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ノート:佐藤基治

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源義経の妻妾

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大阪市立大教授-角田文衛著「王朝の残影」東京堂出版刊ISBN4-490-20200-8・c3021

  • 正妻--平重頼の女--頼朝の仲人によるもの
  • 本妻--平時忠の女--吾妻鏡に記述
  • 側室--源有綱の義母--吉記に記述
  • 白拍子静御前--最も著聞
  • 平泉時代の妻--浪の戸--飯坂佐藤氏系図に記述
    papamaruchan22

※藤原一族での地位と生年

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  • papamaruchan22です。ご存知のように郎党とは、武士の従者のうち所領を持たぬものを言います。よって荘園主である領地を持つ基治等は、郎党ではないのですよね。代官として藤原三代に仕えましたが元来秀郷流の同族関係です。藤原氏の郎党ではありません。義経に同行した継信・忠信兄弟は郎党と称してもいいかと思いますがね。
  • 生年の件は、私の初稿ではないのですが、少し記述しますと佐藤一門の事歴は東鑑玉葉ですが、子息の継信・忠信がそれぞれ36歳と34歳で没してます。「信達一統志」などでは、基治77歳死亡説で、ほかに75歳あるいは70歳説があります。本稿では77歳死亡説をとり、石那坂の戦いで戦死したとして、逆算して生年を記述しております。要出典をはずして?をつけ『佐藤基治(さとう もとはる、永久元年(1113年?)- 文治5年(1189年?)』としてもいいのかもしれません。なお佐藤氏の研究の第一人者菅野円蔵の著作・「大鳥城記」では、70歳説をとっております。ご異存なければ記述を工夫してみます。papamaruchan22 2008年10月20日 (月) 11:06 (UTC)誤植訂正papamaruchan22 2008年10月22日 (水) 15:10 (UTC)[返信]
了解しました。吉川弘文館の源平合戦辞典に秀衡郎従とあるのをそのまま書いたんですが、正しくないですね。生年については?と脚注で解説を入れるとよいのではないでしょうか。そのあたりはお任せします。忠信と継信の享年は吾妻鏡、玉葉にもなく、正確には不明で、記事の生年はおそらく源平盛衰記に書かれた没年令から逆算したものと思われます。継信と忠信の生年も?を入れた方がいいかもしれません。--小者 2008年10月20日 (月) 12:42 (UTC)[返信]
papamaruchan22です、いつも小者さんの歯切れの良い記述感心してます。加筆してみます。それから佐藤兄弟については、今は歴史が好きな人は別として、さほど注目されませんが、古来忠勇忠義の鑑として喧伝されまして、昭和初期から20年まで戦前かなり有名でした。で、年齢については飯坂温泉(正確には福島市)の菩提寺の医王寺の石碑の享年が36歳と34歳なので、それが正確性ありとされ、以前からそれから生年を導き出しておりまして、こちらは死亡年が確実なので生年も確定できたのでしょうね。今後ともよろしく。papamaruchan22 2008年10月22日 (水) 12:39 (UTC)[返信]