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ノート:阿毘達磨倶舎論

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ノート:倶舎論から転送)

初版について

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ノート:供養での件が気になったので、同じ投稿者の方の同時期の投稿を調べてみたのですが、この記事の初版は、ネットで百科の「阿毘達磨抑舎論」にある記述とよく似たものを多く含んでいます。記述の順序・構成も類似箇所については同じです。

もう少し簡単に言えば、前者から一部の記述を削除して表現を変えると後者になるし、後者に加筆修正を加えると前者になる、というような関係にあるようです。Tomos 2004年12月22日 (水) 18:32 (UTC)[返信]

この記事も倶舎宗同様、末木文美士さんが平凡社の百科事典に書いた内容が使われていることは確かですが、こちらについては何もいたしません。事典のこの項目は、書いたのは誰で、こういう訳があって、全体としてはこういう内容で…というデータ的なものを短く記したものだからです。事典が内容を大きくグループ分けして説明しているのに、これとは別に個別の説明を足してある狙いはよくわかりません。ただ、もう別に文章になっていますし、すぐに対応しなければならないような問題はないと思います。--西村崇会話2024年12月19日 (木) 12:00 (UTC)[返信]

改名提案

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提案 ウィキペディア日本語版のガイドライン「Wikipedia:記事名の付け方#正式名称」を理由に、『阿毘達磨倶舎論』への改名を提案します。--Resto1578会話2015年10月30日 (金) 15:18 (UTC)[返信]

日本においては「倶舎論」の名での認知度の方が高く、また慣例的な呼称であり、改名は尚早ではないかとの意見を持っています。Wikipedia:記事名の付け方#正式名称では、記事名は「上記「記事名を付けるには」にある基準に適合するよう」とあります(また、慣例的な呼称も認められています)。現行の「倶舎論」は、Wikipedia:記事名の付け方#記事名をつけるにはに示されている「認知度が高い」「見つけやすい」「簡潔」の基準を満たしているという意見を持っています。
(1)本記事に示されている文献(日本語)9つのうち8つまでが表題に「倶舎論」の名を用いている一方、「阿毘達磨倶舎論」を用いている文献はゼロにとどまることから、上記基準のなかの「信頼できる情報源において最も一般的に使われて」いると見て取れること(残る1文献「存在の分析<アビダルマ>」においても、本文において桜部建、上山春平両氏とも「倶舎論」の用語で論じています)。
(2)倶舎論の注釈書として「倶舎論記」という名称を用いている例が複数見られ、「倶舎論」の名はテキストの名称としても日本においては歴史的に定着してきたと認められること(http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/bunka/data/bz_379.html (12世紀)、
https://www.google.com.sg/search?q=%E5%80%B6%E8%88%8E%E8%AB%96%E8%A8%98+%E6%99%AE%E5%85%89%E6%92%B0&espv=2&biw=1366&bih=643&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0CAgQ_AUoA2oVChMIzI7Nw5rtyAIVI9qmCh21kgxW#imgrc=uqrA8MfiqZMVKM%3A のリンク先など)。
(3)桜部建『新装版 佛典講座18 倶舎論』(大蔵出版、2002年)(P1)「日本の佛教の長い伝統の中で、『倶舎論』は古くからずいぶんよく学習され、研究されてきた。少なくとも明治の初めの頃までは、それは佛教の基礎学であって、仏教教義を本当に知るにはまずそれを勉強する必要がある、という考え方が一つの常識としてあった。」等の記述からも、「倶舎論」の名は日本においては単純にテキストの名称としてのみならず、学問分野を代表する名称として歴史的に長期間定着してきたと認められること(倶舎宗の宗派名が天平年間(8世紀)から存在し、南都六宗の一つに数えられています)。
(4)その他、インターネットで「倶舎論」での検索結果の数(googleを用いた)が、「阿毘達磨倶舎論」での検索結果と比較し有意に多いこと。
が、認知度が高い、慣例的(、見つけやすい)という意見をもつ主な理由です。
他の方の意見も参考にさせて頂けたらと思います。--Lamenberg会話2015年10月31日 (土) 23:17 (UTC)[返信]
コメント
Lamenbergさん、ご丁寧なコメントありがとうございます。
今回私が『倶舎論』という略称を記事名としていることに問題点があると考えたのは、Wikipedia:記事名の付け方「記事名を付けるには」の「曖昧でない」という条件についてです。本記事の内容をみると下記のすべてを網羅しようとしている上、解りにくい構成になっていると思います。
  • サンスクリット本、ヴァスバンドゥ著『アビダルマ・コーシャ』の「カーリカー」(韻文)と「バーシャ」(長行釈)が発見されている。
  • 婆藪盤豆造 眞諦譯『阿毘達磨倶舍釋論』全22巻(大正蔵1559) - 真諦による長行釈(バーシャ)の漢訳、『阿毘達磨倶舍論』(『倶舎論』)の異訳として扱われ『倶舎釈論』と略称。
  • 世親造 玄奘譯『阿毘達磨倶舍論』全30巻(大正蔵1558) - 玄奘による長行釈(バーシャ)の漢訳、『倶舎論』と略称。
  • 世親造 玄奘譯『阿毘達磨倶舍論本頌』1巻(大正蔵1560) - 玄奘による韻文(カーリカー)の漢訳。
上記の内、『倶舎論』といえば、玄奘訳30巻本の『阿毘達磨倶舍論』の略称です。
冒頭部を、「『阿毘達磨倶舍論』(あびだまくしゃろん、梵: Abhidharma-kośa 〈アビダルマ・コーシャ〉)とは、世親の著した『アビダマ・コーシャ』(梵: Abhidharma-kośa 〈アビダルマ・コーシャ〉)を玄奘が漢訳したもの。全30巻。『倶舎論』と略称する。」と明確に定義してから、『倶舎釈論』や『阿毘達磨倶舍論本頌』について説明する形式が良いと考えます。
「認知度が高い」という点についてですが、信頼できる情報源の多くは、「『倶舎論』は『阿毘達磨倶舍論』の略称」のような断りを入れたうえで文中に用いていると思います。私論ですが「記事の内容を表すのに最も著名」というよりも字数を略するのが主とした目的であると考えます。ウィキペディアの記事名を略称にする必要性を感じません。文中に略称を用いることについては問題無いと考えます。
「見つけやすい」という点についてですが、リダイレクトの機能により“倶舎論”とグーグルなどで検索しても『阿毘達磨倶舍論』が検索結果に出るので問題は無いと思います。例を挙げると、“教行信証”と検索すると『顕浄土真実教行証文類』が検索結果として出ると思います。
また、サンスクリットの「Abhidharma-kośa」(アビダルマ・コーシャ)を音写したのが、「阿毘達磨倶舍」(論)ということについても言及する必要があると思います。冒頭部の「『倶舎論』(くしゃろん、梵: Abhidharma-kośa 〈アビダルマ・コーシャ〉)」では正確ではないため、その点についても問題があると感じます。--Resto1578会話) 2015年11月1日 (日) 06:32 (UTC)・(変更)--Resto1578会話2015年11月1日 (日) 10:34 (UTC)[返信]
反対 本項の導入部を特定の漢訳を主題として執筆するのは中立性の観点から反対です。それならカタカナ音写で『アビダルマ・コーシャ』とすべきでしょう。漢訳名である『阿毘達磨倶舍論』にする必然性がないどころか、玄奘訳を前提とした記述になってしまうので改名に反対します。--Ryo 625会話
コメント
Ryo 625さん、こんにちは。前回のコメントを書いているときに『アビダルマ・コーシャ』へ改名することも考えました。しかし、Lamenbergさんのご指摘である「認知度」を考えると『アビダルマ・コーシャ』への改名は適切ではないと考えます。
また『倶舎論』が記事名である限り、「中立的な観点」の方針に反しているとは考えません。あくまで『倶舎論』は、玄奘訳『阿毘達磨倶舍論』30巻本の略称であるため、玄奘訳の説明を中心にして構わないはずです。認知度の点からも、玄奘訳中心の説明で問題はないと考えます。
現状の『倶舎論』という記事が、世親『アビダルマ・コーシャ』と、世親造 玄奘 訳『阿毘達磨倶舍論』が混同して記述されていることに問題があると考えます。『倶舎論』という記事名のままにするのは反対します。
記事名を『阿毘達磨倶舎論』として、玄奘訳『阿毘達磨倶舍論』30巻本と『アビダルマ・コーシャ』の説明を冒頭部を上記のようにおこなうという提案は継続します。--Resto1578会話2015年11月1日 (日) 10:34 (UTC)[返信]
コメント
『倶舎論』がもっぱら玄奘訳『阿毘達磨倶舍論』の略称であるというResto1578さんの指摘には強い違和感を覚えます。『倶舎論』は『アビダルマ・コーシャ』への普遍的な漢訳語、略称として用いられているのであって[1]、玄奘訳だけを特に指すわけではないでしょう。
例として中国語版を引用します。「《阿毗達磨俱舍論》(梵文:Abhidharma-kośa),簡稱《俱舍論》,佛教論書,由印度世親所著。本論是其代表作之一,對說一切有部學說進行整理與改造,被推崇者稱為是佛法知識的寶庫,學習佛法的必讀之書。」中国語版は記事名を「阿毗達磨俱舍論」とし、略称を「俱舍論」としますが、この冒頭に玄奘など一言も出てこず、《倶舎論》は2回漢訳されたとして、やっと玄奘訳に触れます。「《俱舍論》曾二次譯為漢文:陳真諦的『阿毘達磨俱舍釋論』。唐玄奘的『阿毘達磨俱舍論』。」この記事は何か正確性を欠いているでしょうか?私は『アビダルマ・コーシャ』を『倶舎論』と略称するのに一々玄奘訳に触れなければならない理由はないと思います。
Resto1578さんが挙げられている「曖昧でない」という点は、すべて本文の記述の編集で済む話ではないでしょうか。記事に梵本、諸注釈をすべて列挙するのは仏典記事で一般に用いられているスタイルであり、分かりにくいとは到底思えません。記事名を無理やり玄奘訳『阿毘達磨倶舍論』30巻本と規定し、内容まで従わせる方がよほど混乱を招くでしょう--Ryo 625会話2015年11月1日 (日) 14:06 (UTC)[返信]
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阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)とは、世親が著した『アビダルマ・コーシャ』(: Abhidharma-kośa 〈アビダルマ・コーシャ〉)を玄奘が漢訳したもの。全30巻。大正蔵 毘曇部 Vol.29 No.1558。『倶舎論』と略称する。正式な原題は『阿毘達磨倶論』。異訳には真諦訳 『阿毘達磨倶舍釋論』(大正蔵 No.1559)があり、『倶舎釈論』と略称する<ref>日本大百科全書「倶舎論」</ref>
この表現で違和感がありますか……。私にはサンスクリット本『アビダルマ・コーシャ』についての専門書が無いため、その辺についてはよくわかりません。しかし『マイペディア』「倶舎論」では、訳者についての言及はありませんが「30巻」という記述が確認できます。『大辞泉』では「玄奘(げんじょう)訳は30巻。」とあります。(まあ、これらを合わせてしまうと「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」に該当してしまいますが……。)あとは、『日本大百科全書』「倶舎論」では、「異訳としては『倶舎論(しゃくろん)』(真諦(しんだい)訳)」と異訳についての言及があります。
あと確認ですが、ウィキペディア中国語版『阿毗達磨俱舍論』には出典が明記されているのでしょうか?出典がなければ参考(資料)として不適切かと存じます。「外部連結」に「CBETA電子佛典《阿毘達磨俱舍論》」が掲載されていますが、その内容は大正蔵No.1558『阿毘達磨倶舍論』です。
またRyo 625さんは、桜部建らの著書に出てくる『倶舎論』について、玄奘訳『阿毘達磨倶舍論』を前提で書かれているとは考えないと受け取ってもよいでしょうか?(もしかしたら、「『倶舎論』=玄奘訳」ということは、私の思い込みなのかもしれないので。)
コメント 他の作業もしていたので少し疲れました。失礼ながら少しの間クールダウンして、他の編集者からのコメントを待ちたいと思います。--Resto1578会話) 2015年11月1日 (日) 15:27 (UTC)・(草案を取り下げ)--Resto1578会話2015年11月17日 (火) 13:57 (UTC)[返信]
コメント
  • 『日本大百科全書』のスタイルで記事を執筆するなら、本記事を『アビダルマ・コーシャ』と改名し、新たに玄奘訳を主題とした記事を執筆されてはどうでしょうか?梵本が発見されており、蔵訳も存在し、なおかつ『般若心経』にように玄奘漢訳がそのまま普及しているわけでもない状況で、なぜ玄奘訳に特化した記述にしなければならないのか、納得できかねます。
  • 中国語版が出典となるのではなく、中国語版の記述は正確性を欠いていますか?そうであるならば具体的にどこですか?ということです。
  • 『倶舎論』はアビダルマ・コーシャの略称として使われていると思います。またサンスクリット原典が見つかっているのに、玄奘による「翻訳」をもとに研究しているのだとしたら倒錯ではなかな、とも思います。(伝統宗派に向けて書いているなら理由にはなりますが)
コメント お疲れさまです。より良い記事になるよう、参加者が増えることを願います--Ryo 625会話2015年11月3日 (火) 11:09 (UTC)[返信]
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建設的な議論ありがとうございます。
まずはRyo 625さんにお願いです。編集の際に参照した出典を明記してください。
コメント 『岩波仏教辞典』P.250「『倶舎論』」に「研究には玄奘訳がもちいられる.」という説明があります。また、三枝充悳『世親』(講談社学術文庫)、2004年(底本は『ヴァスバンドゥ』講談社、1983年。)。P.157 著作の概観 > 「A 小乗論書 (1)玄奘訳『阿毘達磨倶舎論』三十巻(Abhidharmakośabhāṣya)(真諦訳『阿毘達磨倶舎論釈論』二十二巻。サンスクリット原本およびチベット訳あり)ヴァスバンドゥが小乗時代に描いた作品。内容等については本書P.90を参照のこと」とあり、玄奘訳を中心とした記述となっています。よって倒錯ではないと考えます。
『日本大百科全書』「倶舎論」でも「詳しくは『阿毘達磨倶舎論』という。(略)原名はアビダルマコーシャ Abhidharmakośa」と「原名は」と注釈を加えています。「アビダルマ・コーシャ、(略)『倶舎論』と一般に呼ばれる。」では問題があると思います。
コメント ウィキペディア中国語版『阿毗達磨俱舍論』については、出典が無いのであればウィキペディア日本語版にとって不適切な参照先であり、内容の是非以前の問題と認識いたします。--Resto1578会話2015年11月3日 (火) 14:16 (UTC)[返信]
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返答ありがとうございます。「研究には玄奘訳がもちいられる.」とあるのですが、サンスクリット本ではなく漢訳を主にして研究するということでしょうか?たとえば新約聖書をギリシャ語原典ではなくラテン語訳をもとにして研究するというようにでしょうか??『世親』(講談社学術文庫)は今手元にないのですが、唯識仏典の和訳が載せられていて、横山紘一三枝充悳両氏のいずれも世親『倶舎論』の研究者ではなかったのではないですか。これを以って『倶舎論』研究を論ずるのは難しいのではないですか。
すみません『日本大百科全書』に対してResto1578さんの執筆案と混同していました。「原名は」、「異訳としては」とありますが、著者は世親(中略)成立は4、5世紀。」とあるばかりで、玄奘が訳したとか何巻等の記述は一切なく、曖昧な記述にしていますね。--Ryo 625会話2015年11月3日 (火) 19:37 (UTC)[返信]
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『倶舎論』が通称として用いられるのかですが、論文を参考に挙げてみます(以下、引用文中の下線は引用者による)
(1) "ヴァーツヤーヤナ、ウッディヨータカラと世親の『唯識二十論』『倶舎論』(上)" (森山清徹)- サンスクリット原文を用いた研究だが、タイトルに『唯識二十論』、『倶舎論』、抄録に「世親の『倶舎論』(AKBh.)」など玄奘に言及することなく既存の漢訳語を用いている。「略号」にPradhanによるサンスクリット本をAKBhとするも、漢訳に言及なし。
(2) "dharmaの固有性と変化(不善から善へ) : 『倶舎論』および『アビダルマディーパ』では"(飯岡祐保) - タイトルに『倶舎論』を用いるも、本文中ではAKBhで統一。参考書にはPradhanによるサンスクリット本のみで、漢訳に言及なし。
(3) "説一切有部における「アビダルマ」 : 『大毘婆沙論』と『倶舎論』 "(齋藤滋)- 『大毘婆沙論』や『倶舎論』を用いたアビダルマ研究。
冒頭に
『阿毘達磨大毘婆沙論』( 『大毘婆沙論』)と『阿毘達磨倶舎論』(『倶舎論』)をもとに,説一切有部の「アビダルマ」を明らかにする.
とあり、アビダルマコーシャを『阿毘達磨倶舎論』もしくは『倶舎論』と呼称している。
『大毘婆沙論』、『雜阿毘曇心論』は漢訳、『倶舎論』はPradhanのサンスクリット本を用いている。
indriyaに触れて『倶舎論』の諸訳をあげるときに玄奘訳に言及する:
しかしながら,『倶舎論』には,「根(indriya)」という語が存在していない.『倶舎論』の玄奘訳や真諦訳,そして,チベット訳にも,「根(indriya)」に対応する語は存在していない
(「『倶舎論』の玄奘訳や真諦訳」とあるように、『倶舎論』をサンスクリット原典の「AKBh」一般と捉えている。)--Ryo 625会話2015年11月3日 (火) 21:19 (UTC)[返信]
コメント
 私には、Ryo 625さんの2015年11月3日 21:19のコメントについて趣旨が解りかねています。
森山清徹、飯岡祐保の論文では、Abhidharma-kośa-bhāṣyaをAKBh.と略称することの出典でしかありません。齋藤滋の論文を含めて、アビダルマ・コーシャを『阿毘達磨倶舎論』もしくは『倶舎論』と呼称することの出典にはなりますが、アビダルマ・コーシャ=『倶舎論』とする出典にはなりません。
そこで、『阿毘達磨倶舍論』と誰が音写したのかが問題になると思います。当前のことですがヴァスバンドゥではありません。最初の漢訳者である真諦が「『阿毘達磨倶舍釋論』 婆藪盤豆造」(大正蔵 No.1559 参照)とアビダルマ・コーシャを音写して題したと考えて問題はないと思います。続いて漢訳した玄奘は「『阿毘達磨倶舍論』 尊者世親造」(大正蔵 No.1558 参照)と題して漢訳しています。つまり、『倶舎論』の語源は漢訳本にあります。
 Ryo 625さんの説明で『倶舎論』という略語が、「アビダルマ・コーシャ・バーシャ」を指す略語としても用いられていることは確認できました。また、漢訳の『阿毘達磨倶舍論』の略称としても古来から『倶舎論』は用いられています。このことは、Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるにはの「曖昧でない」について、『倶舎論』という記事名が適切ではないことの証明になっています。
また、記事名について専門的な論文を出典とするのは問題があると考えます。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアはマニュアル、ガイドブック、教科書、学術雑誌ではありません「7.科学学術雑誌や学術論文」に「記事名には専門用語ではなく一般的な用語を使用するべきです。」とあります。「アビダルマ・コーシャ・バーシャ」は、記事名としては専門的であるため相応しくないと考えます。『阿毘達磨倶舎論』は、『ブリタニカ国際大百科事典』の小項目名として用いられているので問題ないと考えます。--Resto1578会話2015年11月5日 (木) 10:29 (UTC)[返信]
コメント
えー、あの、それは論文を出典にしてはいけない、ということではなく、読者に専門的な知識を必要とする記述を避けるべきということですよね。--Ryo 625会話2015年11月8日 (日) 03:23 (UTC)[返信]
コメント
記事名には専門用語ではなく一般的な用語を使用するべきです。(略)」ということです。導入部はなるべく平易な文章にすべきとは思いますが、学術論文を出典として「専門的な知識を必要とする記述を避けるべき」という意味ではありません。リンクを付したり、脚注で補足説明などをすればよいと考えます。「ABKh.」の略語などは導入部に掲載すべきだと思います。--Resto1578会話2015年11月8日 (日) 10:07 (UTC)[返信]

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私は「倶舎論」は梵本、諸訳それぞれを表す総称として用いられていると思います。Lamenbergさんの論点(1)です。それが問題ある記述だとも思いません。
そして『ブリタニカ国際大百科事典』を出典に『阿毘達磨倶舎論』をタイトルとして可能とするResto1578さんの指摘は問題含みだと思います。
なぜなら『ブリタニカ国際大百科事典』の記述は
阿毘達磨倶舎論
あびだつまくしゃろん
Abhidharmakośa
として玄奘訳に比定していないからです。(本文の記述もそのようになっています
これを、『ブリタニカ国際大百科事典』を出典にして『阿毘達磨倶舎論』はタイトルとして可。ただし、その指示内容は自分の見解によって、「玄奘訳30巻本」とする、というのは一貫性を欠いた断章取義ではないかと思います。--Ryo 625会話2015年11月8日 (日) 11:30 (UTC)[返信]
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仕事が忙しく、議論を放置してしまい申し訳ありません。
私としては、まずは改名について議論をしたいと思います。
提案者自らが話題を混乱させてしまいましたが、内容については別に議論すべきと考えております。--Resto1578会話2015年11月12日 (木) 14:28 (UTC)[返信]
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導入部が以下のような記述であれば、Ryo 625さんから改名についての合意を得ることが出来るでしょうか?
阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)とは、世親を作者とするアビダルマ教学の綱要書である。サンスクリット本の題名は『Abhidharma-kośa-bhāṣya』(アビダルマ・コーシャ・バーシャ)。真諦玄奘によって漢訳される。『倶舎論』と略称する。
上記は導入部の草案です。下線部については出典を明記した上で補足・修正すべきと思います。また、導入部の内容については本節とは別に議論すべきと考えます。
まずは、改名についての議論のみを行いたいと思います。--Resto1578会話2015年11月17日 (火) 13:57 (UTC)[返信]

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コメント

確認をさせて下さい。もとの提案は、記事名を変えることに伴って、今後、本記事に玄奘訳の本体である世親作「アビダルマ・コーシャ(・バーシャ)」、その真諦訳、チベット語訳等を(1)含めていく提案でしょうか、(2)それとも含めない提案でしょうか。いずれでしょうか。

(1)の場合は、それを明言頂きたいと思います。このコメントは、単なる確認だと思って下さい。

(2)の場合は、もとの提案はそもそも改名の提案ではないのではないかと考えます。

私が最初に10月31日にコメントを書いた際には、記事の対象は変更せず記事名だけを変えるという(1)の意味での改名提案だと考えていました。今は、その後のやりとりから、本当にもとの提案がそうだったのかどうかが曖昧になっています。Ryo 625さんが11月3日に「なぜ玄奘訳に特化した記述にしなければならないのか、納得できかねます」とコメントされた以後に、内容を特化する意図はないという反論はされておりません。今回の改名の提案によって、時間がたつにつれて、玄奘訳以外のことを書きにくい・書いてはいけない風になり、形式的には単純に名前を変える改名提案であったものが、その枠を超えて結局は記事の内容に影響を及ぼし、縛っていくことになるのではないかと心配です。

今回のコメントは、原提案者のResto1578さんの、阿毘達磨倶舎論という名前でないと曖昧になるという意見や、Ryo 625さんの、アビダルマ・コーシャ(・バーシャ)への改名に関する意見を否定するものではありません。原提案者より、「内容については別に議論すべき」であり「まずは改名について議論をしたい」とのコメントを頂いていますが、尚更、それで議論を進めていくためには、現在の改名提案が、記事の対象・内容を変更しない改名提案であり、その前提で議論をしているものだということをクリアにすることが必要になると考えます。--Lamenberg会話2015年11月18日 (水) 14:03 (UTC)[返信]

コメント Lamenbergさん、コメントありがとうございます。
まず回答から。私のLamenbergさんのコメントの受けとり方が間違っていなければ「(1)」です。当初は私の所有する書籍から玄奘訳を主として記述すべきと考えましたが、Ryo 625さんのご指摘によりサンスクリット本の略称としても『倶舎論』は用いられていると確認できたため、併記すべきと考えを改めました。
私はとしては、導入部の内容について以下の事柄を入れるべきと考えております。
1. 著者がヴァスバンドゥ(vasubandhu、世親)であること。 - 単に「世親」でもよいとは思いますが、桜部健訳「存在の分析」ではヴァスバンドゥ(vasubandhu)としていたため。
2. インドの仏教論書であること。(出典:日本大百科全書) - 「アビダルマ教学」はグーグル・NDL-OPACで検索しても西村実則の著作に用いられている語で一般的とはいえないため、2015年3月5日以前の表記に戻した方がよいと思います。
3. サンスクリット原本名は『Abhidharma-kośa〈-bhāṣya〉』(アビダルマ・コーシャ〈・バーシャ〉)であること。 - 私としては「バーシャ」を入れた方が良いと思います。その際は「<ref>単に『Abhidharma-kośa』(アビダルマ・コーシャ)と呼称されることもある。</ref>」と脚注を入れた方が良いと思います。
4. 真諦訳『阿毘達磨倶舍釋論』と玄奘訳『阿毘達磨倶舍論』の2つの漢訳があること。真諦訳は異訳として扱われること。
5. チベット語訳があること。
6. 略称については、サンスクリット本と玄奘訳は『倶舎論』、真諦訳は『倶舎釈論』と略称されること。導入部では難しいかもしれませんが、「ABKh.」の略語についても言及すべきと思います。
7. 音写についての解説は、564年に訳された真諦訳に基づいて言及すべきかと思います。玄奘訳に基づくと時系列が逆転してしまいます。もしくは単に「アビダルマは「阿毘達磨」(あびだつま)、コーシャは「倶舎」(くしゃ)と音写された。」と記述するべきかと思います。
8. 大正蔵の表記は「舎」ではなく「」が用いられているため、「漢訳の正式な原題表記は『阿毘達磨倶論』(『阿毘達磨倶釋論』)である。」と補足説明すること。
9. 「あびだつまくしゃろん」と読むことについても導入部で説明をした方がよいかと思います。
10. 中立的な観点に沿った記述にするため、「『阿毘逹磨倶舎論』(梵: Abhidharma-kośa-bhāṣya 〈アビダルマ・コーシャ・バーシャ〉」ではなく、「『阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)とは、ヴァスバンドゥ(vasubandhu、世親)を作者とするインドの仏教論書である。サンスクリット本の題名は『Abhidharma-kośa-bhāṣya』(アビダルマ・コーシャ・バーシャ)。漢訳は……。」とサンスクリット本を()から外に出して説明すべきと考えます。
(11.) 導入部もしくは導入部以外で、「研究には玄奘訳がもちいられる<ref>『岩波仏教辞典』P.250「『倶舎論』」</ref><ref>小原仁『源信』P.72 第三章 学窓の日々「倶舎をきわめる」</ref>。サンスクリット原典が発見されてからは、漢訳に依らない原典からの研究もおこなわれている。」という説明をすること。
【参考文献】
  • 『岩波仏教辞典』 岩波書店、2002年10月、第二版、P.250「『倶舎論』」。
  • 『百科事典マイペディア』 - 「正しくは阿毘達磨(あびだつま)倶舎論。」
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』 - 「詳しくは『阿毘達磨(あびだつま)倶舎論』という。」
  • 『ブリタニカ国際大百科事典』 - 阿毘達磨倶舎論が項目名
  • 三枝充悳『世親』(講談社学術文庫)、2004年(底本は『ヴァスバンドゥ』講談社、1983年。)、P.157「著作の概観」。
  • 『世界の名著 2 大乗仏典』桜部健訳「存在の分析」(『倶舎論』第一章・第二章)、中央公論社、1967年。 - P.330「一 本書の原題はAbhidharma-kośa(『アビダルマの庫』の意)と言い(略)ヴァスバンドゥVasubandu(世親または天親)の書である、(略)二漢訳があり、ふつう『倶舎論』の名で知られている。」
  • 小原仁『源信 - 往生極楽の教行は濁世末代の目足』ミネルヴァ書房、2006年、第三章 学窓の日々「倶舎をきわめる」 - P.72「『倶舎論』は五世紀のインドの仏教学者ヴァスバンドゥ(世親)の著した論書で、(略)玄奘(六〇二〜六六四)によって漢訳され、中国でも日本でも仏教教理学の入門書として重んじられた。」
以上、説明させていただきました。不明な点についてはまた質問してください。--Resto1578会話) 2015年11月18日 (水) 18:23 (UTC)・(修正)--Resto1578会話) 2015年11月19日 (木) 00:40 (UTC)・(修正)--Resto1578会話2015年11月26日 (木) 06:54 (UTC)[返信]
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Resto1578さん、コメントありがとうございます。(1)である確認をいただいたこと、また玄奘訳「阿毘達磨倶舎論」と世親作「アビダルマ・コーシャ(・バーシャ)」(サンスクリット本)とを「併記すべき」と位置づけるコメントをいただいたことで、今後の記事の範囲についての心配事はまずは解消されたかと受け止めています。
その前提で、改名に関しては、過去の議論から色々な考え方が出ている背景は何かと考えるに、記事本体についての捉え方、記事の認知度の範囲の捉え方、他の意見に対する許容度についての意見の多様性があるのかと思っています。このうち記事本体の捉え方については、諸々の書物がある中で主たるものとそうでないものがあるため主たるものを選定すべきという捉え方、倶舎論(本記事)は諸訳の総称である(という前提で正式な名称もしくは信頼できる情報源から代表名を選ぶ)という捉え方、日本語における認知度を加味して妥当なものを選ぶという捉え方などが挙げられています(皆さんのコメントを正しく理解できていればですが)。私は現段階では、書物としては様々なものがあるが玄奘訳他は「訳」なので中身としては世親作と一体であると捉えており、それをうまく表現できる言葉があればよいが特定の書物名であるべき・あるべきでないかは諸々の作品の併記が問題視されなくなった現在断面で再整理したい(保留)と思っています。
これはお願いになりますが、改名の議論がどのように決着しても、この記事に「倶舎論」 でのリダイレクトを作成してその名前での検索性を保持することには同意いただけますか。Ryo625さんは倶舎論が問題ある記述ではないとコメントされており、Resto1578さんも略称であることは了解されており、反対意見を持つ方はないと見られることからです。
記事名について、現在の主要論点は、
・「倶舎論」の名称は玄奘訳の略称でもあり世親作の略称でもあるため曖昧になることから記事名としては適切ではない。(Resto1578さん)
・「アビダルマ・コーシャ・バーシャ」は専門的であるため相応しくない。「アビダルマ・コーシャ」は認知度が高くない。(Resto1578さん)
・「阿毘達磨倶舎論」は原提案者が出典に挙げたブリタニカ国際大百科事典は玄奘訳に比定しておらず問題。漢訳を主として研究するとすることに疑問。(Ryo625さん)
・「倶舎論」が、信頼できる情報源において最も一般的に使われており認知度が高く慣例的であるとする私の記述に問題はない。(Ryo625さん)
であり、私が確認を挿入する直前の状態では、Resto1578さんは冒頭部の記述案を改めることで議論の方向を内容から改名に引き戻し、Ryo625さんから「阿毘達磨倶舎論」の名称とする合意を得ようとしている、ということでよかったですか。--Lamenberg会話2015年11月21日 (土) 04:11 (UTC)[返信]
コメント
改名の議論がどのように決着しても、この記事に「倶舎論」 でのリダイレクトを作成してその名前での検索性を保持することには同意いただけますか。」というコメントについて確認させてください。
リダイレクトページ「倶舎論」は残して欲しいということでよいのでしょうか?
Wikipedia:ページの改名」の手順通りに移動機能を使用して、倶舎論から阿毘達磨倶舎論へ改名すると、倶舎論はリダイレクトページとして残ります。また、「Wikipedia:リダイレクト」に「リダイレクトページを作っておくと、略称や別名や別の表記で記事を検索しても、実際に存在する記事へ自動的に転送されるようになります。」とあるように略称のリダイレクトページは必須と考えております。「Wikipedia:記事名の付け方#正式名称」にも「よく使われる略称、別名、別表記などは記事名に使うのではなく、正式な記事名へのリダイレクト(転送)ページにしましょう。」とあります。
主要論点についてへのコメント
  • 『倶舎論』の名称は、「世親造 玄奘訳『阿毘達磨倶舍論』」の略称でもあり、「ヴァスバンドゥ著『アビダルマ・コーシャ・バーシャ』」の略称でもあるため、「Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるには」の「曖昧でない」の条件に反した記事名であると考えております。『アビダルマ・コーシャ・バーシャ』の作者を厳密に表記するのであれば、玄奘訳以降定着した「世親」ではなく「ヴァスバンドゥ」(世親)とした方がよいかと思います。
  • 「アビダルマ・コーシャ」は認知度が高くない。」とはコメントしていないと思うのですが。私が出典として用いた書籍で、「正しくは(詳しくは)阿毘達磨倶舎論」、「本書の原題は『アビダルマ・コーシャ・バーシャ』……」と記述されていることは確認できています。
最後の質問については、少し返答に困りますが、私としては方向性を改名提案に絞りたかったのが理由です。導入部について質問をいただいたので私の考えを述べさせていただきました。--Resto1578会話2015年11月21日 (土) 11:07 (UTC)[返信]

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コメント

・前回コメント確認事項について、今回の提案の合意形成の結果によらず「倶舎論」の名のリダイレクトページ作成の合意のお願いでした。「必須」というコメントから合意を含んでいると受け止めます。

・主要論点へのコメントについて、

「「アビダルマ・コーシャ」は認知度が高くない」は、Ryo625さんの「特定の漢訳を主題として執筆するのは中立性の観点から反対」とのコメントに対する11月1日のResto1578さんの「前回のコメントを書いているときに『アビダルマ・コーシャ』へ改名することも考えました。しかし、Lamenbergさんのご指摘である「認知度」を考えると『アビダルマ・コーシャ』への改名は適切ではないと考えます。」とのコメントから、「アビダルマ・コーシャ」への改名に対してはResto1578さんは認知度を理由にして反対されていると捉えたことから、上記コメントに要約した次第です。要約が不適切であれば改めて頂いて構いません。

「少し返答に困」るとされた箇所は、「冒頭部の記述案を改めることで議論の方向を内容から改名に引き戻し、Ryo625さんから「阿毘達磨倶舎論」の名称とする合意を得ようとしている、ということでよかったですか。」との私のコメントを指していると受け止めます。これは11月17日のResto1578さんの「導入部が以下のような記述であれば、Ryo 625さんから改名についての合意を得ることが出来るでしょうか?」以下のコメントを受けたものですが、誤っていれば改めて頂いて大丈夫です。

・方向性を改名提案に絞ることが導入部(冒頭部)の記述案と不可分に結びついているというお考えだったかもしれないと、コメントを読み直しました。提案者でもない立場から、現状を整理する試みが誤っていたのかもしれません。--Lamenberg会話2015年11月25日 (水) 15:15 (UTC)[返信]

改名提案/導入部の原案

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コメント 上記のご指摘を踏まえた上で、記事名を 阿毘達磨倶舎論 へ改名する際にともなう導入部の原案を提出します。
導入部原案
阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)は、ヴァスバンドゥ(世親)を作者とするインドの仏教論書である[3 1]。4〜5世紀頃の成立[3 2]サンスクリット本の題名は『Abhidharma-kośa-bhāṣya[3 3]』(アビダルマ・コーシャ・バーシャ)[3 4][3 5]。漢訳の際にアビダルマは「阿毘達磨」(あびだつま)、コーシャは「倶舎」(くしゃ)と音写された。
説一切有部の論蔵の1つである『阿毘達磨発智論』と、その注釈書『阿毘達磨大毘婆沙論』の内容を説明している[3 6]説一切有部の教理の行きすぎた点を経量部の立場より批判した点に特色がある[3 6][3 7]。漢訳とチベット訳があり、漢訳本は真諦による『阿毘達磨倶舍釋論』22巻[3 8]と、玄奘による『阿毘達磨倶舍論』30巻[3 9]である[3 6]。サンスクリット本と玄奘訳は『倶舎論』と略称され、真諦訳は『倶舎釈論』と略称される[3 1]。なお、漢訳本の正式な原題表記は『阿毘達磨倶論』・『阿毘達磨倶釋論』である[3 10]
研究には玄奘訳がもちいられる[3 6][3 11]。サンスクリット本が発見されてからは、漢訳に依らない原典からの研究もおこなわれている。

脚注(草案3)

  1. ^ a b 『日本大百科全書』(コトバンク)
  2. ^ 『ブリタニカ国際大百科事典』(コトバンク)
  3. ^ Abhidharma-kośa-bhāṣyaを略してAKBh.と表記することも。
  4. ^ 岩本裕『日本佛教語辞典』平凡社、1988年。P.205「倶舎論」
  5. ^ 単に『Abhidharma-kośa』(アビダルマ・コーシャ)と呼称することも。
  6. ^ a b c d 『岩波仏教辞典』P.250「『倶舎論』」
  7. ^ 三枝充悳『世親』P.157「著作の概観」
  8. ^ 婆藪盤豆造 眞諦譯 『阿毘達磨倶舍釋論』(『大正藏』毘曇部 Vol.29 No.1559)
  9. ^ 世親造 玄奘譯 『阿毘達磨倶舍論』(『大正藏』毘曇部 Vol.29 No.1558)
  10. ^ 「舎」ではなく「舍」が正式表記である。
  11. ^ 小原仁『源信』P.72 第三章 学窓の日々「倶舎をきわめる」
この改名提案と導入部の原案について反対意見がある場合はコメントしてください。できることなら数字付の箇条書きなど議論が行いやすいようにコメントしてください。
本改名提案に賛成の方は署名付き賛成票「 {{賛成}}--~~~~ 」を記入してください。--Resto1578会話) 2015年11月26日 (木) 02:35 (UTC)・(修正)--Resto1578会話2015年11月26日 (木) 06:54 (UTC)[返信]
報告
上記導入部の原案は、出典を明記した記述であるため本文に反映しました。--Resto1578会話2015年11月27日 (金) 22:05 (UTC)[返信]
コメント 合意形成について
⇒導入部を上記のように編集したため、『阿毘達磨倶舎論』=「玄奘訳30巻本」とはいえない記述と考えます。
2015年11月8日以降、Ryo 625さんからコメントがありませんが、合意形成できたものと考えてよろしいでしょうか?--Resto1578会話2015年11月27日 (金) 23:50 (UTC)[返信]
コメント
コメントが遅れてすみません。LamenbergさんとResto1578さんの会話が始まってから返答の機会を失ってしまいました。導入部の記述に問題を感じませんので、改名提案への反対は撤回いたします。--Ryo 625会話2015年11月28日 (土) 01:17 (UTC)[返信]
コメント
・会話ページにて合意形成の意見を求められたことからコメントいたします。提案については反対ではありません。認知度の観点などを挙げ尚早ではないかと書きましたが、今回の合意形成にあたり多様な一つの意見と扱って頂いて結構です。
・記事の対象や内容が特定のものに偏らなければ、記事名は一定の範囲内であればよいと思ったことが反対ではない理由です。より中立性を高める方向の議論であれば、倶舎論の倶舎としては悪くないのではないでしょうか。--Lamenberg会話2015年12月1日 (火) 14:49 (UTC)[返信]

まとめ

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報告

提案者であるResto1578、議論に参加してくださったLamenbergさんとRyo 625さんの三者間で合意形成することができました。

記事名を『倶舎論』から『阿毘達磨倶舎論』に改名しました。改名にともなう修正も実施済みです。

議論に参加してくださったお二方にお礼申し上げます。--Resto1578会話2015年12月1日 (火) 22:30 (UTC)[返信]

導入部について

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こんにちは。Tanaka0519です。議論しているのは表題の件だと思っており、議論を参照していなかったのですが、 どうやら、導入部の検討も並行して行っていたようで、その点について意見がありましたので、こちらで皆様のご意見を頂戴したく、伺わせていただきました。

要点は次の点です。

①先ず、『倶舎論』の記述が『大毘婆沙論』の内容を摂め、説明するという『岩波辞典』の記述が適切なものなのかについてです。 現在、この点については、様々な専門的な概説書には記されています(網羅的ではありませんが、櫻部先生の著作では毎度触れられています)、また最も詳細に述べた研究としては『木村泰賢全集四巻』の pp.213-272 がございます。そこでは大まかに内容を説明しますと、倶舎学の伝統では『倶舎論』が『大毘婆沙論』の綱要書であるとの理解が浸透しているが、そうではなく『雑心論』の構造に基づいて、世親が理長為宗の立場の基、著したものであると記載されております。 この研究は重要視され、以後、『倶舎論』の教義の分析は『大毘婆沙論』のどこと対応するのか、ではなく、他のどの思想と関連するのか、といった研究に進展しております。そして経部説のほとんどが、『瑜伽論』との対応関係が明らかになるといった成果が 挙げられています(wikiに出したクリッツァー論文等)。 また、『岩波辞典』以前の重要な辞書である『望月辞典』においては木村先生の記述と同様の記述であり『岩波辞典』のような記述とはなっておりません。また、梵本発見以後のアビダルマ研究においてもこの点は踏襲されております。そこで、『岩波辞典』に基づく『倶舎論』の内容についての説明を消去していただきたいと考えています。

②第二に、「玄奘訳は『倶舎論』と略称され[9]、真諦訳は『倶舎釈論』と略称される[1]。」を訂正したのは後の「テキスト」の項目について「従来、倶舎学の伝統においては玄奘訳が用いられた為に、玄奘訳に基づく『倶舎論』との呼称が浸透した。それとの区別を目的として真諦訳は『倶舎釈論』や『旧倶舎』や『旧訳』と呼称され、区別された[1]。」と挙げておきましたので、それに基づけば、編集前の形「従来の研究においては倶舎宗の伝統に基づき玄奘訳がもちいられてきたが[5][8]、サンスクリット本の発見以後は、それに基づく研究が一般的である。」で記述するのが適切ではないでしょうか。 研究には玄奘訳が用いられるとありますが、2000年以後のアビダルマ研究で、底本が梵本ではない研究は見つけることが出来ません。当時の研究は梵本刊行して間もなかったことに基づくものと思われます。この記述だけを見れば、今でも玄奘訳が研究の底本であるかのように見て取れますが、そういった誤解を招く表現はしかたのないものなのでしょうか。なお、Ciniiに記録される論文の記述は次のようになっております。http://ci.nii.ac.jp/search?q=%E3%80%8E%E5%80%B6%E8%88%8E%E8%AB%96%E3%80%8F&range=2&nrid=&year_from=2000&count=20&sortorder=1&type=1

③第三に、冒頭部の記述において諸訳があるとの記述、この点は以前に既に合意されたもののようですが、再度疑問を呈させていただきます。 「漢訳とチベット訳があり、漢訳本は真諦による『阿毘達磨倶舍釋論』22巻[7]と、玄奘による『阿毘達磨倶舍論』[8]30巻である[5]。サンスクリット本と玄奘訳は『倶舎論』と略称され[9]、真諦訳は『倶舎釈論』と略称される[1]。なお、漢訳本の正式な原題表記は『阿毘達磨倶舍論』・『阿毘達磨倶舍釋論』である[10]。」との記述は、 後のテキストの記述と概ね重複します。また、チベット訳がある、と述べるもそのタイトルは述べないのはおかしいですし、ウイグル語訳やモンゴル語訳は存在するのに触れられない等と問題もあります。 そこで、「玄奘訳の『阿毘逹磨倶舎論』を初め、漢訳やチベット語訳等、様々な訳が存在する。詳細は以下の「テキスト」を参照。」と訂正するのはどうでしょうか。

④略称としての『倶舎論』に関してですが、「サンスクリット本と玄奘訳は『倶舎論』と略称され[9]、真諦訳は『倶舎釈論』と略称される[1]。」とありますが、詳細は「テキスト」のほうに概説させていただきましたので、 「本書は倶舎宗の伝統に基づき、玄奘訳に基づいた『倶舎論』との略称で呼称される事が多い。」とするのはどうでしょうか。

⑤次に「なお、漢訳本の正式な原題表記は『阿毘達磨倶舍論』・『阿毘達磨倶舍釋論』である[10]。」とありますが、この点は冒頭に説明すべき内容でしょうか。この点を説明するのであれば寧ろ、bhāśyaが何故玄奘訳の表題に存在しないのか、あるいは存在しない点を述べる事のほうがよろしいのではないでしょうか。しかし、どちらにせよ、付随的な点であるので、「テキスト」に譲るのはどうでしょうか。

⑥テキストについて出典の不明記が付きましたが、どの点が不明記なのでしょうか。もしよろしければご意見お願いします。

以上の六点を一度、こちらで編集しましたら、上書き編集されましたので、一度、吟味していただきたく、投稿させていただきました。 どうぞ宜しくお願いします。--Tanaka0519会話2015年12月14日 (月) 12:13 (UTC)[返信]

すみません、以前、題名が検討されていた時のような、ノートページを参照せよとのアイコンがどのように表示できるのかわかりませんでした。もしよろしければ、どなかた、アイコンをお願いします。--Tanaka0519会話) 2015年12月14日 (月) 12:31 (UTC)・(修正)--Resto1578会話2015年12月14日 (月) 13:22 (UTC)[返信]

コメント
反対(1. について)
『岩波(仏教)辞典』に基づく『倶舎論』の内容についての説明を消去していただきたい」は、WP:NPOVの方針に反します。よって反対します。
条件付反対(条件:2. については、出典が明記されれば賛成に変更)
WP:VERIFYWP:NORの方針に則するため、「サンスクリット本の発見以後は、それに基づく研究が一般的である。」という内容が書かれた出典を明示する必要があります。
保留 (3. について)
上記#改名提案に関する議論の合意に関する事柄なため、別に節をたてて議論すべき事柄と考えます。
反対(4. について)
上記#改名提案に関する議論の合意に関する事柄。
反対(5. について)
」ではなく「」が正式表記であることの説明であり、冒頭部に置くべきと考えます。『大正新脩大蔵経』でも用いられている表記であるため説明すべきと考えます。
コメント コメント(6. について)
テキスト」節については、差し戻す際のミスです。「構成節」については「本論は598偈(漢訳608偈)の『本頌』と、(略)は存在しない。」以外に出典が明記されていません。
以上です。まずは、他の方のコメントされるのを待ちたいと思います。--Resto1578会話2015年12月14日 (月) 16:00 (UTC)[返信]
コメント
コメント 1. について
出典のついた記述を除去する、というのはウィキペディアのルールに反するのではないでしょうか。『雑心論』に基づくという説など様々な見解が存在するという記述が望ましいと考えます。
賛成(2について)
「研究には玄奘訳がもちいられる」というのが宗門の教学についてなのか、学術的研究についてなのか判然としないので、現状の記述は問題があると思います。
賛成(3について)
内容としては重複しており、導入部としては煩雑なのでその案に賛成します。
コメント 4について
倶舎宗に基づいてそうなったという出典があるのでしょうか。
賛成(5について)
現状の導入部として、より記述が一貫したものになると思うので賛成します。導入部で(蔵訳本のタイトルすらないのに)漢訳本の詳細について特に詳しく述べる必要を感じません。--Ryo 625会話2015年12月16日 (水) 18:52 (UTC)[返信]

一部テンプレート削除についての提案

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  • 記事の節「六因節」において、「一次資料に頼っている」旨のテンプレートが貼り付けられていますが、現在の記事では、一次資料を挙げた箇所はすべて二次資料の出典がカバーされるよう改善されたため、このテンプレートを削除してもよいと考えますがいかがでしょうか。
  • 記事の節「内容」において。「参考文献や出典が全く示されていいないか、不十分」 の旨のテンプレートが貼り付けられていますが、現在は同節の記事に相当程度出典が示されるように改善され、「参考文献や出典が全く示されていいないか、不十分」といった状態ではないと思われるため、このテンプレートを削除してもよいと考えますがいかがでしょうか。--Lamenberg会話2016年2月28日 (日) 01:32 (UTC)[返信]
特段のコメント見られないようですので、上記2つのテンプレートを削除したいと思います。--Lamenberg会話2016年3月10日 (木) 12:28 (UTC)[返信]