、東・西三河の併合がほぼ完成したときに戦国大名となったと考えられる。(戦国大名→『日本史辞典・第二版』角川書店) 勿論、牧野氏も戦国大名ではない。つまり、松平氏・戸田氏・牧野氏は永禄4年時点ではみな国人領主であります。
以上から、この様な比較は焦点があいまいとなってしまう。また、牧野氏が東三河で一時的に広範な支配権を認められたのは明応4年(1495年)に足利義稙に三河の旗頭とされたという(「牧野氏呈譜」→『豊橋市史』362頁)頃であって、永禄年間は全く該当しない。長くなりますので以上です。--故城一片之月 2007年3月24日 (土) 12:18 (UTC)
デタラメな学説のようです。牧野氏=穂国造説は。
[編集]姓氏家系大辞典の著者・大田亮氏は、「神社を中心としたる宝飯郡史」でこれを否定しています。 太田氏は、古代の田口臣をその出自としているのですが、太田氏は、牧野氏が穂国(律令以前の東三河)入国したのが、国造時代としていますが、田口臣が蝙蝠臣から分かれるのは、律令以降のことですから、これもおかしいわけです。
でも、律令時代に田口臣は、蝙蝠臣から分かれたっていっているのに、国造時代に田口臣が穂国入国したっていうのデタラメ矛盾してますよね。これは、太田亮氏にしては、らしくない見解でした。
58.1.249.56のご質問にも答える形で一言。三河牧野氏が穂国造出身であるとの説の削除可否についてのお尋ねが58.1.249.56さんよりでています。これについて、
- 三河国造のほかに穂国造があったとする説はウィキペディア上の国造ページでもこれを取り上げるか否かは流動的であり、議論が尽くされ合意が得られたとは認められない。
- そのあいまいな取り扱いを前提として当ページでこの説を基礎とした牧野氏=穂国造出身説を取り上げるのは問題がある。
- 姓氏家系大辞典著者の太田亮氏の説は220.217.212.91さんの解説による限りは明らかに矛盾した説と思います。しかし、矛盾した説を理由にこの説の紹介を認めないのはウィキペディア基本方針の中の公平性原則に抵触するものと考えます。
- また、麻生田大橋の遺跡発掘の事実を踏まえ将来、穂国および穂国造の存在が確定しその正当な根拠に基づき、しかも閲覧検証が可能な論文・著作が提示可能となるならば当ページでそれを紹介することは妨げることはできない。
上記理由により当面、穂国造と国造ページの「穂国造」取り扱いが確定するまでは三河牧野氏においては掲載を保留とすべきかと思いますが。故城一片之月 2007年2月26日 (月) 13:00 (UTC)
追加。なお、削除記事は履歴の過去ページにもありますが、念のため私のPCのディスクにも保存してあります。但し太田亮氏の説を復活する際には220.217.212.91さんの指摘する矛盾点を併記することを条件にすべきと存じます。故城一片之月 2007年2月26日 (月) 13:10 (UTC)
(穂国および穂国造の存在が確定しその正当な根拠に基づき・・・) 今のところ、穂国造の記述は先代旧事本紀のみで、出土品などの物的証拠はありません。古事記や日本書紀にも記載はありません。にもかかわらず、東三河の自治体は実在が確定しているかのように宣伝しています。 それどころか、令制国の尾張国・三河国と対等に並べて、穂国と愛知県のHPに載せてる有様です。 こういうのを、捏造というんでしょう。実在してるなら、あちこちに証拠があるはずなのに。--220.217.200.46 2007年2月28日 (水) 10:11 (UTC)
事の真偽に関心のある方はやりきれないでしょう。 私も矛盾を感じますが、ある事実(現象)Aについて、真実説Bと虚偽説B2があったとする。Bは科学的・論理的に正しいが一般に目の触れるかたちで論文集にも出版物にもないが、B2は通俗的な出版物があり人気もあって多くの人が知っているとする。 すると、B2は虚偽説であってもウィキペディア上に紹介することができるが、Bはたとえ真実説の主張者もしくは証明者の本人であってもこの時点でウィキペディアにこれを投稿できない(なぜならば独自調査にあたるのでウィキペディアの基本方針に反してしまうから)のです。
どこかの自治体で「河童の郷」をうたい町おこしで大盛り上がりしているなどこの類はいっぱい有るでしょう。それ自体は別に非難されるべきものでは無いが、これが証明される以前に事実とか学説扱いすると問題になりやすいのでしょう。 とにかく、伝承なり仮説を紹介するだけなら、検証可能性(一般の閲覧可能な資料・出版物)があればウィキペディアで取り上げることはOKのようですよ。故城一片之月 2007年2月28日 (水) 11:10 (UTC)
あ、それとこのページは三河牧野氏なんでこの件(穂国・穂国造)でまだ何かありましたら、私のノートページの方にどうぞ。故城一片之月 2007年2月28日 (水) 11:17 (UTC)
三河諸士の旗頭
[編集]削除分「また牛窪記によると戦国時代に牧野氏は、三河諸士の旗頭に任じられたと云うが、史料学的根拠はない。」について、出典は『牧野氏呈譜』→『豊橋市史』362頁「戦国時代の豊橋地方」で、将軍足利義稙(よしたね)が三河諸士の旗頭に命じたという内容がある。よって、『牛窪記』の記述ではないため削除しました。故城一片之月 2007年3月1日 (木) 14:36 (UTC)
了解しました。--兄卵妹卵 2007年3月1日 (木) 14:47 (UTC)
ここ、牧野氏の事跡ではなく、牧野氏の出自はどこか?の発表の場になってますね!!
[編集]牧野氏の戦国時代の事跡を中心に記述すべきでは????
--220.217.212.211 2007年3月9日 (金) 07:46 (UTC)
220.217.212.211さんへ、それはあなた個人の主張と思われます。
当ページは三河国宝飯郡・渥美郡に土着し国人として発展した牧野氏という氏族を紹介するページです。
戦国時代の牧野氏の事績はその説明中に必要に応じて紹介されています。ただし、徳川氏に帰服し遠州・駿州方面へ転戦し上州大胡城主になった牧野康成・忠成父子時代の事績は、三河を転出してしまうのでこのページでは省略しています。
氏族の紹介をするページでその出自を記述することは別に不思議でも問題でもないと思いますが?
参考までに、松平氏のページ等も参照してください。故城一片之月 2007年3月9日 (金) 16:50 (UTC)
ウィキは、執筆者はいても、編者がいない悲しさでこのような意見対立がおこるのだと思います。
牧野氏に関する記述は、ウィキでは非常に厚いものとなっており、その事績は牧野氏の各人物のページに多くなされています。
氏族の出自を説明することは、ウィキに限らず百科事典では、しばしばあることで、重要なことだと思います。
またこのページには、複数の来訪者がいて、記事の成長が見られます。
故城一片之月氏の独演の場とはなっておらず、また他の投稿者のいうことには、一切耳を傾けない投稿者ではありません。三河牧野氏は、有意義なページになっていると思います。
故城一片之月氏の意見に賛成します。--兄卵妹卵 2007年3月9日 (金) 18:01 (UTC)
このような誤解・対立が起こらないように本文の冒頭に、「三河国の牧野氏の事績については、牧野古白・牧野保成・牧野成定・牧野康成・牛久保六騎・東三河司頭・ 牛久保城などを併せて参照されたい。」の一文を掲載しました。--兄卵妹卵 2007年3月9日 (金) 18:13 (UTC)
故城一片之月氏・兄卵妹卵氏の意見に賛成します。
蛇足ですが、三河牧野氏に限ったことではありませんが、本文に「推察」すると書くと、意見発表の場と思われるので、推察されているとの表現のほうがよいかもしれません。無理に訂正する必要もないと思います。 --Kounosu 2007年3月10日 (土) 08:52 (UTC)
金扇の馬印由来について
[編集]わたしはこの部分の執筆者ではないが、この話は知っていたので少し説明。
これは『牛窪記』・『牛久保密談記』に記述されている伝承。永禄8年(1563年)、徳川家康の吉田城攻めに先立ちすでに徳川氏に帰属していた、元・牛久保寄騎の牧野半右衛門正勝(後の讃岐守康成・やすしげ)はもとより金扇を自分の馬印としていたので下地村聖眼寺の太子堂に戦勝を祈願した際に2本の金扇を奉納した。この後に聖眼寺の僧侶が家康にこのうちの1本を献上、残りを聖眼寺什物とした。家康はさい先がよいと喜びのちには自分の馬印とした。家康の金扇の馬印を見た牧野半右衛門はその使用を遠慮をしたが天正18年(1590年)小田原の陣では家康自身がこのエピソードを持ち出して牧野半右衛門にその使用を許したという。
勿論、これが史実かどうかは不明であるが、典拠ある伝承として紹介されるかぎりにおいては削除原因にはならない筈です。--故城一片之月 2007年3月23日 (金) 19:30 (UTC)
また、東三河人の根拠不明の自慢ですか?100年以上後の東三河住民の意見を徳川の正史に反映しろということですか?1700年にもなって著作者不明の牛窪記、牛窪の住民が書いた牛窪密談記を信用しろと?牛窪密談記を信用するということは、山本勘助は豊橋人であるということを認めることになります。金扇の馬印は、徳川実紀に小牧長久手戦役で本陣の象徴として登場します。なぜ、徳川の公文書に由来の記載がないのですか?牛窪密談記は、甲陽軍艦に影響を受けて、山本勘助豊橋人説を登場させるなど、史料価値に疑問符が付きます。
自分は、牛窪記や牛窪密談記は、戦国時代が終わって、100年以上後の出版物にもかかわらず、書いてあることがあやふやなのは変だと思います。甲陽軍艦の影響で、この手の戦国モノの本を書くのが当時ブームだったのでしょう。江戸初期の甲陽軍艦ですら疑わしいって言われているのに。
東三河は、他にも葵紋は小坂井町発祥と宣伝したり、葵紋は賀茂神社の氏子の松平氏・本多氏など多数の三河武士で当時使われていたようですよ。家紋の辞典に出ています。松平氏は、賀茂社の御料地の賀茂郡出身だし。--オタスケマン 2007年3月24日 (土) 03:07 (UTC)
- 元の書物を信用するとかしないとか、そういう話ではありません。元の書物がきちんと提示されれば『こういう書物にこのような伝承が伝えられている』と紹介しても良いだろう、という話です。 -- NiKe 2007年3月24日 (土) 03:10 (UTC)
だいたい、牛窪記や牛窪密談記を取り上げているのは、東三河の新聞社と郷土史家だけで、全国的な知名度はほとんどなく、一般辞書にも収録されていません。まだ、甲陽軍艦のほうがましです。 昨日のTV番組で、歴史ミステリーということで、あやしげなおっさんが登場して、トンデモ学説をまくしたてていました。TVのあるある捏造、旧石器捏造事件など、捏造が多すぎます。新発見という異説を正論にすり替えるのは、もうやめてほしいね。--オタスケマン 2007年3月24日 (土) 03:33 (UTC)
オタスケマンさんへ、
「TVのあるある捏造、旧石器捏造事件など」はこの節の主題である、金扇の馬印の伝承とはまったく関係がありません。
関連事項についての御意見を願います。出典の『牛窪記』や『牛窪密談記』の妥当性についてでしょうか、「全国的な知名度」を基準とされてますが、それは何か公表されたデータ、調査結果に基づいたものでしょうか?ウィキペディアの方針の中には、メジャー、マイナー、全国的などの用語は統計的データに基づいて使用するべきとされています(なかなかめんどうですが)。
『牛窪記』や『牛窪密談記』はおっしゃり通り、全体としては同時代成立ではない二次史料です。しかし、徳川氏の正史とされる『徳川実記』はその記述着手は文化6年(1809年)であり、初代徳川家康の記述は元和2年(1616年)の彼の死去から実に193年後のことになります。それでも明暦以前の記述は不正確で誤りもあると指摘されています(明暦3年のいわゆる明暦の大火で編集史料が焼けたため二次史料に頼ったため)。出典→『日本の歴史書120選(歴史と旅増刊)1993年・100~101頁』、『日本史辞典第二版・角川書店(徳川実記の項)』
あなたの説では『徳川実記』さえおかしいことになってしまう。不正確や曖昧な部分があるからといって、該当歴史史料の全体を信頼できないとか無価値とするのは、歴史史料の取り扱いとしては適当ではないと思います。いわば玉石混淆の史料から、歴史的事実を抽出しあるいは新しい可能性をかんがえて有効に利用することが大切ですし、また歴史を考察する醍醐味もそこにあるのではないでしょうか。
また、郷土史・地域史に属するものがその地元地域の人々中心に取り扱われるのは当たり前のことで不思議ではないです。東三河に限らず西三河にだって面白い郷土のエピソードが沢山ありますよね、例えばそれをウィキペディアで紹介することは悪いことと考えますか?私は歓迎しますよ。--故城一片之月 2007年3月24日 (土) 13:00 (UTC)
聖眼寺扇の馬印の由来伝説分割提案
[編集]この項目は、牛窪記や三河牧野氏に同じような記述があり、執筆者の対立が先鋭化しています。またこの項目は本多氏にとっても重要なページとなるものと思われますので、別に1ページを立ち上げたほうがよいと思います。
また聖眼寺扇の馬印の由来伝説の記載があるために、当該ページのすべてが荒れたり、投稿合戦になっては、たまらないので、分割したほうが良いと思います。--からからからぼりぼりぼり 2007年4月8日 (日) 17:04 (UTC)
- 分割案には賛成しません。
- 聖眼寺の金扇伝承は『牛窪記』・『牛久保密談記』に確かに記述された項目であり、両史料を紹介するにあたり、ウィキペディアにこれを記述して何の問題がありましょうか?むしろ、この伝承が一人歩きすることは好ましくないし、本多家の伝承や『徳川実記』・『信長記』の記述はそれはそれで良いでしょう。そもそも、ウィキペディアは記事の内容が真実かどうかを判定したり決着をつけることに主眼が有るのではないと思います(利用者が考える上で偏向が無いようにする事が大切です)ので、典拠があれば反対説も受け入れます。問題なのは根拠・典拠なく個人の主張をノートや履歴欄にアジテーションしたり、他者投稿部分を有無を言わさぬ削除をしたり、編集強行する事であります。
- 所詮、分割移動しても結果は同じと思いますので反対します。ウィキペディアの基本方針に合わない行為や主張、ウィキペディアのコミュニティをないがしろにする行為に対してはそれなりの処置でよいと考えます。--故城一片之月 2007年4月9日 (月) 10:01 (UTC)
荒らし編集以前に復帰
[編集]一応、荒らし編集以前に戻しました。聖眼寺の金扇については『信長記』・『柳営秘鑑』の両説を参考として併記することにしました。もっとも、このページは今後もっと見易く整理したい(すべき)と思います。よって、聖眼寺の金扇伝承も、主な記載ページは牛窪記のページとし、三河牧野氏においては略記に留めます。--故城一片之月 2007年4月16日 (月) 17:07 (UTC)
梁山泊智多星呉用について
[編集]User:梁山泊智多星呉用はUser:オタスケマン関連のソックパペットとして無期限投稿ブロックされました。--Emergency Center 2007年9月16日 (日) 11:47 (UTC)
記事整理のおしらせ
[編集]当ページはただ今、主に簡素化のために記事整理をしています。
- 重複の記事内容は省く。
- 脚注の活用。
- 出典ともなう記事を重視。
- 主観的内容を極力避ける。
- 他ページとの重複を避け、リンク化する。
ご迷惑をお掛けします。ご質問・ご提案はこのノートか利用者‐会話:故城一片之月にどうぞ。--故城一片之月 2008年11月9日 (日) 15:36 (UTC)
系譜4の牧野氏系図の分割提案
[編集]この節に掲げられた譜代大名になった牧野氏の系図;系譜4の三河国転出以後の部分について、近世大名牧野氏の各藩(越後長岡藩、三根山藩、小諸藩、笠間藩、 丹後田辺藩)の該当部分に分割し、現在系図の記載の無い各藩に藩主歴代の系図を備えるとともに、三河牧野氏のこの節の系図を簡素化および、関係各藩ページへのリンク構築を図りたいと思いますので、表記分割提案を致します。宜しくご審議を御願い致します。--故城一片之月 2008年12月23日 (火) 04:10 (UTC)
- (賛成) 問題は庶子をどこまで記載するかです。--今泉総一郎 2008年12月27日 (土) 20:20 (UTC)
- (コメント) 『寛政重修諸家譜』など、閲覧可能な資料に準拠すれば良いと思います。猶予期間も経過し、特に反対論も無いので分割実施といたします。以後の疑義・提案は作業終了時点でこのノートまたは分割移動先のノートにて新規項目にてご議論願います。--故城一片之月 2009年1月13日 (火) 15:12 (UTC)
IP利用者の記事の一括大量削除の件
[編集]「寛政譜と異なる」という理由のみで、IP:180.197.217.163およびIP:14.132.91.153の人は、他の出典・参考文献付き記事も含め一括大量削除を繰り返すのはやめて下さい。その様な乱暴な削除編集は記事破壊行為に他なりません。--故城一片之月(会話) 2012年9月20日 (木) 16:47 (UTC)