ノート:側用人/削除
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初版は2004年4月29日12時45分(UTC)から 13時2分にかけて同一ユーザによって投稿された4つの記事のひとつです。奏者番、側用人、高家、留守居、がその4つですが、いずれもこちらの外部ページ[1]にあるそれぞれの説明文と、記述の内容についての取捨選択が似ているようです。また、この4つの記事が投稿された順番は外部サイトの説明の順序と同じで、最後の3つについては、外部サイトでも続けて説明されています。
ノート:奏者番に挙げた他のサイト2件も見てみましたが、いずれもこれらの主題の一部しか説明していないようでした。
とりあえず報告まで。Tomos 2004年7月27日 (火) 09:24 (UTC)
- Tomos さんが指摘された外部サイトでは、側用人の定員は1名、役高は1万石以上となっていますが、これが何に依拠したものか不明です。
- 百楽天さんが書いた初版が外部サイトに依拠したものであれば、「定員は1名、役高は1万石以上」も書いたはずです。
- 220.215.180.233 さんが加筆した「主な側用人」ではどの時代に側用人が何人いたかはわかりませんが、でここさんの「側用人一覧」に加筆した2004年8月16日 (月) 03:29の版での Reggaemanさんによる各年代によって、外部サイトの間違いがみえてきます。
- 貞享3年頃は、牧野備前守成貞を筆頭に、松平伊賀守忠周・喜多見若狭守重政・太田摂津守資直の4人が側用人でした。太田摂津守資直は側用人に就任してすぐに職を解かれましたが、元禄元年頃は、松平伊賀守忠周・喜多見若狭守重政・牧野伊予守忠貴・南部遠江守直政、柳沢出羽守保明が側用人でした。元禄2年には金森出雲守頼時・相馬弾正少弼昌胤・畠山民部大輔基玄が加わっています。計8名。松の廊下の刃傷事件や本所吉良邸討ち入り事件があった頃の話では柳沢ただ一人が側用人であったように書かれた本がほとんどですが、松平右京亮輝貞との2人体制でした。間部越前守詮房のときも次席側用人に本多中務大輔忠良がいました。側用人が1人もいなかった時代もあります。
- 上に書いたことは、江戸時代の研究者に確認をしてもらったものです。
- 初版を見ると、「側用人(そばようにん)は、江戸幕府の職名で、将軍の側近にいて、その命を老中に伝えた。貞享元年(1694)大老の堀田正俊が城内で暗殺されるという事件があってからは、側用人の権限が高まった。」ということしか書いていません。
- 「将軍の側近にいて、その命を老中に伝えた。」という部分と「貞享元年(1694)大老の堀田正俊が城内で暗殺されるという事件があってからは、側用人の権限が高まった。」は、外部サイトに酷似していますが、まったく同じではありません。ネット上で同じように書いてあるのはTomos さんが指摘されたもののほか[2]くらいですが、江戸幕府役職について書いた書籍の「側用人」の項では同じように書いたものがいくつかあるそうです。したがって、歴史的事実の羅列とみてよい。つまり著作権侵害とはならないということです。Sagami 2004年9月23日 (木) 04:34 (UTC)