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ノート:中国大返し

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「中国大返し」だけで記事を書くのって厳しくないですか?山崎の戦いで扱う方がいいと思います。「羽柴秀吉による本能寺の変を受けた明智光秀討ち」とかって名前にするのも無理がありますし。 Kozawa 2004年8月10日 (火) 04:33 (UTC)[返信]

自分に書ける書けないを無視すれば「中国大返し」だけで記事を書くのは不可能じゃない気もします。たとえば、秀吉はいつどこを通ったか、それに対し通常この規模の軍隊が移動するのにはどの程度の時間が必要なのか、どうしてそんなに早く移動できたのか、エピソードとして大金を使って沿道に食料を用意した話とか。別にリダイレクトでも仕方ないですけど。tanuki_Z 2004年8月11日 (水) 01:54 (UTC)[返信]
もちろん、しかるべき内容を書いて復帰させるのであれば、私はまったく反対しません。 Kozawa 2004年8月11日 (水) 02:00 (UTC)[返信]

月間新記事賞

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このページはWikipedia:月間新記事賞/2010年9月に選ばれました。またこの記事に関するコメントや議論が良質な記事の選考のWikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/中国大返し 20101011に保存されています。有用なアイデアが残されているかもしれません。この記事を編集される方は、ぜひご参照下さい。--ブレイズマン 2010年10月25日 (月) 15:25 (UTC)[返信]

記事の誤りについて

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ルイス・フロイス『日本史』や従軍した本城惣右衛門が江戸時代になってから著した『本城惣右衛門覚書』には、この時末端の兵士には徳川家康を討つと伝えられたことが記されている。

『本城惣右衛門覚書』には、 「我らはその時は家康様が御上洛しておられるので、家康様を討つとばかりに思っていました。」 と書かれているのであり、 「この時末端の兵士には徳川家康を討つと伝えられたことが記されている。」 という記述は誤りです。--Visitenema会話2017年11月11日 (土) 17:33 (UTC)[返信]

「姫路への撤退」節と「軌跡」節との食い違い

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「姫路への撤退」節では、6/6を撤退開始とする説が「有力」で、「6/4説もある」という扱いです。

ところが「軌跡」説では逆になっていて、6/6を「従来の通説」とし、「実際には・・・」と、6/6は旧説で、現在では通説ではないような表現になっています。

私自身にはどちらがどう、はわかりません。有名なテーマで、大記事で、多くの方が編集に関わっているのでやむを得ない面もあるのですが、中立的な観点から適切な重みづけをするなり、説を帰属化するなりしてきちんと区別するのがいいでしょう。--柒月例祭会話2020年6月17日 (水) 11:54 (UTC)[返信]

報告 とりあえず応急措置としてどちらのセクションの記述も両説平等な感じに書きました。--Tmv会話|投稿記録2020年6月17日 (水) 23:48 (UTC)[返信]