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ノート:世界暦

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世界暦の欠点について

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  • 日付と曜日が固定されるため、特定の記念日(誕生日・結婚記念日・創立記念日等々)が一生その曜日に固定されてしまう。
  • その結果として、「子供の誕生日を土日にしてあげたい」などの不純な動機から出生届けをごまかしたり、いろんなカップルの結婚記念日が同じ日になる、等々の集中現象(繁忙と閑散の二極分化)が起こるおそれがある。
  • 誕生日で締切りやサービス期間を管理している運転免許場や航空機の誕生日割りサービスなども、そのような集中現象の影響を受ける。職場で誕生日休暇や結婚休暇のあるところで、職員の休暇が重複するケースが激増するおそれも。

表現が下手で申し訳ないですが、このような「固定化による集中現象」や「俺の誕生日は死ぬまで平日」という閉塞感も、十分「欠点」の理由になると思うのですが。当方の誕生日は月曜日ですが、毎年月曜日になるなんて納得いきません。曜日が巡り巡ることの妙というものは大事だと思います。毎年の曜日の変化こそが流動的な社会の原動力の一つじゃないでしょうか。

あと、もっとも根本的な疑問として、なぜ北半球にとって寒いあの時期が1月1日でなければならないのかも、まったく理解できません。天文学的にはいつが1月1日であってもいいはずです。ついでに言えばなぜ夜中を午前0時(日の区切り)にするのかも、同様に理解できません。今の朝の6時を午前0時にしたっていいではないですか。改暦というなら、月の日数や曜日だけでなく、年の初日の位置、日の区切りの時間などへも思いを致すべきだと思います。そのようなことを考慮せず、今の1月1日の位置を当然のもののように固定したまま、さらには曜日まで固定させようとする姿勢には、ものすごい圧迫感・閉塞感を覚えます。

以上のことから、本文の「利点と欠点」の節にある「以上の欠点を考慮しても世界暦は優れた暦法改革案であり」という書きぶりには偏向を感じます。一体こんな中途半端な暦法のどこが「優れた」と言えるのでしょうか。--無言雀師 2006年4月4日 (火) 23:37 (UTC)[返信]


まず、世界暦は「曜日の固定化」を目的として考案された暦法です。ですから、「曜日が固定されるのは絶対にいやだ」という人にとっては当然「欠点」となります。しかしそれは、すべての暦法においていえることです。ある暦法の特徴が○○だとして、「○○は絶対にいやだ」という人はどんな場合にも当然ありえますから、その人にとってその暦法の「欠点」となります。

「固定化による集中現象」という意見ですが、それならば現在でも固定された休日である祝日に(戸籍上の)誕生日や婚姻日が集中し、その前後数日間は祝日に集中した分だけ減っているはずです。これは十分ありうる話ですが、残念ながらデータとしては見つかっていません。また曜日は誕生日や結婚記念日のためにあるのではないし、誕生日や結婚記念日が必ず休日でなければならないとする積極的な理由もありません。「子供の誕生日を土日にしてあげたい」と思う人もいるかもしれませんが、それが集中現象を生むほどの主流になるとは到底考えられません。月曜日でも誕生パーティーをすることは出来ますし、必ず結婚記念日に旅行をしなければならないと考える人は少ないでしょう。

「毎年の曜日の変化こそが流動的な社会の原動力の一つ」という意見ですが、これを裏返せば「曜日の変化しない暦法を用いると社会の流動化が阻害される」ということになります。現時点ではこれの証明も反証も不可能です。なぜなら、長期間にわたって「曜日を固定した暦法」の実施例がほとんどなく、データが不足しているからです。人間は改暦しても以前の暦法の習慣を引きずりがちになりますから(改暦がなかなか成功しない理由もこれです)、以前の暦法の影響がほとんどなくなるまで(少なくとも100年以上は必要だと私は思います)断固としてその暦法を使い続け、それからその暦法を使わない社会と使っている社会を比較しなければフェアな比較とはいえません。要するに現時点ではデータがゼロに等しい状態ですので、その意見が正しいとも正しくないともいえません。

「改暦というなら、月の日数や曜日だけでなく、年の初日の位置、日の区切りの時間などへも思いを致すべきだと思います。」という意見ですが、これは天文学的視点だけではなく、社会的視点からも考えなければなりません。そしてそれは多くの場合一致しません。さらに重要なことは、世界暦は現在の1月1日を年初とすることになっていますが、理論的には月の日数と曜日の位置が変わらなければ、どの日を年初にしても、あるいはどの時刻を1日の始まりにしても世界暦の利点は全く失われないのです。世界暦の年初が現在の1月1日となっているのは、現在のグレゴリオ暦からの移行をスムーズにするためであるという理由しかありません。

「そのようなことを考慮せず、(中略)ものすごい圧迫感・閉塞感を覚えます。」という意見については、「たとえば(天文学的に意味のある)春分の日を年初にしたならば、その圧迫感・閉塞感から開放されるのか」と答えます。そもそも現在の1月1日が年初であることに天文学的不合理を感じる人はいても、圧迫感や閉塞感を感じている人がどれほどいるのでしょうか。

最後に「『以上の欠点を考慮しても世界暦は優れた暦法改革案であり』が偏向的である」という意見ですが、これは「『これまでに出た数々の暦法改革案と比較して』世界暦が優れている」という意味だとお考えください。これは「世界暦よりももっと優れた『理想的な暦法』」の存在を否定したものではありません。世界暦を「中途半端な暦法」だと思う人がいるのは十分ありえることです。しかし、その人たちが納得し、なおかつ世界的な支持を得られるような「世界暦を覆すほどの理想的な暦法」はいまだに考案されていないのです。春野秋葉 2006年6月2日 (金) 09:21 (UTC)[返信]