ノート:上州板垣氏

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改名について[編集]

  • 現在、「板垣所左衛門」として作成されている当記事ですが、所左衛門個人の業績について、出展となる資料が限られており、特筆性を満たさない可能性が高くなりました。むしろ、子孫である板垣源四郎氏や栄作氏に焦点を置く事で、特筆性が満たされるものと判断し、所左衛門を家祖とする一族の記事、「上州板垣氏」へと、記事内容を移行したいと考えます。ついては、改名の是非について、また板垣氏関連の情報をお持ちの方の御協力を頂きたく、お願い申し上げます。--影綱 2009年4月9日 (木) 01:09 (UTC)[返信]

世代数に関する疑問[編集]

  • 1525~1530年頃生まれの初代板垣所左衛門から、20代目の板垣栄作(1911-1990)までせいぜい15、16代ぐらいが妥当で、20世代もあったというのは、よほど養子が多かったとかが無い限り、生物学的には無理じゃないでしょうか。「どこそこにこう書いてある」とかのレベルじゃなくて、根拠があれば示された方が良いかと思います。--容保桜 2010年6月23日 (水) 05:53 (UTC)[返信]
  • 「完全な資料」が存在しない(たとえば江戸以前の家系図は明治期に焼失したと聞いています)ので、何とも言えませんが、分家筋の方から聞いた限りでは、初代から二十代まで、全てが親子相続ではなく、先代が存命な内に(何らかの理由で家督が全うできず)、弟に相続させ、長兄の子供が十分な年齢に達したら家督を戻す、などの例が多かったそうです。ですから記事内の彦七から政右衛門のように、たった27年間に四代も代わることがある訳です。ただし、明治期以降は家系図が存在しますので(僕は見たことがありませんが、間接資料として)、栄作氏の三代前以降は、親子間で相続していることが判っています。--影綱 2010年6月23日 (水) 06:11 (UTC)[返信]
    • 由緒ある旧家の場合、本家に所蔵されていた家系図が焼けたとしても分家に控えが残っていたりする可能性があります。実際、菩提寺過去帳などで、ある程度続柄も判明する場合が多いです。墓石からでも、所左衛門の没年や戒名を辿れそうですよ。「源八(分流・板垣重兵衛の孫)」と、ある程度断片的な情報をお持ちのようですので、それらを総合すれば復元は可能かと思います。また伊勢崎藩士であったとあるので、藩関係の資料も閲覧されてはどうでしょうか。言い伝えの情報だけでは甚だ心もとなく思えます。--容保桜 2010年6月23日 (水) 08:24 (UTC)[返信]
      • 分家筋に家系図の控えがあると言う話は聞いたことがありませんが、もし存在するのであれば、お盆が近いので、会う機会があれば聞いてみたいと思います。
また過去帳ですが、地域やお寺によって違うかもしれませんが、最近では比較的オープンなところで同族子孫、厳しいところだと直系子孫にしか開示しない傾向にあることはご存知でしょうか。僕はどちらにも属さない(分家筋から嫁入りした家の人間です)ので、これも分家筋の方に会う機会があるときに代理で頼む他ないと考えています。手をつけるとすれば、まずは所左衛門の墓石探しあたりでしょうか。
なお、伊勢崎藩関係、また伊勢崎郷土史関係の書籍史料は一通り目を通したと考えております。その上で、記事に盛り込めるのが現状であれだけだったと言うことです。伝聞が心許ない、あるいはWikipedia:信頼できる情報源に抵触する、というのは承知しているのですが、「20代目」の部分を除去することも含め、今一度史料なり、情報を洗い直したいと思います。--影綱 2010年6月23日 (水) 22:56 (UTC)[返信]
なお、信廣の没年と戒名ですが、「板垣家初代」とある墓石を見る限りでは寛文六年正月二十七日卒、常清寺殿揚賢放光居士ではないかと思われます。(斜線部、墓石の劣化によりはっきりとは読み取れず)ただ、僕たちが知る限りの「戒名」には、名前の内一字が入るのが常ですが、この中には一字も入っていないので、或いは信廣の子のものかも知れません。ご参考までに。--影綱 2010年6月30日 (水) 01:29 (UTC)[返信]

参考文献について[編集]

ウィキぺディアは、自己公表された情報源を用いてはいけません。自己公表された情報源とは、いかなる形式の独立した事実の確認を受けてはいないか、著者と公表作業との間に誰も立ち会っていないような公表物を指します。この中には、個人のウェブサイトや自費出版業者からの出版された本が含まれます。誰でも、ウェブサイトを作ったり本が出版されるように金を支払い、そしてある分野の専門家であると主張できます。

  • 『板垣信方(形)の家族とその子孫』は、自費出版された非売品の刊行物であり、著者の三田村孝氏は、工学を専門分野にする人物であり、歴史学については専門外の人物である。
  • 上記の書籍は著者の三田村孝氏が自己に関係する先祖について、独自研究した内容を自費出版にしたものである。
  • 自費出版された内容は、史学会で史料批判等のプロセスを経ず作成されたもので、極めて恣意的な内容を含んでいる。

こうした理由から、自己公表された本や個人のウェブサイト、ブログの大部分は情報源として受け入れられません。信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない一次資料は、使ってはいけません。--紋 次 郎 2010年7月1日 (木) 11:55 (UTC)[返信]

  • 一方的に荒らし行為と思われ削除されてしまっているため、差し戻します。上記『板垣信方(形)の家族とその子孫』は、板垣氏の歴史について、一般的に認められている歴史的史実とは大いに異なる見解のもとで著述されているもので、参考文献としての取り扱う場合それが、史実として誤認されてしまう虞のあるものです。具体的にどの部分か、お尋ねであればお答えする所存ですので、話し合いをさせて頂ければと思いました。荒らし行為ではございません。--紋 次 郎 2010年7月1日 (木) 23:48 (UTC)[返信]
ではお尋ねしますが、第一点「一般的に認められている歴史的史実」とはどういうものでしょうか。第二点、僕も同資料に書いてあること全てが史実通りとは思いませんが、すべて出鱈目だとも思っていません。貴方が同資料を「出鱈目」とする根拠を示してください。第三点、同資料を「二次史料」として参考文献に載せることが違反だとされている箇所があれば、示してください。--影綱 2010年7月2日 (金) 00:16 (UTC)[返信]
追記。第四点として、貴方はアカウント作成早々、当記事を攻撃にかかっていますが、貴方が別アカウントをお持ちであるか、そうであるなら何故この為だけにわざわざアカウントを作られたのか、お伺いします。--影綱 2010年7月2日 (金) 00:21 (UTC)[返信]
  • 板垣兼信の次代貞信から信方の先代信種の系譜が一切他文書に登場せず、逆に妙法寺記や一蓮寺過去帖に出てくる人物と一切附合しない点。兼信の子頼時、頼重以外に「貞信、義之が居た」と勝手に断定し、その根拠が三郎・四郎・五郎・六郎という輩行だけを根拠として、「貞信が嫡男」で「隠岐配流の時に秘匿して逃した」との推測を歴史的事実のように記載し、板垣征四郎家の系図とも勝手につなげている点。伊豆板垣氏落人姫伝説を本流のように扱い、板垣隼人の子孫を恣意的に傍流のように扱っている点。伊豆板垣氏落人姫伝説の根拠を「古文書だから間違いない」と断定し、伊勢崎板垣氏との関係を「伝世されている仏像を見て直感した」されてますが、全く根拠として成り立たないものです。アカウントを作成したのは、アカウントを作成しないとIPアドレスが表示されるため同一の端末から書き込みしないと、同人からの書き込みかどうかが不明になってしまうためです。伊勢崎板垣氏を記載される上で、同書の記事の引用をされること無きようお願いします。--紋 次 郎 2010年7月2日 (金) 03:11 (UTC)[返信]
一蓮寺過去帳はあくまで「過去帳」ですので、史料価値としては他の系図と同等です。板垣隼人は、その存在すらあやふやですから、直系(左京亮の系)に置くのは明らかにおかしいでしょう。また上州板垣氏の由来は「仏像」ではありません。
元々IP編集されていた方だというのはわかりましたので、第二点、第四点についてはお答えいただいたものと了解しますが、一つだけ言うならば、「”学会”を称する集団が常に正しいとは限らない」と言うところでしょうか。--影綱 2010年7月2日 (金) 03:39 (UTC)[返信]
なお、別の史料(御侍中先祖書系圖牒)によれば、確かに頼時以降、信方の父親までの間、名前が全く一致していないことを確認しています。但し、こちらは板垣退助が嫡流となっているので、信頼性には著しく欠けます。この論を推す「識者」も多いようですが、むしろこちらの方が「歴史事実」からはかけ離れているのではないでしょうか?--影綱 2010年7月2日 (金) 04:17 (UTC)[返信]
「一蓮寺過去帳はあくまで「過去帳」で史料価値としては他の系図と同等」と言われますが、後世のある時期に子孫によって作成された過去帖ならそうかもしれません。しかし一蓮寺過去帖は室町時代初期から、江戸時代初期まで、約300年間にわたって書き継ぎされている実時代の史料で、「一蓮寺過去帖(影印対照本)」として発売もされているもので、後世に作成した過去帖とは違います。それに引き替え伊豆板垣氏落人姫伝説の根拠となっている系図は江戸時代後期まで、同人の筆跡でずらずら書かれているもので、実時代に書かれたものではありません。また、著者の三田村孝氏は古文書の読解能力が稚拙であって、影印となっている文字と比較してかなり誤読してます。例は「興」の古字を「奥」と誤解して「信奥」と書いたりです。板垣隼人の実在については、今後調査します。私は影綱氏を攻撃したいのではなくて、参考文献として取り上げられることで、さもそれが権威ある文献と同様に誤解されることを恐れている訳です。--紋 次 郎 2010年7月2日 (金) 04:30 (UTC)[返信]
(ひとまず戻す)一蓮寺過去帳と後世に書かれた過去帳(というよりは家系図)とを一緒にするつもりはありません。あくまで寺などで古来より代々保存されている過去帳(享年、戒名、俗名等々)と言う意味で、他の寺にあるものと同等だと思っています。しかしながら、一般に販売されていたと言うのであれば、多少意味合いは違うのでしょう。
また、改めて申し上げますが、「板垣信方の~」の位置づけについて、僕は特に権威のある文書とは位置づけておりません。あくまで郷土史料の一環であり、虚実混在している二次史料と思っています。「興」と「奥」の誤読は、まぁありそうかなと思いますが。(信憲の旧名「○信重」も、「×信里」となっていますし。)確かに、誤解を受ける可能性もありますので、仮対処をしておきます。もし他に良い案があれば、ご協力ください。--影綱 2010年7月2日 (金) 05:46 (UTC)[返信]
仮対処ありがとうございます。参考文献の正否によって上州板垣氏の記事の価値を下げられることのないよう願っております。--紋 次 郎 2010年7月2日 (金) 06:07 (UTC)[返信]

続柄か生年の間違い?[編集]

あれれ?1883年生まれの板垣源四郎(元伊勢崎市長)が 、1902年生まれの(二代目)板垣清平の弟になってますが…。--かねやんず 2010年7月30日 (金) 02:39 (UTC)[返信]
確かにそうなってますね…源四郎氏が清一郎(二代清平)氏の弟なのは間違いありませんので、生年が違っているのだと思います。--影綱 2010年7月30日 (金) 02:46 (UTC)[返信]
板垣清平(二代目)の生年月日は「1902年3月5日」です。出典は『人物レファンス事典』郷土人物編、日外アソシエーツ(2008.8.25刊)です。ここには、板垣源四郎(元伊勢崎市長)も掲載されてますが、特に「兄弟」との記載はありません。「兄弟では無い」か「兄弟という情報が正しければ、源四郎が兄」だと思います。影綱さんの「弟なのは間違いありません」という典拠は何でしょうか?--容保桜 2010年7月30日 (金) 05:41 (UTC)[返信]
無関係ですが、「源次郎」氏について情報があった気がしたので県立図書館で調べていました。さて本題の、源四郎氏が「清一郎氏の弟である」という点ですが、これは「独自研究」の域を出ないことをまずお詫びします。さらにその根拠としては、
  • 複数の「上州板垣氏」所縁の方の証言(源四郎氏が長男でないこと)
  • 「系図」に「(市長になった)源四郎氏が清平氏の息子である」旨書いてあること
の二点から調査し、また「(清)一郎」が「(源)四郎」の「弟」というのは不自然ではないかということから推測しました。
なお、容保桜さんご提示の『人物レファンス事典』ですが、2008年版を見つけることができなかった(1983年版はあったのですが、載っていませんでした)ので、追って探したいと思います。一先ず、「弟である旨」はコメントアウトしておきます。お手数をおかけいたしました。--影綱 2010年7月30日 (金) 07:44 (UTC)[返信]
補足です。初代板垣清平(1934年9月撮影)の写真と、2代板垣清平(1940年11月撮影)の写真と、伊勢崎市長板垣源四郎(1942年12月撮影)の写真を見比べると、2代清平は30歳代後半ぐらいで髪が黒々とした若い感じ、伊勢崎の源四郎は50歳代後半ぐらいで角刈り白髪まじりの髪型で落ち着いた感じの人物、初代清平は着物姿の威厳あるお爺さんといった感じで、源四郎と2代清平の年齢差は明らかで「初代清平>>源四郎>>2代清平」の年齢順は間違い無いかと思います。2代清平氏は大政翼賛会にご盡力された群馬県の功労者なので、その線であたれば紹介されている書籍があるかと思います。--容保桜 2010年7月31日 (土) 01:18 (UTC)[返信]
土日を使って、板垣縁の方に話を伺い、また、『人物レファレンス事典』2008年版も見つかったので、調査した結果、「二代・清平」氏と「源四郎」氏は「兄弟ではない」事がはっきりしましたので、訂正しお詫び申し上げます。わかった事として、「源四郎氏は栃木・足利生まれ」「二代・清平氏は伊勢崎町にて家具製造業(「伊勢崎木工」、後の「いせもく」)をしていた」(いずれも『群馬県人名大事典』より)との事ですので、必然的に兄弟ではありえない事になります。
なお、「大政翼賛会」関係の資料については、時間的な都合から探し出せませんでしたので、改めて調査したいと考えます。--影綱 2010年8月1日 (日) 23:22 (UTC)[返信]