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ノート:仏教公伝

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2022年8月19日

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出典が付いていない↓の独自研究があったので、訂正しました。渡来人で最も多かったのは、中国系です。また、百済は、中国が朝鮮半島に設置した植民地の楽浪郡・帯方郡の故地に建国していることなどから、楽浪郡・帯方郡の中国人遺民を吸収しているため、百済人であっても出自は中国系が多い[1][2]。実際、Category:百済の人物に登録されている百済人の少なくとも半数以上は中国系の百済人。しかも、本文中に名前を挙げている司馬達等は中国系です。

Korean Nationalistic POV & 独自研究記事

「古代の日本には、古くから多くの渡来人(帰化人)が連綿と渡来してきており、その多くは朝鮮半島の人間であった。彼らは日本への定住にあたり氏族としてグループ化し、氏族内の私的な信仰として仏教をもたらし、信奉する者もいた。彼らの手により公伝以前から、すでに仏像仏典はもたらされていたようである。522年に来朝したとされる司馬達等止利仏師の祖父)はその例で、すでに大和国高市郡において本尊を安置し、「大唐の神」を礼拝していたと『扶桑略記』にある。」

  • 河内春人『倭の五王 – 王位継承と五世紀の東アジア』中央公論新社中公新書〉、2018年1月19日、70頁。ISBN 4121024702。「当時の朝鮮半島には中国系の人々が多くいた。314年頃に高句麗が西晋の半島における出先機関である楽浪郡や帯方郡を滅ぼすが、そのとき郡に関わっていた中国系の役人や知識人すべてが晋に無事帰国できたわけではないからである。その多くは高句麗に吸収され、高句麗の支配機構の整備に利用されただろう。高句麗が府官制をもっとも早くに導入できたのには、そうした背景があった。また、高句麗から逃れた人々は、帯方郡からそのまま南に避難すると百済に行き着くことになる。百済もまたそうした中国系の人々を国家形成に活用した。そのことは百済における府官のあり方を見ても明らかである。両国で採用された府官の名についてもう一度、1 - 5を見てみると、百済の余礼のように百済王と同じ余姓を有して百済王族と思われる人物もいるが、多くは中国的な人名である。特に百済における424年の長史張威、472年の司馬張茂、495年の参軍張塞はいずれも張姓であり、同族の可能性もある。495年の司馬王茂も楽浪郡に勢力を張った王氏の子孫と想定される。」 
  • 八幡和郎『歴史の定説100の嘘と誤解』扶桑社扶桑社新書〉、2020年3月1日、44頁。ISBN 4594084214。「文明を伝えた帰化人は百済から来てもほとんど漢族…楽浪郡などの残党の漢人たちが日本に文化と技術を持って来た…王仁博士と言えば、応神天皇の時代に百済から派遣されて来日し、本格的な文字伝来のきっかけとなった人です。そこで、子孫が住んだ大阪府枚方市では、日韓友好の象徴にしようとしています。しかし、その名からも分かる通り、中国人です。漢の高祖の子孫で、その祖父の代から百済に住んでいました。漢族の王仁博士が漢字を日本に伝えたのが日韓交流のシンボルというのは、在日韓国人の3世がアメリカでキムチを教えたら、日米友好の象徴と言うような話で無理があります。平安時代の上流階級の戸籍というべき『新撰姓氏録』には、「諸蕃」と呼ばれる帰化人系の士族が全体の2割ほどを占めています。統一国家成立、つまり、仲哀天皇と神功皇后が北九州を版図に入れてからあとに、日本にやってきた人たちを帰化人ととらえて分類していたようです。それによると、「漢」が163氏、「百済」が104氏、「高麗」が41氏、「新羅」が9氏、「任那」が9氏となっています。つまり、帰化人の過半数が漢族でした。大陸から直接に渡ってきた人もいたでしょうが、多くが百済経由でした。秦氏、大蔵氏、止利仏師など皆そうです。天台宗の開祖である最澄もそうです。この時代には、漢文の読み書きがよくできるのは、日本でも半島でもだいたい漢族に限られていましたし、高度の技術を持つ人たちも同じでした。」 
  • 宮脇淳子『朝鮮半島をめぐる歴史歪曲の舞台裏 韓流時代劇と朝鮮史の真実』扶桑社扶桑社新書〉、2020年4月30日、46頁。ISBN 978-4594084523。「朝鮮半島の川は全て「江」と表記されるということです。シナ大陸では、黄河は「河」で、揚子江すなわち長江は「江」です。つまり、南部の川は「江」で、北部は「河」と表す。ということは、シナ大陸の北と南では言葉が違っていたということであり、朝鮮半島に最初に入った漢字を使う人々は、海を経由して南から入った可能性が高いと考えられるわけです。その理由として、燕国の東側は拓けるのが遅かったことが挙げられます。その地域一帯は北方騎馬民の勢力圏だから、商隊はすぐに襲われるので安全なルートじゃない。高句麗に入っても靺鞨などが蟠踞しています。そこで海を利用するわけですが、同様に漢字を使う人たちは、日本列島にも東シナ海経由で来た可能性が高いのです。朝鮮半島から日本への渡来人は、いわば第二派だったという説が、現在、かなり有力になっています。」 
  • 八幡和郎『最終解答 日本古代史 神武東征から邪馬台国、日韓関係の起源まで』PHP研究所PHP文庫〉、2015年2月4日、36-37頁。ISBN 978-4569762692。「始皇帝の子孫という秦氏や漢字を伝えた王仁博士のように、百済を経由して渡来したとしている氏族も含めて、帰化人の多くが「漢」を出自とすると名乗っていたのです。…百済や高句麗の支配層は、もともと北方系の夫余族で、朝鮮半島に南下してきたのは、日本に稲作が伝わった時代よりかなりあとです。いずれにしても、弥生時代に始まったころの朝鮮半島南部の人口がそれほど多かったとは思えません。それになにより、日本列島に稲作をもたらしたのが北方のアルタイ系の人々だと考えるのは突飛すぎます。それより、中国での戦国の争乱で故郷を離れざるを得なくなった、あるいは、開発余地が少なくなった江南の地から稲作技術とともに新天地を求めて東へ向かった人々がかなりいたわけで、その人々が日本人の主たる父祖と見るべきです。以上のような話を朝鮮半島における農業発展史から説明すると、半島における農業の黎明期には、遼東半島方面から畑作や稲でも陸稲など華北的な農業が先行して導入されていきました。一方、水田による南方的な稲作も3000年くらい前から行われ始めていたようですが大きくは発展しませんでした。日本でも縄文時代末期から稲作の痕跡はあり、それは、朝鮮半島から伝えられたものかもしれませんが、いわゆる弥生時代の始まりと言われるような革命的変化は、通過地として半島沿岸地方を経たとはいえ、中国の江南地方からの技術、種籾、移民によるものとみるべきです。」 

--2001:268:C1C5:31EE:D96A:161C:76A4:6C16 2022年8月19日 (金) 17:25 (UTC)[返信]


IP氏による編集を差し戻しました。以下はその理由です。
IP氏が上で多数挙げられている出典はいずれも無効と考えられます。
  1. 八幡和郎氏は非専門家であり、ウィキペディアの出典としてふさわしくありません。
  2. 宮脇淳子氏は歴史学の専門家ではありますが、その専門分野はモンゴル史であり、朝鮮史・日本史は範疇外です。
  3. 関晃氏については同じ世界大百科事典の文章で引用された文章の直後に「これに対して5世紀後半に入ったころから,中国の南朝文化の影響を受けた百済人や任那人などが渡来するようになり」と書かれています。引用された文章は「これらの初期の帰化人は」という枕詞に基づいて示されたものであり、仏教伝来の時期の渡来人について述べたものではないことは明らかです。
  4. 河内氏については中国系の人が百済に流れ着いていたと記しているだけであり、「百済人の少なくとも半数以上は中国系の百済人」というIP氏の主張を何ら担保していません。
  5. 浜田氏および網野・鶴見両氏についても倭から百済に渡来した人がいるだろうと述べているだけであり、仏教伝来について考察しているわけではありません。
  6. 宋成有氏についてはこの文章の中で「百済人の少なくとも半数以上は中国系の百済人」という論旨の文章は発見できませんでした。
  7. 전덕재氏についても単に中国から高句麗・百済に流れた人が多数おり、それが高句麗・百済の発展に貢献したという文章であり、「百済人の少なくとも半数以上は中国系の百済人」という主張の担保にはなっていません。
ただし下2つについては長い論文であり、かつ전덕재氏については機械翻訳を使用しての閲覧であるので、私が見逃した可能性もあります。
以上からして「百済人の少なくとも半数以上は中国系の百済人」というIP氏の主張は成立しないと考えます。--らりた会話2023年2月1日 (水) 12:06 (UTC)[返信]
  1. ^ 전덕재 (2017年7月). “한국 고대사회 外來人의 존재양태와 사회적 역할” (PDF). 東洋學 第68輯 (檀國大學校 東洋學硏究院): p. 109-110. オリジナルの2022年4月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220423195439/https://cms.dankook.ac.kr/web/-oriental/-23?p_p_id=Bbs_WAR_bbsportlet&p_p_lifecycle=2&p_p_state=normal&p_p_mode=view&p_p_cacheability=cacheLevelPage&p_p_col_id=column-2&p_p_col_count=1&_Bbs_WAR_bbsportlet_extFileId=99960 
  2. ^ 宋成有 (2010年). “古代中国文化の日本における伝播と変容” (PDF). 日中歴史共同研究報告書 (日中歴史共同研究): p. 85. オリジナルの2021年10月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211008104847/https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_c_translate.pdf