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ノート:保明親王

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藤原時平の娘の宇多天皇後宮への入内について

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「延喜4年(904年)に2歳で立太子、東宮となる。これは、叔父藤原時平の思惑があり、時平の娘は既に宇多天皇に入内し女御となっていたがなかなか皇子を生まず」とありますが、時平が26歳の897年に宇多天皇は譲位しており、同天皇の後宮に娘を入内させることはほぼ不可能(譲位後時平の娘褒子が920年頃以降宇多天皇の皇子を3人生んでいますが・・・)、また保明親王が生まれた904年時点でも時平は33歳(いずれも満年齢)であり娘が「なかなか皇子を生まない」という表現は年代的に合理性がありません。また穏子は基経の娘ですが、入内したのは901年で基経はすでに死亡しており、入内は同母兄である時平の主導で行われた可能性が高く、自ら主導で入内させた女御が生んだ皇子を立太子させるのに、このような「思惑」はおかしいと思います。--Snap55 2008年4月6日 (日) 06:32 (UTC)[返信]

同じく藤原師輔の『九暦』には時平が穏子の入内を持ちかけて醍醐天皇の許しを得ていたのに宇多法皇に妨害されたこと、その後も穏子所生の保明立太子に最後まで反対したことなどが記されており、河内祥輔氏は穏子が入内して男子を産んで時平が外戚になるのを嫌ったために醍醐天皇に変えて斉世親王の即位させようとしたとする説を唱えられている程(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』第7章(吉川弘文館、1986年))ですから、穏子の兄である時平が父代わりとして入内させたと見る方が適切だと思われます。なお、宇多法皇には基経の娘・藤原温子が女御として入っていますが、温子所生の均子内親王誕生の翌年に基経が亡くなると、ほとんど省みられなくなったようです。--水野白楓 2008年9月25日 (木) 18:04 (UTC)[返信]