利用者‐会話:Tanaka0519
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こんにちは、Tanaka0519さん。はじめまして! ウィキペディア日本語版へようこそ!
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ご注意
[編集]ご注意
吹田先生は、当代随一の教育者にして学者であることは、関西圏の学徒ならばだしも知っていることです。平岡聡、山極伸之などは吹田先生からサンスクリットを学び、薫陶を受けた学者です。
また吹田先生が、自ら常勤教員の道を他の方に譲ったことも事実であり、これを先生ご本人から聞いてる人は私だけではありません。
嘘だと思うのでしたら、どうぞ吹田先生の講演会などに出席されまして、その折に直接お聞きください。確認していただけると思います。
あなたがどのような理由で吹田先生を貶めているのか解りませんが、先生を貶める行為はやめていただきたい。
これ以上編集作業の妨害をするならば、他者からの再編集を受け付けない媒体や、yourpediaやその他のサイトを用いなければなりません。その際には、今回のあなたの行いも併せて併記させていただきたいと思います。しかし、私としてはwikipediaにて先生の素晴らしい業績を世界に知っていただきたいと思います。——以上の署名の無いコメントは、Amitayus1955(ノート・履歴)さんが 2015年11月6日 (金) 22:05 (UTC) ・2015年11月6日 (金) 22:22 (UTC) に投稿したものです。
- コメント
- こんにちは。先日、「会話」にてメッセージを頂きましたTanaka0519です。 この度は、ご連絡ありがとうございます。先ず、誤解のないように述べさせていただきたいのですが、私も現在吹田先生の学生の一人でして、 貴殿の仰せられるような「先生を貶める行為」等を目的として編纂をしているわけではありません。 自身は吹田先生の記事がより客観性の高くなることを願って編纂に携わらせていただきました。恐らく、貴殿は近しい先輩であると考えられますので、良ければ連絡を取り合わせていただき、 この記事がさらに良くなるように協力させていただければ幸いです。--Tanaka0519(会話) 2015年11月16日 (月) 03:16 (UTC)
出典が明記された記述を除去・改変しないでください
[編集]こんにちは。Tanaka0519さんは『阿毘達磨倶舎論』の記事において、出典が明記された記述の除去、および改変をされました。こうした編集は荒らし投稿とみなされます。
要約欄に「一部、修正されていた点を、根拠を伴って訂正しました。『岩波』の記述は婆沙の所説を「収めている」のであり「説明している」訳ではありません。また、発智はあまり触れません。」と記入されていましたが、そもそも私が『倶舎論』の導入部を変更するまで出典は明記されていません。また、導入部についてもノートページで議論が行われています。
『岩波仏教辞典』第二版「倶舎論」を出典とした記述についても「200巻の内容を巧みに収め,説明しているから,その名に恥じない.」とあり、「説明」の語が入ることに問題はありません。著作権の問題から「説明」のみとしました。「巧みに収め」は他の参考文献から補うべきと考えます。また「Wikipedia:中立的な観点」についてもご確認頂きたく存じます。--Resto1578(会話) 2015年12月3日 (木) 13:02 (UTC)
先ず、出典が明記されて記述を除去、改変すると、あらし投稿と看做される、とのご指摘を頂きましたが、リンク先を辿らせていただいたのですが、いまいち、どの記述のことかわかりませんでした。お手数をお掛けしますが、説明いただければありがたく存じます。また、ノートページにて議論がおこなれていましたが、議論が完了していたので、こちらで新たに記事を書き直させていただきました。記事内の点について議論した点はその決定で凍結保存される方針なのでしょうか。また、問題点を提起していただけましたら、私見を述べさせていただきます。
次に、倶舎論が毘婆沙論の内容を説明しているのかについては、出典を伴って問題がある旨を記載させていただきました。『岩波辞典』は簡単に理解する際には有益なのですが、専門的な記述の根拠に用いることはあまり推奨される書物ではないように思います。問題の詳細については当該の論考を参照してただけましたら幸いです。また、『大毘婆沙論』と『倶舎論』の関係性については自分も非常に興味があり、資料を集めさせていただいているのですが、『岩波辞典』のようにさも当然であるかのような記述は多く散見するのですが、何れも文献学的な根拠を伴ったものとは出会えませんでした。もし、『倶舎論』の記述が『発智論』ないし『大毘婆沙論』を説明しているものであるとの文献学的な根拠を伴った記述がございましたら、紹介していただけますと非常に助かります。どうぞ宜しくお願いします。
また、ウィキペディアの著作権の取り扱いですが、出典を明記しても抜粋が著作権的に違反するとの記述はどちらのほうにあるのでしょうか。また、どのように規定されているのでしょうか。調べてみたのですが、適切な記述を見つけることができませんでした。お手数ですが、どのようなものなのかご教示いただけましたらありがたく存じます。
また、ここで聞くことは不適切かもしれませんが、ボールド状態で斜体にする方法が自分にはわかりませんでした。現在、当該記事のテキストタイトルのサンスクリット表記が『』に入った珍妙な状態となっております。もしよろしければボールド斜体にして『』を取り除いていただけないでしょうか、あるいはその方法をご教示いただけませんでしょうか。
長々となりましたが、貴重なご意見をありがとうございました。こんごともどうぞ宜しくお願いします。--Tanaka0519(会話) 2015年12月10日 (木) 13:27 (UTC)
- 返信
- >「『岩波辞典』は簡単に理解する際には有益なのですが、専門的な記述の根拠に用いることはあまり推奨される書物ではないように思います。」
- ウィキペディアの方針「Wikipedia:中立的な観点」・「Wikipedia:検証可能性」・「Wikipedia:独自研究は載せない」を参照してください。
- Tanaka0519さんが『岩波仏教辞典』の記述に不満があっても岩波書店が誤記を認めた場合以外は、除去することはできません。(ノートページにて、該当する記述の除去について合意形成した場合は除きます。)「中立的な観点」の方針に準ずるため、『岩波』の記述に反論している書籍の内容を併記してください。
- 「説一切有部の論蔵の1つである『雑阿毘曇心論』の構造を踏襲し、有部の法相をまとめたものである<ref>この点については江戸時代の学僧である林常快道(1751-1810)が『阿毘逹磨倶舎論法義』において既に指摘している点であるが(Cf. 櫻部建[1996]『存在の分析』)、近年、田中教照(田中教照[1976]「修行道論より見た阿毘達磨論書の新古について」, 仏教研究 通号 5, 1976-03-31, 41-54,)によって再検証され、『大毘婆沙論』の綱要書と捉えるのは不適切であることが明らかとなっている。さらに近年では『甘露味論』との影響関係が吟味されている。Cf. 西村実測[2002]『アビダルマ教学』</ref>。」
- 2015年12月2日 (水) 13:49 (UTC)に加筆された上記の記述については、「『雑阿毘曇心論』の構造を踏襲し」とあり、『仏教の思想 2:存在の分析〈アビダルマ〉』角川ソフィア文庫、P.172-173の「(10)『アビダルマ・サーラ(?)』(四世紀末の漢訳『阿毘曇心論』としてのみ現存)は(略)」、同書P.185「『阿毘曇心論』以降はおおむねそのスタイルによっている。」の記述と一致しなかったため、除去したままにしてあります。また、内容についての記述を、構造についての記述に書き換えていることについても問題と考えております。
- また、櫻部建『存在の分析』1996年の参照ページをご教示いただけると大変助かります。
- >ウィキペディアの著作権の取り扱い
- 「著作権」、「Wikipedia:著作権」、「引用#日本法における著作物の引用」などを参照してください。
- 書体について
- 『Abhidharma-kośa-bhāṣya』(アビダルマ・コーシャ・バーシャ)を『アビダルマ・コーシャ・バーシャ』(梵: Abhidharma-kośa-bhāṣya)と変更しました。
- 「サンスクリット本の題名はAbhidharma-kośa-bhāṣya(アビダルマ・コーシャ・バーシャ)。」と論文表記にするよりも、『カタカナ表記』(ラテン文字転写)の方が閲覧者の理解を得やすい表現だと思いますがいかがでしょうか?
- 回答は以上です。--Resto1578(会話) 2015年12月14日 (月) 06:27 (UTC)
①まず、『岩波辞典』の記述を明確に挙げて非難している文献は見られません。それと同様に、『倶舎論』が『大毘婆沙論』の綱要書ではない、との記述に対する反論をしている文献もありません。そうなると、『岩波辞典』の記述が通説ではないことを述べようとすると、ノートベージにてこの点を議論する必要になるのでしょうか。 ②引用の件なのですが、自分が、「概要」にて、指摘している文献を挙げたつもりだったのですが、引用が間違っていた模様です。当該の林常の註釈は下記に挙げた『望仏』の記述が直接的な引用で、櫻部の引用は、そのことについて批判せず、踏襲している旨を表現しようとしたものでした(参照されているページであっています)。一部、記述に欠落があった模様です。見苦しくて申し訳ありません。 また、田中教照が挙げている『木村泰賢全集第四巻』pp.213-272にこの点についての明確が吟味があります。また、この説は現在、特に批判されている形跡はなく、田中等の研究者によっても踏襲されている模様です。 ③著作権の件、ありがとうございます。恐らく、訂正されたように、出典明記であれば抜粋でも構わないものと思われます。 ④表記の件ありがとうございます。その旨がいいと思います。 ⑤また、あらし投稿の件ですが、どのあたりが対応していたのでしょうか。申し訳ありません。 ⑥いくらか記述の点なのですが、冒頭をここまで加筆する必要があるのでしょうか。 ⑥−①まず、「説一切有部の教義は、カーティヤーヤニープトラ(迦多衍尼子)の『ジュニャーナプラスタナ・シャーストラ』(『阿毘達磨発智論』)[注 3]によって確立する[4]。この『発智論』を注釈した『マハー・ヴィバーシャー』(『大毘婆沙論』)[注 4]の厖大な内容を巧妙に収め説明している[5]。」とありますが、この点は『倶舎論』の記述において説明すべきことなのでしょうか。 ⑥−②次に「漢訳とチベット訳があり、漢訳本は真諦による『阿毘達磨倶舍釋論』22巻[7]と、玄奘による『阿毘達磨倶舍論』[8]30巻である[5]。」とは、後のテキストの概要と重複します。いらないのではないでしょうか。 ⑥−③次に、「玄奘訳は『倶舎論』と略称され[9]、真諦訳は『倶舎釈論』と略称される[1]。」を訂正したのは後の「テキスト」の項目について「従来、倶舎学の伝統においては玄奘訳が用いられた為に、玄奘訳に基づく『倶舎論』との呼称が浸透した。それとの区別を目的として真諦訳は『倶舎釈論』や『旧倶舎』や『旧訳』と呼称され、区別された[1]。」と挙げておきましたので、それに基づけば、先のように記述するのが適切ではないでしょうか。 ⑥―④研究には玄奘訳が用いられるとありますが、2000年以後のアビダルマ研究で、底本が梵本ではない研究は見つけることが出来ません。当時の研究は梵本刊行して間もなかったことに基づくものと思われます。この記述だけを見れば、今でも玄奘訳が研究の底本であるかのように見て取れますが、そういった誤解を招く表現はしかたのないものなのでしょうか。なお、Ciniiに記録される論文の記述は次のようになっております。http://ci.nii.ac.jp/search?q=%E3%80%8E%E5%80%B6%E8%88%8E%E8%AB%96%E3%80%8F&range=2&nrid=&year_from=2000&count=20&sortorder=1&type=1 ⑥−⑤テキストについて出典の不明記が付きましたが、どの点が不明記なのでしょうか。 すいませんがどうぞ宜しくお願いします。 --Tanaka0519(会話) 2015年12月14日 (月) 11:40 (UTC)
今思えば、この議論をノートで行えば、後に合意形成に移れるようですね!ノートページに記載させていただきます。
ご確認ください
[編集]- コメント
- 阿毘達磨倶舎論の記事の冒頭に「Template:告知」を貼り付けました。これであっているでしょうか?
- また、ウィキペディアでは「導入案」ではなく「導入部」と呼称するため、ノートページの記述の一部を修正しました。--Resto1578(会話) 2015年12月14日 (月) 13:25 (UTC)
「Template:出典の明記」の貼り付けについて
[編集]- コメント
- Tanaka0519さん、こんにちは。私はTanaka0519さんに対して敵対心は持っていません。誤解無きようにするためコメントいたします。
- 「Template:出典の明記」の貼り付けは、急激に文章量が増加した『阿毘達磨倶舎論』において、出典を付けて記述して欲しいと願ったまでです。「構成」節も箇条書きでなければ、「Template:要出典範囲」を使って範囲指定をしました。箇条書きに要出典範囲を貼り付けると煩わしくなるため「Template:出典の明記」を節の初めに貼り付けました。
- 「本論は598偈(漢訳608偈)の『本頌』と、その注釈である『釈』から構成されている。猶、破我品には『本頌』は存在しない。」については、Tanaka0519さんによって出典が明記されているため問題ありません。「恒常的な我性を認める人達に対する反論」には出典が明記されていません。
- 蛇足ではありますが、ガイドライン「Wikipedia:表記ガイド#仮名書き」に「尚」は用いずに「なお」とかな書きにするとあるので、「猶」も「なお」とすべきと思います。
- Tanaka0519さんのような『倶舎論』について専門的な知識をお持ちの方が、「界品は存在の種類」、「根品は存在現象の活動」、「界品・根品で基礎的範疇を説明し、(略)」という記述に、出典を明記した上でより読者が解りやすい文章にしてもらいたいというのが私の本意です。ご理解頂ければと存じます。--Resto1578(会話) 2015年12月15日 (火) 04:58 (UTC)
- ^ 『望月仏教辞典』p. 52, 『大蔵経全解説大辞典』 p. 428