ノート:世界観/ログ
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英語ではworld viewという訳語であってもそれほど違和感はないため、頻繁に使用されているそうだ。が、ドイツ語のWeltanschauungという語と等価の概念が英語圏には存在しなかったということで、そのままweltanschauungが借用されたことがあるらしい。 うほっ!興味深い! 日本語での「世界・観」という合成語も確かに違和感はない。私たちはどんな世界観でこの「世界観」という概念を使用しているのか?
IP:60.40.161.232さんのおかげで一気に文章量が増えましたが、ぱっと見にはかなりエッセイ風です。POVになってはいないのでしょうか? 哲学史あたりに詳しい方の判定が欲しいところです。 -- NiKe 2006年2月22日 (水) 06:03 (UTC)[返信]
- 世界観という概念は、かなり多義的で執筆する人によって内容の見出しかなんかも大分異なると思います。(独語版や英語版見ましたけど互いに両国の特徴が出てます。)哲学分野以外の世界観についても、いずれはほしいですね。ざーっと見なんですが、とりあえずはいいんじゃないでしょうか。--ケンチン 2006年2月22日 (水) 10:45 (UTC)[返信]
- ただ、○○イズムの部分の説明は、他の項目と重複しやすいしうまいこと整理できるいいですが。あと世界観なら、ディルタイと歴史主義と生の哲学あたりについても触れられるといいですね。--ケンチン 2006年2月22日 (水) 10:56 (UTC)[返信]
うーむ、戻されている。一般的な意味合いでは、様々な創作作品なんかで表現されているその作品の世界描写みたいな事さすんだし、ここ部分最初書いた人はそういうこと言いたかったじゃないかな。「…世界観とは、上に述べた哲学的根本衝動を持つ者が現実を把握しようと努めるときに得るものであり~」って勝手にそんなにハードル高くしないでもらいたいな。。--ケンチン 2006年2月23日 (木) 11:37 (UTC)[返信]
- 世界観はオタクが誤用している言葉の代表みたいなものとして広く知られているような。「すべからく」とかと同じ感じで。--Saintjust 2006年2月23日 (木) 11:40 (UTC)[返信]
- なるほどそうなんですか。その世界は全く無知なので…なら「誤用」なんでかね。--ケンチン 2006年2月23日 (木) 11:46 (UTC)[返信]
- 「観」とあるからには「世界の見方(観方)」を意味するはずなのに、『その架空世界についての様々な設定』を指して「世界観」と呼んでいる気分ケースが多々あります。こういうのは「誤用」と言わざるを得ないでしょう。ただ、ある種の法則みたいなもの(「ヒーローは最後に何らかの形で勝利する」「勇気は必ず報われる」あるいは「何かもが全て虚しく消える」「人類は取るに足らない存在でしかない」など)が架空世界について存在している時など、そのような法則類は(哲学的なものとは違うが)「世界観」と呼ぶのがふさわしいと思われることもあります。ですから、現在の記述にはちょっと不満を感じますね。 -- NiKe 2006年2月25日 (土) 04:11 (UTC)[返信]
- 私も哲学的世界観のみの記述に終始して、日常会話における慣用的な世界観の語法(それが仮に偽りのものであるにせよ)を「トリビア」とか「誤用」とかいう形で本論から締め出すことには反対です。哲学的内容について整理を加えてから、日常言語レベルにおける用法についても詳しく補完しようと思っています。Wikiぺディアの中立性はこのような「本質」と「実際」という段階においても中立的な立場をもつことだと私は考えます。多くの人がこの問題に関心を持ち、積極的に加筆やアドバイスをしあって「世界観」の記事内容に深みを持たせることができればと思います。--Kanbun 2006年2月25日 (土) 04:23 (UTC)[返信]
- 百科事典に日常会話のしかも誤った用例など記す必要はありません。字引的内容はウィキペディアの基本方針に反します。国語辞典はウィクショナリーでやってください。--222.3.78.19 2006年2月26日 (日) 20:10 (UTC)[返信]
- 後半部分に日常言語的な世界観を定義しました。これは字引的に用語・用法を示そうというのではありません。たとえば「ガンダム的世界観」とか「ロードス島戦記的世界観」は単独で定義可能であり、固有の意味内容を持っています。その基礎に文脈的な意味での世界観が基層として存在していることは否定できません。その限りにおいて哲学的世界観とは別個に、日常的世界観は定義可能であり、それは単なる用例にとどまるものではないと私は主張します。おそらくこれから日常言語的世界観についても加筆が進むかもしれませんし、それぞれの立場を尊重して分離してもかまわないかもしれません。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 20:48 (UTC)[返信]
- まるまる独自調査の作文にしか見えないので、何らかの信頼のおける論文なり書籍を引用して貴方の書いた日常会話における世界観解説の正しさを裏付けてください。--222.3.78.19 2006年2月26日 (日) 20:53 (UTC)[返信]
- 大塚英志著『キャラクター小説の作り方』のなかで以下のようなことが主張されています。同書から作品世界における世界観について重要な指摘をしている箇所を引用します。
- 「「世界観」が「世界」の「観」方である、というのはアニメやまんがやキャラクター小説においても変わりがありません。ただ「世界」がニューギニアの××族の「世界」ではなく、物語の中の「世界」である、という違いだけです。(中略)この「世界観」に創作の比重を強く置くことが「文学」に対する「キャラクター小説」のもう一つの特徴とも言えます。」(『キャラクター小説の作り方』221ページ)
- 大塚は映像作品のノベライズとかキャラクターや舞台設定を他の小説に依拠している文学作品を「キャラクター小説」と定義し、そのオリジナリティは既存の文学とは異なる領域で評価されるべきだとします。キャラクター小説が「世界設定」を既存のキャラクターに依拠しているから「オリジナル」なものではないという主張に反対して、個々のキャラクター小説単独の「世界設定」とは別に、その基層としての「世界観」を想定し、それが作品の創作において重要な価値を持っていると主張しています。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 21:23 (UTC)[返信]
- つまり「世界観」がたとえ同じようなものであっても、作品のオリジナリティはそれとは別個に評価されるべきである。というのが大塚の主旨であると思われます。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 21:26 (UTC)[返信]
- この「世界観」が日常の言葉の意味での「世界」の「観」方であるという意味で、日常言語的な定義としました。もちろんweltanschauungの訳語である哲学的世界観とは異なり、現実世界に直接的に立脚していないことは明らかです。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 21:31 (UTC)[返信]
- ちなみに歌舞伎の江戸時代用語である「世界」もこれと同じ意味であり、ホラー小説やファンタジー小説においては古典的な考え方であると大塚は主張しています(ここらへんは『指輪物語』や『ナルニア国物語』、『フランケンシュタイン』や『ドラキュラ』をふまえていると思われます)。私はこのような文学史的なことはよくわかりませんが、もし古典的な文学用語あるいは文学概念としての「世界観」が認められるならば、哲学的世界観ほどではないにしろ、伝統をふまえており独自に価値を認めることにやぶさかではないでしょう。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 21:42 (UTC)[返信]
- また私自身は詳しくないので、大塚を信用することしかできないのですが、大塚は業界用語としても「世界観」は定着されていると説きます。大塚自身は漫画家の麻宮騎亜がとある出版記念パーティで「もっと世界観のしっかりした作品を描きたい」と述べたことを象徴的に記していますが、そのころから「設定」という言い回しが「世界観」という言い回しに変わっていったと述べています。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 21:51 (UTC)[返信]
- なお誤解であれば問題ないことですが、「独自調査の作文」というような表現を222.3.78.19さんは否定的に用いてるように感じられます。Wikiはつまるところ「独自調査の作文」の集積みたいなところです、個人が独自に「中立的観点」と思うことを信じて記事を書くという意味で。「独自調査の作文」という表現が「空理・空論や単なる憶測を用いた作文」を意味して言っているのであれば、私自身は自身に可能的な最大限の知識を用いてWikiに参加しているという認識をもっていますから、そのような言い回しには当然憤りを感じます。222.3.78.19さんが何か積極的な根拠をもって日常言語に立脚した「世界観」概念を否定できるのであれば、それは大いに結構ですし傾聴に値しましょう。しかし用語の本来的な成立事情が哲学的であるから、Wikiペディアも哲学的な「世界観」概念以外は無視してもよいというような主張であるならば、この場合なんら積極性をもたないことは明白です。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 22:24 (UTC)[返信]
- またWikiペディアの百科事典的性格を考えれば、信頼のおける論文なり書籍を引用するのは当然でありますが、すべての知識がそのようなところから得られるというようなことは保証されていません。論文や書籍に明確的に示されていないとしても、概念や物事それ自体は確固とした意味を持っているということもあり得るでしょう。そのため私自身は物事に対する理解におけるあらゆる蓋然性に対する配慮という意味においてもWikiペディアが引用万能主義に陥ることを警戒します。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 22:33 (UTC)[返信]
- まるまる独自調査の作文にしか見えないので、何らかの信頼のおける論文なり書籍を引用して貴方の書いた日常会話における世界観解説の正しさを裏付けてください。--222.3.78.19 2006年2月26日 (日) 20:53 (UTC)[返信]
- 後半部分に日常言語的な世界観を定義しました。これは字引的に用語・用法を示そうというのではありません。たとえば「ガンダム的世界観」とか「ロードス島戦記的世界観」は単独で定義可能であり、固有の意味内容を持っています。その基礎に文脈的な意味での世界観が基層として存在していることは否定できません。その限りにおいて哲学的世界観とは別個に、日常的世界観は定義可能であり、それは単なる用例にとどまるものではないと私は主張します。おそらくこれから日常言語的世界観についても加筆が進むかもしれませんし、それぞれの立場を尊重して分離してもかまわないかもしれません。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 20:48 (UTC)[返信]
- 百科事典に日常会話のしかも誤った用例など記す必要はありません。字引的内容はウィキペディアの基本方針に反します。国語辞典はウィクショナリーでやってください。--222.3.78.19 2006年2月26日 (日) 20:10 (UTC)[返信]
- 私も哲学的世界観のみの記述に終始して、日常会話における慣用的な世界観の語法(それが仮に偽りのものであるにせよ)を「トリビア」とか「誤用」とかいう形で本論から締め出すことには反対です。哲学的内容について整理を加えてから、日常言語レベルにおける用法についても詳しく補完しようと思っています。Wikiぺディアの中立性はこのような「本質」と「実際」という段階においても中立的な立場をもつことだと私は考えます。多くの人がこの問題に関心を持ち、積極的に加筆やアドバイスをしあって「世界観」の記事内容に深みを持たせることができればと思います。--Kanbun 2006年2月25日 (土) 04:23 (UTC)[返信]
- 「観」とあるからには「世界の見方(観方)」を意味するはずなのに、『その架空世界についての様々な設定』を指して「世界観」と呼んでいる気分ケースが多々あります。こういうのは「誤用」と言わざるを得ないでしょう。ただ、ある種の法則みたいなもの(「ヒーローは最後に何らかの形で勝利する」「勇気は必ず報われる」あるいは「何かもが全て虚しく消える」「人類は取るに足らない存在でしかない」など)が架空世界について存在している時など、そのような法則類は(哲学的なものとは違うが)「世界観」と呼ぶのがふさわしいと思われることもあります。ですから、現在の記述にはちょっと不満を感じますね。 -- NiKe 2006年2月25日 (土) 04:11 (UTC)[返信]
一部のヲタクの誤用を正したところ、粘着質な利用者「Kanbun」によって呆気なく戻されました。ここを見る限り、過去にも同様の経緯があったようです。百科事典の性格を理解せず、意味不明な用語を書き並べる愚行を繰り返す人物を正したいですが、私にはこのような粘着質な利用者と編集合戦をするほど退屈していないので、間違った記述のまま放置します。--59.129.62.94 2006年12月22日 (金) 03:19 (UTC)署名付加--Kanbun 2006年12月22日 (金) 04:53 (UTC)[返信]
- そうですか。次は正しい用法を適切な出典に基づいて提示していただけると幸いです。また発言の際には説明責任を果たすためにも、署名を忘れないようにしていただけますよう、謹んでお願い申し上げます。--Kanbun 2006年12月22日 (金) 04:53 (UTC)[返信]
延々と一人の人間が粘着してるわけですね。大塚某という人物の誤用を盾にして、無数にある正しい「世界観」の用法に食って掛かるとは笑止千万です。「出典を出せ」と、悪魔の証明を要求するに至っては開いた口が塞がりません。上記の方と同様、私も馬鹿馬鹿しいので放置したいと思います。--oregenki 2007年3月7日 (水) 06:22 (UTC)[返信]
そうですか。「世界観」の正しい用法が「無数に」あるのに、大塚某という人物の主張が「誤用」であると出典もなしに言い切れるoregenkiさんの主張の方が、私には「馬鹿馬鹿しい」です。--Kanbun 2007年3月7日 (水) 06:48 (UTC)[返信]
わずか26分で粘着さんから反応をいただきました。「誤用であるという出典」とは物凄い詭弁ですね。それでは、「大塚某が誤用ではない」という出典を示してもらいましょう。広辞苑、大辞林、平凡社の百科事典を見ても、どこにも「フィクション世界の世界設定やコンセプト」などの記述は皆無です。ま、頑張って粘着して、今度は24分の記録を切るように頑張って下さい。--oregenki 2007年3月7日 (水) 08:46 (UTC)[返信]
- とりあえず「世界観」と関係のない話題でノートを汚すのはお慎みください。私の編集履歴などに文句をつけたいのでしたら、別途コメント依頼をご利用ください。いちいち24分がどうこうなんて、なんだか私の方が粘着されているような気分です。上の記述は単なる捨てぜりふにしか見えません。--Kanbun 2007年3月7日 (水) 11:11 (UTC)[返信]
- それと「『誤用であるという出典』とは物凄い詭弁ですね。それでは、『大塚某が誤用ではない』という出典を示してもらいましょう。」という主張は全く正当性を持ちません。Wikipedia:検証可能性とWikipedia:独自の調査をよく読まれますよう。端的に言えば、oregenkiさんが大塚某が誤用しているというのは、検証可能なソースで示されているわけではありませんので、独自の調査に過ぎません。一方、大塚某自身は信頼できる出版社から出された著作において、この用法について言及しているわけですから、少なくともウィキペディアに記載するには十分な条件を整えています。平たく言えば、oregenkiさんの全く個人的な見解と広く流通している書籍で確認できる大塚某の主張のどちらかが信頼できるかと言えば、私には圧倒的に大塚某です。相手の意見は何でも詭弁、自分の意見は絶対だというようなoregenkiさんのような方がいらっしゃいますが、少なくとも最低限の裏付けくらいは取ってから編集していただけないでしょうか。「広辞苑、大辞林、平凡社の百科事典を見ても、どこにも『フィクション世界の世界設定やコンセプト』などの記述は皆無です。」って、これこそ悪魔の証明でしょ(笑)。←の文もそうだけど、oregenkiさんの考え方って、「大塚某の用法が誤用でないという証明がない」ことから「誤用である」としてますよね?これは明らかにおかしい。--Kanbun 2007年3月7日 (水) 11:29 (UTC)[返信]
答えに困って沢山書きましたね。ご苦労様。早く「大塚某が誤用ではない出典」を出して下さい。広く出版され何度も版を重ねている辞書、辞典に掲載がないにも関わらず、大塚某という誰も知らない人物の出版物を元に誤用ではないと主張しても、残念ながら説得力がありません。このノートを見る限り、一人で粘着しているのは、カナブン君だけですよ。さぁ、急いで粘着レスをして記録更新してくださいね。--oregenki 2007年3月7日 (水) 13:33 (UTC)[返信]
- 「大塚某という誰も知らない人物」ってoregenkiさんが知らないだけですよ。少なくともoregenkiさんよりは有名です。oregenkiさんの論法で行くと、大塚某より誰だか分からないoregenkiさんの出典のない主張の方が「残念ながら説得力がありません」。「『大塚某が誤用ではない出典』を出して下さい」という点には、「『大塚某の用法が誤用でないという証明がない』ことから『誤用である』」とすることは明らかにおかしいという点を指摘しました。上で「上記の方と同様、私も馬鹿馬鹿しいので放置したい」とか言いつつ、粘着しているのはoregenkiさんの方では?それにカナブン君って誰?(笑)--Kanbun 2007年3月7日 (水) 13:57 (UTC)[返信]
カナブンちゃん、残念。記録更新ならずです。次は頑張ろう♪--oregenki 2007年3月7日 (水) 14:02 (UTC)[返信]
- いや、そんなこと言って、oregenkiさんの方が立派に「記録更新」してるわけですが♪とにかく本記事と関係ない、どうでもいい書き込みはご遠慮下さい。--Kanbun 2007年3月7日 (水) 14:08 (UTC)[返信]
こんにちは。記事内容が冗長で雑然としていると考えましたので、冒頭部分を改変いたしました。これ以降の部分についても改変し、また既存の記事との形式的な整合をおこなおうと思っています。--Kanbun 2006年2月24日 (金) 23:52 (UTC)[返信]
- なお養老孟司を擁護するわけではありませんが、養老孟司に対する批判的な言説は削除いたしました。「見ること」が「理解すること」であるかというようなことと同じように、「意識すること」が「理解すること」であるかというようなことも問うべきであると思われます。世界観というような問題が脳神経のホルモンの働きや電気信号にすぎないというような議論はおよそ哲学的に成り立ちうるとは考えられませんが、脳がわれわれ自身の内部的な存在であるにもかかわらず、他者的なものである以上その理解に哲学的価値は当然あります。もし脳のある種のはたらきや欠陥によって、われわれの認識に変化をおこしたり支障をきたしたりするのであれば、認識論的な立場からも脳外科的な問題を扱うことは無価値ではないということができるでしょう。--Kanbun 2006年2月25日 (土) 00:18 (UTC)[返信]
やたら多い赤字の参照についてはカットしています。ない記事を参照することはできませんし、これから書かれるそれらの記事がここで扱っている問題をふまえて書かれるというようなことも漠然と期待することが出来ません。--Kanbun 2006年2月27日 (月) 01:14 (UTC)[返信]
理気二元論についてですが、もととなった陰陽二元論は北宋時代にすでにあらわれてますし、理・気の二元論的立場を明確にして大成したのは南宋の朱熹ですが、理論的に先鞭をつけたのは北宋の程伊川です。また理という用語は北宋時代も哲学的に用いられていたようです。そのため南宋のリンクを北宋に改めました。自分で書いててなんですが、「流行」という表現が波紋を呼びそうなので改めようかとも思います。程伊川を意図的に無視したのではなく、この記事に中国哲学の詳しい解説を載せるのは不釣合いだと思ったので、メジャーな朱熹のみ具体名をあげるようにしました。誤解を招いたようなら申し訳ありません。--Kanbun 2006年2月28日 (火) 09:34 (UTC)[返信]
哲学用語の世界観と、ゲーム、アニメ用語の世界観とはまったく別物であり、誤用が定着したものです。一人のユーザーが誤用された書籍をたてに無理矢理関連づけようとして論理破綻を起こしています。--Sakura299 2007年7月3日 (火) 06:33 (UTC)[返信]
- 「一人のユーザー」というのは誰のことかわかりませんが、もし哲学用語の「世界観」と、ゲーム、アニメ用語の「世界観」があって、それが「別物」であるなら、どちらかが「誤用」だとするのは明らかに「論理破綻」ではないでしょうか(双方が全く別個に、固有の使われ方をしているのなら、どちらかが誤った使用法であるというのは論理的におかしいのでは。)。理由が誤用だからというものであれば、事実誤認もしくは論理破綻であり、分割の理由になりうるとは思いません。しかしながら、記事の発展性を考慮しての分割であるならば、以前述べましたが、考慮に値すると思います。ただ個人的な見解を言えば、哲学用語と大塚が言う業界用語が必ずしも無関係とも言えず、分割する場合はもうすこし記事の充実を待つべきで、現状では時期尚早ではないでしょうか。「誤用された書籍をたてに」というのも何のことをおっしゃっているのか、さっぱりわかりません。あるいは大塚英志の批判がしたいのでしょうか。--Kanbun 2007年7月3日 (火) 11:34 (UTC)[返信]
- ノートや編集履歴を読めば一目瞭然であるように「一人のユーザー」とはKanbunのことです。誤用が定着することは、珍しくありません。まったく違う概念を同じページに記述する必要はありません。過去の経緯を見る限り、Kanbunは悪魔の証明を求めたり、揚げ足を取るばかりで有意義な議論が出来ないようなので、他の方(呆れて議論を止めた方)の意見もお聞かせ願えればと存じます。--Sakura299 2007年7月3日 (火) 11:51 (UTC)[返信]
- えっと、「編集履歴を見れば一目瞭然であるように」該当箇所の加筆は私がしたものではありません(なので「一人のユーザー」と言われましてもね……編集履歴をよく確認してから物を申して貰いたいと思います)。私はあくまで根拠のない「誤用である」という主張によって該当箇所が何度か削除されたので、それは正しくないのではと考え、そのたび編集を加えて元に戻しただけです。今まで「誤用である」とする主張の根拠を求めましたが、一度もその根拠が得られなかったことはこのノートを見ていただければわかると思います。
- さらに「誤用が定着すること」が「珍しく」ないならば、その定着した用例について記述することは問題ないですし、誤用であることが仮に判明すれば、誤用であると明記した上で記述すればよいだけのことです。もちろん由来からして「まったく違う概念」であるならば、どちらかが誤用であるという認識自体がそもそも成り立たないのでは?(もし大塚が言うように、歌舞伎の「世界」という用語の前例があるならば、哲学用語の影響以前に日常的な世界観に近い用語が成り立っていたことになりますから)--Kanbun 2007年7月3日 (火) 13:54 (UTC)[返信]
- で、私が言いたいのは、もし世界観の誤用なるものがあって、それが記事の改悪につながっており、その原因がKanbunという「一人のユーザー」のわがままであると思うのなら、さっさと私についてコメント依頼を出すべきです。あるいは管理者伝言板に「荒らし」として通報していただければと思います。私個人を攻撃するような議論をここでするのはやめていただきたいし、記事のためにもなりません。記事の発展性を考えるならば、むしろ現在の記事のどこが問題かを話し合うべきであって、そのためにちゃんとした根拠を出して議論をしましょう。Sakura299さんが該当箇所の記述について事実に基づいていないと思うのであれば、根拠を示し理を尽くして説明していただければ、納得することもあるでしょう。分割理由に「一人のユーザー」をあげるとかいうことはやめていただきたい。なお何度も申していますが、記事の発展性のための分割であれば十分考慮に値します。--Kanbun 2007年7月3日 (火) 14:04 (UTC)[返信]
- ノートや編集履歴を読めば一目瞭然であるように「一人のユーザー」とはKanbunのことです。誤用が定着することは、珍しくありません。まったく違う概念を同じページに記述する必要はありません。過去の経緯を見る限り、Kanbunは悪魔の証明を求めたり、揚げ足を取るばかりで有意義な議論が出来ないようなので、他の方(呆れて議論を止めた方)の意見もお聞かせ願えればと存じます。--Sakura299 2007年7月3日 (火) 11:51 (UTC)[返信]
- はい、Kanbunの論点をズラすことが目的の無意味な意見はこのぐらいで十分でしょう。「世界観(ゲーム、アニメ用語)への分割提案」について、他の方の意見をあらためて窺いたいたいと思います。
- 上のように、ここで私個人を批判するのはやめてください。ここは記事内容について議論する場所であり、必要であれば私が発言することは認められる場だと思っています。さらに私の意見を「論点をズラすことが目的」だというのは、非常に不本意です。とりあえずここでこういう非礼な発言をするのだけはやめてください。分割については急ぐこともないでしょうし、議論は議論として続けるべきと思いますが、とりあえずSakura299さんの言動についてコメント依頼を出しておくことにします。--Kanbun 2007年7月3日 (火) 14:42 (UTC)[返信]
- 反対意見があると「自分が批判された」と強い被害妄想を抱き、相手を攻撃するような人間とは議論になりませんね。--Sakura299 2007年7月3日 (火) 15:19 (UTC)[返信]
- それではあたらめて、冷静かつ落ち着いた議論が出来る方だけに、「世界観(ゲーム、アニメ用語)への分割提案」についての意見を窺いたいと思います。まず私の意見を表明します。ゲームやアニメなどの雑誌、書籍、WEBなどで使用される「世界観」は本来は誤用だと認識しています。これは哲学用語の世界観を誤って使ったのではなく、たまたま使った「世界観」という言葉が哲学用語にも存在していたという程度のことだと思われます。もっとも、本来が誤用であっても、言葉というものは広く認知されて定着することがあります。ゲーム、アニメなどの独特の時空設定について「世界観」と表現することに、ゲームやアニメに詳しくない私でも何ら違和感はありません。むしろ本来の哲学用語の世界観のほうが馴染みが薄くピンと来ません。しかしながら、「誤用ではない」という間違った主張に基づき、哲学用語の世界観と無理やり関連づけようとして、ここでは珍説が並べ立てられています。現在、主要な辞書・辞典にゲーム、アニメ用語に使われる世界観の説明は存在しません。辞書に存在しないから言葉が存在しないのではなく、まだ辞書に掲載されるほど日本語として定着していないということでしょう。近い将来、認知される可能性は十分にあると思います。無理に哲学用語と関連付けるより、「別物」として分割するのが適切だと考えます。建設的かつ冷静な意見を聞かせていただければと思います。--Sakura299 2007年7月3日 (火) 15:19 (UTC)[返信]
- ちょいとお待ちを。アニメ、ゲームでの「世界観」という用語が「世界観を誤って使ったのではなく、たまたま使った『世界観』という言葉が哲学用語にも存在していた」としているのに、なぜ「誤用ではない」という主張が「間違った主張」になるのですか。そこが明らかにおかしいと思います。また、上記の理由ではWikipedia:記事の分割と統合の
- 記事の分量が肥大化したため、読者にとって全体の見通しが悪く不便な場合
- 記事中で特定の説明だけの分量が多く、明らかにバランスを失している場合
- 見出し語の解説としては不要な記述だが、百科事典の情報としては有用な場合
- いずれも満たしていないのではないでしょうか?(しいてあげれば3.?)--Kanbun 2007年7月3日 (火) 15:29 (UTC)[返信]
- ちょいとお待ちを。アニメ、ゲームでの「世界観」という用語が「世界観を誤って使ったのではなく、たまたま使った『世界観』という言葉が哲学用語にも存在していた」としているのに、なぜ「誤用ではない」という主張が「間違った主張」になるのですか。そこが明らかにおかしいと思います。また、上記の理由ではWikipedia:記事の分割と統合の
- 日本語を理解せず、他人の攻撃と揚げ足取りが目的の人間は相手にできません。冷静かつ落ち着いた議論が出来る方だけに、「世界観(ゲーム、アニメ用語)への分割提案」についての意見を窺いたいと思います。--Sakura299 2007年7月3日 (火) 16:10 (UTC)[返信]
- 揚げ足取りと仰いますが、そこが今回の分割提案で一番重要なところではないでしょうか。まずはどのような経緯で、方針文書のどのケースに基づいて分割すべきと考えたのか、明確に表明していただきたいと思います。--Kanbun 2007年7月3日 (火) 16:13 (UTC)[返信]
- 自身の意見を表明せず、他人の攻撃と揚げ足取りを目的としている人間は相手にできません。冷静かつ落ち着いた議論が出来、建設的な意見を述べることが出来るマトモな大人の方だけに、「世界観(ゲーム、アニメ用語)への分割提案」についての意見を窺いたいと思います。--Sakura299 2007年7月3日 (火) 16:18 (UTC)[返信]
- ちょっとお待ちを。まずは質問に答えていただけないでしょうか。対話拒否だけはご勘弁ください。--Kanbun 2007年7月3日 (火) 16:20 (UTC)[返信]
- 自身の意見を表明せず、他人の攻撃と揚げ足取りを目的としている人間は相手にできません。かつて、このノートでは不毛な揚げ足取りが延々と繰り返されてきました。その原因が一人のユーザーにあることは明白です。冷静かつ落ち着いた議論が出来、建設的な意見を述べることが出来るマトモな大人の方だけに、「世界観(ゲーム、アニメ用語)への分割提案」についての意見を窺いたいと思います。--Sakura299 2007年7月3日 (火) 16:27 (UTC)[返信]
- えーと、「自身の意見を表明」しても無視するような行為は慎んでください。また「かつて、このノートでは不毛な揚げ足取りが延々と繰り返され」、「その原因が一人のユーザーにあることは明白」ならば、まずはコメント依頼なり管理者伝言板に通報すべきです。また相手の意見を「論点をズラすことが目的の無意味な意見」と言ってのけるようなことはお慎みください。--Kanbun 2007年7月3日 (火) 16:34 (UTC)[返信]
- それではあらためて、冷静かつ落ち着いた議論が出来、建設的な意見を述べることが出来るマトモな大人の方だけに、「世界観(ゲーム、アニメ用語)への分割提案」についての意見を窺いたいと思います。--Sakura299 2007年7月3日 (火) 16:37 (UTC)[返信]
- それでは、まず冷静かつ落ち着いた議論が出来、建設的な意見を述べることが出来るマトモな大人の方である(笑)、私の質問にお答えいただきたいと思います。--Kanbun 2007年7月3日 (火) 16:40 (UTC)[返信]
- 冷静かつ落ち着いた議論が出来、建設的な意見を述べることが出来るマトモな大人の方だけに、「世界観(ゲーム、アニメ用語)への分割提案」についての意見を窺いたいと思います。--Sakura299 2007年7月3日 (火) 16:43 (UTC)[返信]
- 冷静かつ落ち着いた議論が出来、建設的な意見を述べることが出来るマトモな大人の方が、「世界観(ゲーム、アニメ用語)への分割提案」についての意見を表明されましたら、積極的に議論したいと思います。揚げ足取りが目的の人間は相手にしないことにします。--Sakura299 2007年7月3日 (火) 16:45 (UTC)[返信]
- 冷静かつ落ち着いた議論が出来、建設的な意見を……(以下略)ですので、意見を表明いたしました。質問にお答えください。揚げ足取りが目的の人間とは何の関係もありません。--Kanbun 2007年7月3日 (火) 16:47 (UTC)[返信]
引き続き、*冷静かつ落ち着いた議論が出来、建設的な意見を述べることが出来るマトモな大人の方だけに、「世界観(ゲーム、アニメ用語)への分割提案」についての意見を窺いたいと思います。現時点では残念ながら他人の攻撃と揚げ足取りが目的の子供しか書き込みが無いので残念です。--Sakura299 2007年7月3日 (火) 16:49 (UTC)[返信]
- 「現時点では残念ながら他人の攻撃と揚げ足取りが目的の子供しか書き込みが無い」という記述がありますが、このノートに書き込んでいる人は私も含めて多数おり、多くの方々に失礼ではないでしょうか。またこの節に限れば、私とSakura299さんの2人ですが、私たちは2人とも、冷静かつ落ち着いた議論が出来、建設的な意見を述べることが出来るマトモな大人ですので、何か勘違いをされているようです。まずは建設的な議論を続けるためにご質問にお答えいただければと思います。--Kanbun 2007年7月3日 (火) 16:53 (UTC)[返信]
- まず、落ち着いた議論をお願いします。「自分は落ち着いている」という主張も、落ち着いて飲み込んでいただけるようお願いします。
- 漫画などの作品について用いられる「世界観」の概念が哲学で用いられる「世界観」と一致はしていないでしょう。その概念・用例は主要な辞書に載っていなくても、著名性は充分あると思います。
- 歌舞伎などで各作品の大枠な背景設定を指す用語は「世界観」ではなく「世界」が一般的かと思いますが、専門的な知見を持っているわけではないので眉にツバつけて聞いてください。あ、歌舞伎の項目に記述がありますね。
- で、俗に使われる「世界観」ですが地理、時代、文化的設定を指すという定義だけなら字引きの域を出ず、百科事典の項目にならないと思います。ただし、そういった用法があるという記述は本文に必要でしょう。また、コミカルである、シリアスであるといった「色調」、キャラクターの行動パターンや、お約束、不文律も含まれる、製作者の"公的な"資料のみならずファン活動なども含めて醸成される部分もある、といった各人の解釈が分かれそうな部分にまで踏み込んだ記述や、言葉の由来と浸透してきた過程を出典つきで記述するなら、分割しても良いかと思います。
- ただ、現状を見ますと、「~有意義である」といった記述が百科事典的ではありません。調査しなければ分かりませんが著作権侵害があってもおかしくない、或いはオリジナルリサーチによるエッセイっぽいと感じます。--Puchi N 2007年7月4日 (水) 12:15 (UTC)[返信]
- 「調査しなければ分かりませんが著作権侵害があってもおかしくない、或いはオリジナルリサーチによるエッセイっぽいと感じます」という意見は個人的に、すこし不穏な意味合いを含んでいるように思われますので、私が確認した同様の記述がある書籍をあげますと、大塚英志『キャラクター小説の作り方』p.218-235です。私自身が元々の加筆をしたわけではないので、この記述部分が元々何を根拠にしているのかわかりませんが、少なくとも私は『キャラクター小説の作り方』のなかで大塚英志が記述していたので、出典ありとしてここの削除は不適当と考えました。なお『キャラクター小説の作り方』に限って言えば、私の判断では著作侵害には当たらないだろうと思っています。著作権侵害が疑われるということは、ほかに同様の記述をしている書籍なりブログなりをPuchi Nさんがご存知ということでしょうか?一応出典が明記されているのに、オリジナルリサーチであると思われる根拠もいまいちわかりません。--Kanbun 2007年7月4日 (水) 14:07 (UTC)[返信]
- 「作品世界を通して間接的に現実世界を評価することは有意義である。」の箇所は私が大塚の主張を客観化して書いた箇所です。『キャラクター小説の作り方』では、「スニーカー文庫のような小説」を「『架空の世界としての世界観』に基づく小説」と定義し、その世界観に基づいた小説の意義については、「仮構しか描けない、と自覚することをもって、初めて描き得る『現実』がある」「『キャラクター小説』は現実を描け、と言われているようにも聞こえたら、それは正解です」「けれども、かつてまんがやゲームが言われ続けたように『事件』や『戦争』は『現実』であって、決して『物語』ではありません。その批判をまんがやアニメの側は『現実』の『戦争』をおこなおうとしている人々に向かって語らなくてはいけません」などと述べています。なお客観化して記述することに問題があるならば、この節の大部分を「大塚英志によれば」の但し書きつきにしてしまえばよいのではと思われます。もちろん最初に加筆した人が何に依拠したかわからないという不安は残りますが。--Kanbun 2007年7月4日 (水) 14:47 (UTC)[返信]
- 一読しての感想から確証ないまま「著作権侵害」「独自の調査」を匂わせるような発言をしたことは、 Kanbunさん、またこの項目に携わってきた方達の出典を示し、著作権への配慮をしてきた編集姿勢を軽んじるものであり、軽率でした。その点と、ご心配、お手数をおかけしましたこと、お詫びいたします。現記述に対する具体的な要望は、私も出典を確認しますので、いましばらく時間をいただけるようお願いします。
- ただ、ただですね、現状の後半部分の記述について、(哲学用語でない)「世界観」の広く一般的な解説にしては特定個人の主張色が強い、飛躍した理論かもしれないという印象があって、他の読者もそう感じるかもしれません、ということをお伝えしたいです--Puchi N 2007年7月5日 (木) 16:55 (UTC)[返信]
- お返事ありがとうございます。「ただ、ただですね、現状の後半部分の記述について、(哲学用語でない)『世界観』の広く一般的な解説にしては特定個人の主張色が強い、飛躍した理論かもしれない」については、私も全くその点が問題だと思っています。私もだからこそ明確な出典情報を記載し、それに基づいて増補したわけです。ただそれが「他の読者」が「そう感じるかどうか」は第一の問題ではなくて、ウィキペディアでは検証可能性に基づいて情報を提示できるかどうかと中立的な観点かどうかが問題になるわけです。つまり「(哲学用語でない)『世界観』の広く一般的な解説にしては特定個人の主張色が強い」かどうかも、やはり検証可能性に依拠して議論すべきですし、「読者」の「感想」で判断すべきことではないと思いますが。--Kanbun 2007年7月6日 (金) 02:57 (UTC)[返信]
- つまり「他の読者もそう感じるかもしれません、ということをお伝えしたいです」とありますが、そういう感想が検証可能な裏付けなしに分割の議論とどう関係するのか、Puchi Nさんがこのセリフでいったいどんなことを伝えたいのか、私にはさっぱりわかりません。問題点を明確に示していただければと思います。たとえば「どこそこの記述が検証可能かどうか検討すべき」とか「どこそこの記述がこういう事実に即さないのではないか」とか。検証可能な裏付けもなしに、読後感に基づいて「ここがオリジナルリサーチみたいだ」というような議論の仕方は発展性を考えても益があるとは思えません。--Kanbun 2007年7月6日 (金) 06:41 (UTC)[返信]
- まとめてしまえば、私が言っているのは今回の分割の議論と記事内容の「検証可能性・中立性」についての議論はとりあえず切り離しておこなうべきで、Sakura299さんにもPuchi Nさんにも分割のことに的を絞った議論をお願いしたいです。--Kanbun 2007年7月6日 (金) 07:01 (UTC)[返信]
- 分割提案について現状では反対です。「日常的な用法としての世界観」の節の分量がバランスを失うほど分量が多いとは思いません。それでも、近代哲学用語としての世界観とまったく別物の概念として新たに項目を起こすべき内容であるなら分割する理由もあると思いますが、それを判断するには、中立性などについてさらなる議論と修正が必要と感じ、そうした議論は分割しなくとも可能だと考えます。内容の「検証可能性・中立性」についての議論を別の節ではじめるなら、幾つか指摘したい点はあります。ですが、まずは現状で分割が必要かどうか議論し、合意を得るということでしょうか。 --Puchi N 2007年7月10日 (火) 15:44 (UTC)[返信]
- ここは分割についての節ですから、中立的な観点や検証可能性に関する問題をここで同時におこなえば、議論が錯綜してしまいます。最初から私が問題にしているのはまさにその点です。中立性などについては節を改めて議論することにしましょう。--Kanbun 2007年7月10日 (火) 16:30 (UTC)[返信]
- それと中立性に関する問題で「幾つか指摘したい点」があるとのこと、是非節を改めて議論していただければと思います。--Kanbun 2007年7月10日 (火) 16:33 (UTC)[返信]
- 現状では、分割には反対ですね。分割するとしたら「日常的な用法としての世界観」を抜き出す形になるのでしょうが、現状版の節は、どうも百科事典として不適切といいますか、独自研究か中立的な観点に引っかかるんじゃないでしょうか(Puchi Nさんが仰った「エッセイっぽい」に同感です。オリジナルリサーチかどうかは別として)。明確なところで「大塚英志によれば~」という一文は、大塚氏の著書でそう書かれているというのが事実としても、無名とは言いませんが一個人にすぎない大塚氏の意見を参考とするのは百科事典としておかしなことで、「(哲学的でない)世界観」を記述する際には削除が適当と思われます。そういったあたりを正した場合(大半を削除することになると思います)、独立記事としてはボリューム不足になるだろうというのが反対の理由です。「世界観」の一節にまとめられていても、間違いではありませんしね。もっと色々と記述されていたなら別なので、現状では分割反対、ということです。ちょっと考えてみたのですが、私には追記するような内容が思いつけませんでした。--矢側 2007年7月9日 (月) 17:52 (UTC)[返信]
- 「大塚英志によれば」の部分はあとづけでつけられた箇所です。私自身はこの箇所が大塚英志に同様の記載情報があったので、節全体に対して記載情報をつけたつもりですが、のちに今の形にされたようです。むしろ節全体が大塚英志の著作で同様の趣旨が確認されたとお考えください。「百科事典としておかしなこと」かどうかは、それをご了承された上で、考えてくださればと思います。つまりこの部分全体が大塚英志個人の主張に過ぎないのであれば、それが中立的でないということは十分ありえます。私は大塚の著作を読んだ限りでは、そのような印象はありませんが、こればっかりは議論した上でなければ何ともいえません。--Kanbun 2007年7月10日 (火) 16:47 (UTC)[返信]
- Kanbunさんは議論錯綜を懸念されており「分割提案と中立性・検証可能性等は、議論の場を分けたほうがよい」とお考えのようで、それも理解できるのですが、私は「現状の記述を中立性などについて整理すると、その結果は記事として独立するには記述量が少ない=スタブになるだろう」という理由で分割反対しています。とりあえず一つ一つ書くようなことはしませんけれども。
- ついでに。逆説的ですが節全体と同様の論旨なので大塚氏の著書は出典たりうるということですよね(それって厳密には出典になりませんけど……)。信頼性の観点から、出典とするのはおかしいという私の意見に変わりはありません。--矢側 2007年7月12日 (木) 20:14 (UTC)[返信]
- 説明不足だったようです。元々の節の内容とほとんど同じ内容が大塚英志の著作で見つかったので、私が大塚に基づいて増補しました。したがって現在の記述は出典に基づいているということです。また大塚の著書で確認できたということは、おそらく元の記事も同様の著作に基づいていると判断し、元記事も出典ありと判断したわけです。
- 元の記事に対し、「同様の論旨なので大塚氏の著書は出典たりうる」とは一言ももうしてません。さらにいえば、この出典あるなしは、全くウィキペディア的に検証可能な裏付けがあるかどうかという意味です。つまり元記事の内容は大塚の著作で検証可能だという意味です。
- 「信頼性の観点から、出典とするのはおかしいという私の意見に変わりはありません。」について。この信頼性というのはウィキペディアの中で、中立的な観点と検証可能性によって担保されています。その意味でウィキペディアの信頼性の観念は、矢側さんの考えておられるものとは大変異なる場合もあります。ただ単に「信頼性の観点から」と言われましても、具体性が無く要領を得ません。具体的に中立的でないと考えるのか検証可能でないと考えるのか別の問題があるのか指摘していただければと思います。大塚の著作自体へのウィキペディア的な信頼性は「広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実、表明、学説、見解、主張、意見、および議論についてのみ言及すべきです。(WP:V)」に基づくことは知っておられますよね?逆に信頼性を欠く情報源というのは、「一般に、信頼性に乏しい情報源とは、事実確認について評判がよくない情報源、あるいは事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)、または編集上の監督を欠く情報源(WP:V)」です。大塚の著作がどちらにあたるか、私は明らかに前者だと判断したわけです。
- それと矢側さんは「分割提案と中立性・検証可能性等は、議論の場を分けたほうがよい」とは考えていないと受け取りましたが、正しいでしょうか。--Kanbun 2007年7月13日 (金) 03:43 (UTC)[返信]
- 出典として大塚氏が出てきた理由と経緯は理解できたと思います。「節のすべての記述は大塚氏の著書を拠り所としている」ということでよろしいですか? 信頼性云々についてはたしかに勘違いしてたようなので取り下げます。残りは「中立的な観点」についてです。「(日常的用法の)世界観」の節はとても断定的な文調で記述されていますが、その論拠が「大塚氏が著書でこう書いている」というだけなら、他の観点がまったく記述されておらず、節全体の記述から「あくまで大塚氏独自の観点ではこうですよ」という留意点も読み取れない以上、中立性に欠けている偏った記述(節)ではないか、という疑念です。また今思ったのですが、もし分割するとすると「大塚氏の評論を単独記事化する」という形になるのでしょうか?
- 議論の場についてはどうでもいいです。私が分割反対について書くなら、どうしても中立性等の議論を一緒くたに書かざるをえない、と言いたかったのです。--矢側 2007年7月13日 (金) 13:58 (UTC)[返信]
- インデント戻します。
- >他の観点がまったく記述されておらず
- 矢側さんが他の観点について、検証可能なソースをお持ちなら、それを示して加筆してくださればと思います。現状で他の観点って言われましても、検証可能なソースもなしに、他の観点なるものを提唱して、それをいい加減に書くわけにもいかないわけで……(←こういうのを、独自研究っていうんです)。わかりますよね?
- >節全体の記述から「あくまで大塚氏独自の観点ではこうですよ」という留意点も読み取れない以上、中立性に欠けている偏った記述(節)ではないか、という疑念です。
- これについては、私は大塚英志以外のソースを知らないので、よくわかりません。私自身が大塚英志の記述に従う形で増補したのであって、元の加筆者が何に依拠したかは微妙です。ただ大塚の著作から事実らしいことが確認できるだけで、大塚個人の主張かどうかとなると、おそらく一定程度大塚の主張も混じってるでしょうが、それだけではなさそうだという感じです(歌舞伎用語の「世界」など)。なので、私は当該箇所の削除に現状では反対していますが、より有力なソースがあればそれに従って改変することはもちろん望ましいことです。ぶっちゃけると『キャラクター小説の作り方』のなかで、「あくまで大塚氏独自の観点」の部分がようわからんので(なぜなら私はほかにこの部分について検証可能な信頼できる情報源がありませんから)、とりあえず大塚英志にしたがって節を増補したわけです。なにかほかにこの部分についての「検証可能な信頼できる情報源」を矢側さんがご存知ならば、それに基づいて議論することは有意義です。ただ「感想」に基づいて、この節すべてが大塚英志の主張に過ぎないという決めつけは無理というものですよ。
- >また今思ったのですが、もし分割するとすると「大塚氏の評論を単独記事化する」という形になるのでしょうか?
- さあ、どうなんでしょうね?私は分割に反対なので……。ただ勘違いしてほしくないのは、ちゃんと『キャラクター小説の作り方』を読んでいただければ分かると思いますが、この節の記載のすべてが大塚氏の評論にとどまっているわけではありませんよ。これはこういう記述が『キャラクター小説の作り方』を見れば検証可能だという意味で私は書誌情報を載せたわけですから。大塚がとくに「どこからどこまで自分の意見だ」と限定せずに述べ、ほかに検証可能な二次情報源がない場合、それはとりあえずそれに基づいて記述して、書誌情報を載せておくしかないだろうって私は思うわけで。
- >議論の場についてはどうでもいいです。私が分割反対について書くなら、どうしても中立性等の議論を一緒くたに書かざるをえない、と言いたかったのです。
- 別にそれならそれでかまわないんですが、それならちゃんとどこが中立的でないか、文献などに従って表明していただきたく思います。ぶっちゃけ検証可能でない「感想」で中立的でないという主張であれば、それはとりあえず論外なわけで。--Kanbun 2007年7月13日 (金) 15:44 (UTC)[返信]
- 「大塚英志によれば」という注釈のある最後の一文以外、何かからの引用あるいは出典に基づいた記述には見えません。たとえば節前半の「体系化された~」から始まる、哲学的解釈が絡んだ記述では「考えられ」「有意義である」など誰ぞの見解であるかのような書かれ方をしているものの、これが大塚氏の著書に拠るのか(だとしたら大塚氏の解釈なのか、そうでないのか)、あるいは別の出典があるのか不明なので、独自研究に見えます。後半の「この意味における世界観は~保証するものである。同時に作者が~世界設定を共有することができる。」も似たようなものです。私はKanbunさんから「むしろ節全体が大塚英志の著作で同様の趣旨が確認されたとお考えください」とアドバイス頂いたので、それを念頭に置くこともできますが、客観的には節の記述からそういった注釈は読み取れないでしょう。
- 中立性について。絶対に他の観点からも書く必要があるということではなくて、他の観点が記述されていなくとも、いま記述されている内容が、ある一方からの観点によるものだとわからない記述には偏向性がありますよね。今件でいうと、大塚氏なら大塚氏の、または氏の著書で示された誰かならその誰か(特定人物でなくとも構いませんが)の見解であると明記せず、「有意義である」「世界設定を共有することができる」と断定的に書いてしまっていることです。--矢側 2007年7月15日 (日) 20:33 (UTC)[返信]
- >「大塚英志によれば」という注釈のある最後の一文以外、何かからの引用あるいは出典に基づいた記述には見えません。
- 履歴を見ていただければわかりますように、以前は節全体に対し、注釈で書誌情報が記載されていました。また大塚の著作で確認できるからと言って、それが「だとしたら大塚氏の解釈なのか、そうでないのか」について明確に確認できることはないことはご理解いただけますでしょうか。たとえば誰かが「ニュートンが万有引力の法則を発見したと考えられている」と著作で言及するとき、主語を特定することは可能でしょうか?もし他の文献に記載がない場合、「この著作」によれば「と考えられている」という記述があるとしか記載できないのでは?その際に文一つ一つに、「これによれば、これによれば」というのは可読性を損ないますので、そこは節全体の出典として、私は書誌情報を載せておきました。現在の形はその後改変されたものです。さらに言えば、そこは今の記述が問題なのであって、分割とは関係ないように思われます。
- >他の観点が記述されていなくとも、いま記述されている内容が、ある一方からの観点によるものだとわからない記述には偏向性がありますよね。
- 私自身の見解を言えば、現状では、ある一方からの記述かどうかは断定できないと思っています(これは私自身が大塚の見方が普遍的であると考えているのではなくて、どこからどこまでが一般的でない事柄なのかが、現状明確でないという意味です)。偏向性について、端的に言えば、ウィキペディアの性格上、明らかに常識的に異なるとかいうのでなければ、その偏向性の手がかりになるような検証可能なソースがなければ、偏向性を考慮して記事を構成することはおそらく不可能ではないでしょうか。個人的に言わせていただければ、大塚の著作は事実部分もどちらかといえば体験に基づくような記載が多いので、私自身はそれほど信用していません。批評文という性格からも、ここからここまでが事実だとかという線引きは非常に難しいと思います。ただ他の観点が検証可能な形で提出されないと、事実的な部分での誤謬も明らかにできません。端的に言えば、最初から申しているように、大塚の著作が「ある一方からの観点によるもの」かどうかは他の観点からの検証可能な裏付けなしに考えることは難しいということです。なぜなら大塚の見解は検証可能なのに、他の見解は検証可能でない場合、検証可能でない他の見解に配慮して大塚の見解を限定的に書くことは、中立的でしょうか?つまりウィキペディアの中立性という観点上で、私は現在の記述を支持しているのであって、もし違う百科事典として、第一義に考えよと言われれば、大塚の見方など触れずに哲学的な部分だけのほうが好ましいと考えていたと思います。私は逆に大塚の著作を必要以上に限定的に考えるかのような矢側さんの主張のほうが中立性を欠くように思います。
- >または氏の著書で示された誰かならその誰か(特定人物でなくとも構いませんが)の見解であると明記せず、「有意義である」「世界設定を共有することができる」と断定的に書いてしまっていることです。
- これについても同上です。--Kanbun 2007年7月16日 (月) 06:05 (UTC)[返信]
とりあえず、提案から1ヶ月たった上、議論も分割反対が多かったと考えられるので、分割テンプレを削除しました。本ノートも長くなったので、しばらく待ってログ化しようと思います。--Kanbun 2007年8月3日 (金) 08:31 (UTC)[返信]
上のログは保存されたものです。編集しないでください。