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ノート:三面記事

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「センセーショナルな」記事なのか?

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本文に要出典範囲を付けましたが、「三面記事」は、それ自体で「センセーショナルな」記事という含意があるのでしょうか?

むしろ、センセーショナルな記事は一面で取り上げられるのではないでしょうか?

少なくとも、提示されている典拠の記述にはセンセーショナル云々の記述はありませんので、要出典範囲を付けました。一定期間新たな典拠の提示がなければ、要出典とした記述を除去します。--山田晴通会話2019年6月17日 (月) 23:27 (UTC)[返信]

それは、「三面記事」という言葉が成立した当時の状況を無視した話ではないでしょうか。当時の新聞において一面には何が載っていたかといえば知識人向けの政治報道であって、庶民を煽情するようなセンセーショナルな記事ではなかったのです。例えば[1]あたりが参考になるかと思います。--Rasalghul会話2019年6月18日 (火) 18:30 (UTC)[返信]
  • 提示されている文献は、ネット越しには見えないので、少し時間をかけて確認することにしますが、「当時の新聞において一面には何が載っていたかといえば知識人向けの政治報道であって、庶民を煽情するようなセンセーショナルな記事ではなかった」旨の記述は何ページにあるのでしょうか? また、併せて「三面記事」は「センセーショナルな」記事であったとうる記述が見える場所もお知らせください。--山田晴通会話2019年6月19日 (水) 01:46 (UTC)[返信]

(インデント戻します)

ご教示いただいた文献(本田、2004)を入手しました。関連する記述のページの情報をいただけなかったので、一通り通読したのですが、どうも「三面記事」は、それ自体で「センセーショナルな」記事という含意がある、という趣旨にとれる記述はなかったように思われます。

この論文の趣旨は、タイトルにもあるように明治期の新聞における「雑報」の位置づけと特徴の整理であり、雑報が「スキャンダル」を取り上げたり「潤色を加えた記事」出会ったことは述べられていますが、直接「センセーショナル」といった表現はありません。また、すでにお尋ねしている「当時の新聞において一面には何が載っていたかといえば知識人向けの政治報道であって、庶民を煽情するようなセンセーショナルな記事ではなかった」旨の記述は見当たりません。具体的な典拠となる記述の所在が明らかにされないようであれば、センセーショナルとする記事中の記述を除去します。

なお、新たに要出典範囲を追加しました。こちらについても適切な典拠の提示がなければ、編集除去すべきと考えます。--山田晴通会話2019年7月25日 (木) 09:45 (UTC)[返信]

コメント チェックしていなかったのでお返事遅れて申し訳ありませんが、辞書を引いてください。

  • デジタル大辞泉「大衆の興味や関心をあおりたてるさま」[2]
  • 大辞林「人々の関心を強くひくようなさま。扇情的。 「事件を-に扱う」」[3]

おそらく他の辞書類でもそう変わらない説明なんじゃないでしょうか。

  • 本田(2004)p.1「読者大衆の興味は一面の政令の公布や諸県のニュース以上に東京府下を中心とする犯罪、情痴事件の雑報、所謂三面記事に集中した」「この種のニュース、その事件の報道の面白さ、可笑しさに魅せられた読者大衆が続き物を熱心に要望した」
  • 同p.4「「公布」「公開」などの欄が純粋の報道、ニュースの提供であるのに較べ「府下雑報」の欄は読み物である……事件のニュースに記者の潤色が加えられ興味ある記事が展開する」
  • 同p.8「「雑報欄」がこの新聞の中心で今日の新聞の社会面に掲載されているような犯罪、事件の世相描写の記事が三頁を中心に収められている。いわゆる三面記事である」

(以上、全て本田康雄「報知から雑報へ―明治初期の新聞記事」学校法人佐藤栄学園埼玉短期大学研究紀要13号、2004)などを普通に読めば、一面のニュースは読者の興味をひく記事ではなく、三面記事こそが読者の興味をひく記事であった、となるでしょう。「センセーショナルな記事」というのは「興味をひく記事」の逐語的な言い換えにすぎません。なお「当時の新聞において一面には何が載っていたかといえば知識人向けの政治報道であって、庶民を煽情するようなセンセーショナルな記事ではなかった」というのは私の言葉であって別に引用ではないので、誤解を招いたとすれば申し訳ないですが、上に挙げた引用部分が同趣旨であることはご理解いただけると思います。--Rasalghul会話2019年8月2日 (金) 07:15 (UTC)[返信]

  • まず「解決済み」を解除しました。本田の議論が、「雑報」を「所謂三面記事」とした上で、「読み物」であり「潤色され」ていたことを論じていることに異論はありません。その上で、<「センセーショナルな記事」というのは「興味をひく記事」の逐語的な言い換えにすぎません。>というご主張には同意しかねます。しかし、具体的な編集に関わらない部分で言葉のニュアンスを論じあってもあまり建設的とは思えません。当方としては、疑問を覚えた記述は除去した状態になっていますので、もし、なんらかの記述を復帰、ないし、加筆された上で議論が必要になるようでしたら改めて議論したいと考えます。--山田晴通会話2019年8月2日 (金) 12:14 (UTC)[返信]
    • だいぶ前に読んだきりだったので、改めて山田さんの提起の最初から読み返しましたが、もしかして「センセーショナルな記事は一面に掲載される」というのは、三面記事という言葉が成立した時点の話ではなくて、現在のことをおっしゃっているのでしょうか? 現在のことであれば、もちろん「三面記事」というのは社会面の記事の代名詞に過ぎませんので、一面に掲載されていようと二面に掲載されていようと社会報道であれば三面記事です。そうでなくてあくまで新聞と言う報道形態の黎明期のことを問題にしているのであれば、事件報道を「潤色」された「読み物」形式で取り上げ読者の興味関心をひくことを重視した、という三面記事の様相をセンセーショナリズムと言わずして何というのかわかりません。本田の論考を踏まえれば「所謂三面記事と称された雑報報道はセンセーショナリズムの様相を呈していた」というのは辞書的に全く正しい要約ですので、山田さんに異論がなければ、本田を出典としてセンセーショナリズムとの記述を復帰します。山田さんの認識では、センセーショナリズムに当たらない、ということなのでしょうか?--Rasalghul会話2019年8月2日 (金) 12:58 (UTC)[返信]
      • 山田は明確に「<「センセーショナルな記事」というのは「興味をひく記事」の逐語的な言い換えにすぎません。>というご主張には同意しかねます」と申し上げております。したがって、「山田さんに異論がなければ、本田を出典としてセンセーショナリズムとの記述を復帰します」というご意向については、「異論が」ありますと改めて申し上げておきます。
      • 本田(2004)を典拠として、加筆するのであれば、本田が、「三面記事」そのものではなく、それと同等視できると彼が考えている「雑報」について議論していることを断った上で、行論中にある「潤色」、「読み物」などの記述をすることには反対しません。しかし、「センセーショナル/センセーショナリズム」といった表現を、直接そのように言及している典拠なく導入することには反対です。
      • 山田の理解では、そもそも辞書は、限られた字数の中で置き換え可能性のある他の表現を例示するものであり、辞書に「あ」の語釈として「A」があるから「あ=A」と常に置き換えられると考えるのは危うい判断であると思っています。「所謂三面記事と称された雑報報道はセンセーショナリズムの様相を呈していた」と述べるには、特定の新聞ではなく、多くの新聞で「雑報報道はセンセーショナリズムの様相を呈していた」と証明しなければなりませんし、他の面では「センセーショナリズムの様相を呈して」いなかったにもかかわらず、三面記事が「センセーショナリズムの様相を呈していた」と証明しなければならないはずです。
      • また、記述の中で、現代における「三面記事」の含意を問題としていうのか、歴史的な含意を問題としているのかという点についても明確にしていく必要があるでしょう。この記事をみる読者にとっては、記述されている内容が歴史的なことなのか、現代における用法についても当てはまるのかが明確になっていなければ誤解を与える可能性は大きいと思います。
      • 最後に、以前にお尋ねしていることの繰り返しになりますが、そもそもRasalghulさんのご意見の出発点にある「当時の新聞において一面には何が載っていたかといえば知識人向けの政治報道であって、庶民を煽情するようなセンセーショナルな記事ではなかった」という認識は、何が根拠なのでしょうか? 当時というのが明治末から大正期を指すのであれば、新聞によって一面の扱いには大きなばらつきがあったはずです。特に、この時点で輪転機を導入できていた有力紙と、片面印刷を前提とする、所謂「万葉機」などを使っていた新聞では事情が大きく異なると思うのですが、いかがでしょう。--山田晴通会話2019年8月3日 (土) 00:57 (UTC)[返信]

コメント 玉木明『ゴシップと醜聞』(ISBN 4-89691-525-9)には三面記事とセンセーショナリズムについての言及があります。編集についてですが、導入部は現在の三面記事も含めて考える必要があるため「センセーショナルな記事を指すことが多い」は別の文章に換えたほうが良いと思います。文化・スポーツ・地方欄なども三面記事に含まれるような現行版の「政治・経済以外の記事という意味合いもある」というのも何か違う気がしますが。日本語の由来節の「センセーショナルな」は、三面記事が出現した当時の錦絵新聞の実態として一面間違いではないと思いますので、他の要素も付け加えて残しても良いと考えます。--茂林寺たぬき会話2019年8月3日 (土) 08:52 (UTC)[返信]