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ノート:八路軍

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日本軍の損害

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編集合戦になっている「日本軍の全戦死者数」の部分ですが、日本軍や政府の統計なら”支那事変に於ける全戦死者数”として発表されている数字の筈ですし、歴史研究者が自ら調査して出した数字なら”日中戦争に於ける全戦死者数”かも知れません。加筆者は当該部分を”支那事変”としています。それを”日中戦争”に書き換えてよいという根拠は何ですか?中国側の記事だから「”日中戦争”で統一」などというルールはありませんし、そういう規制はするべきではありません。軽率な書き換えはやめるべきです。--uaa 2008年11月9日 (日) 08:02 (UTC)[返信]

なるほど。では加筆した方に来ていただき、出典を教えていただくしかありませんね。私には出典を特定できませんので(執筆者が出典を特に明記していない場合、他者がそれを特定するのは非常に困難でしょう)。個人的には出典がどうであれ、文意や要旨が変わらなければ用語の書き換えに特に問題はないと考えております。当該部分を「支那事変」から「日中戦争」に書き換えることによって、文意や要旨が変わるとお考えなのでしょうか? それとも別の意味で問題があるとお考えなのでしょうか? 具体的にお教えいただければ幸いです。また、あなたの主張を読んでいると、基本的に「支那事変」から「日中戦争」への書き換えは不可(もしくは非常に高いハードルを設けている)、というふうに感じられてしまうのですが、どういう場合には書き換えが可だと考えておられるのでしょうか? 合わせてお教えいただければ幸いです。--210.138.182.133 2008年11月9日 (日) 16:50 (UTC)[返信]
前から再三言っていますが、「支那事変」と「日中戦争」は完全にイコールではありません。実際はそうかも知れませんが、支那事変を昭和12年から昭和14年若しくは16年までと考え、そのような文脈で使われている場合も多く見られます。故に、加筆者や出典資料の執筆者の意図を考えずに安直に書き換えるべきではないのです。「非常に高いハードルを設けている」と仰いますが、完全にイコールと言えない以上機械的な書き換えは許されないと考えます。最近のあなたの書き換えは私以外の方とも摩擦を起こしていますが、勝手な判断で書き換えを強行し、執拗に差し戻しを繰り返す行為は荒らしとも見られます。
そもそも、私には書き換えの必要性が理解できません。逆に、文意や要旨が変わらないとお考えなら書き換える必要もないでしょう。出典に「支那事変」とあるものをわざわざ書き換えたり、そのために執筆者に確認するほど「日中戦争」に価値があるとも思えません。
併記は一つでもいいかもしれませんが、本文中の表記は執筆者の表現を尊重するべきです。--uaa 2008年11月9日 (日) 19:56 (UTC)[返信]
こちらも前に書いたことですが、「支那事変」という呼称が戦後になって忌避され「日中戦争」と言い換えられたのです。よって両者は基本的に同じものを指しており、昭和12年(1937年)から16年(1941年)の太平洋戦争勃発までを指しているのも同様です。また、これも前に書いたことの繰り返しになってしまいますが、①接続性(事象の説明は「日中戦争」に記述してある)、②一般性・普及性(「日中戦争」のほうがずっと高い)の2点から書き換えはむしろ推奨されるべきことだと考えます。「加筆者や出典資料の執筆者の意図」と仰りますが、そもそも出典がわからない(確認できない)のですし、加筆者(執筆者)の意図もご本人が説明しない限りわかりません。執筆者同士の関係は対等なのですから、最初の執筆者の記述を無条件に優先し、後からの書き換えを絶対不可とするのはいかがなものでしょうか?--210.138.182.133 2008年11月11日 (火) 17:02 (UTC)[返信]

”「支那事変」という呼称が戦後になって忌避され「日中戦争」と言い換えられた。”ということも①②も表記を統一させなければならない理由になってませんね。広範囲に渡る書き換えであり、私以外の方とも編集合戦になっているので、しかるべき所で合意を得るべきです。”執筆者同士の関係は対等なのですから、”間違ったことを書いていない以上あなたに検閲する権利はありません。というか、間違った記述になるような書き換えは荒らしです。今後も他の記事について合意無くこのような書き換えをなさるのなら、荒らしと見なさざるを得ません。--uaa 2008年11月11日 (火) 20:39 (UTC)[返信]

あなた以外の方との編集合戦云々は、本件とは別の理由によるものですので関係ありません。
>”「支那事変」という呼称が戦後になって忌避され「日中戦争」と言い換えられた。”ということも①②も表記を統一させなければならない理由になってませんね。
なぜ理由にならないのでしょうか? 具体的にお教えください。
>間違った記述になるような書き換え
どこがどう間違った記述になるのでしょうか? 具体的にお教えください。--210.138.182.133 2008年11月12日 (水) 15:44 (UTC)[返信]
無関係ではないでしょう。いずれの編集合戦もあなたがWikipedia:井戸端/subj/「太平洋戦争」「大東亜戦争」の表記で同意に至らなかったことについても編集を強行しているから起こっているのです。これまでのあなたの主張を見ていると、「教科書に書いてあることが絶対的に正しく、自分が学校で習った表現以外は認められない。」と言っているように思えます。百科事典の編集に参加するのはもう少し勉強されてからにした方がいいのではないでしょうか。--uaa 2008年11月12日 (水) 17:35 (UTC)インデント修正しました。--210.138.182.133 2008年11月24日 (月) 05:45 (UTC)[返信]
無関係です。ここに書くのもどうかと思ったのですが、「難解な漢字表記」「過剰な併記」によるもので、この「八路軍」での理由とは別のものです。それと、きちんと上記の質問にお答えください。よろしくお願いします。--210.138.182.133 2008年11月14日 (金) 15:30 (UTC)インデント修正しました。--210.138.182.133 2008年11月24日 (月) 05:45 (UTC)[返信]

「ただし、戦後多くの日本人に信じられている、「日本軍は点と線しか確保できなかった」「八路軍によって日本軍が敗れ去った」という話は、共産中国を無条件に礼賛していたいわゆる左派文化人の過大な宣伝によるものである。日本軍部隊は占領地域を自由に移動できたし、八路軍がこれを妨害することは全く不可能であった。」とあるのですが、これを言うためには、中国大陸での日本軍の敗因を併記する必要があると思いますが、執筆した方のご意見が聞きたいです。(くらいん)2008年 11月21日(金)

それでしたら、とりあえず当該箇所に[要出典]をつけてみてはいかがでしょうか?--210.138.182.133 2008年11月24日 (月) 05:45 (UTC)[返信]

>日本軍部隊は占領地域を自由に移動できたし、八路軍がこれを妨害することには限度があった

「日本軍部隊が占領地域を自由に移動できた」というのはほぼ事実でしょう。しかし昭和16年の段階で日本軍は作戦地域を「治安地区」「準治安地区」「未治安地区」に分けており、以下のように分析していた。

「治安地区:〔総合的意義〕→一、治安が確立し中国側の警備力のみで安定確保が可能な地域 二、新政権の施策がおおむね浸透し建設が進展している。 〔軍事:作戦、討伐〕一、分隊以下の行動自由 二、中国側の警備力のみで治安維持可能 〔軍事:襲撃、破壊〕一、交通線に対する小規模のもの以外ほとんどない 二、鉄道は「華北交通会社」自体で警備している」「準治安地区:〔総合的意義〕→一、軍事的には治安は一応安定しているが、その他の面はなお不安定であり、彼我の勢力が交錯している地域 二、新政権の施策は日本軍の常駐によって、初めて実現する 〔軍事:作戦、討伐〕一、おおむね中隊単位の兵力の常駐が必要で小隊以下の行動は安全ではない 二、中国側の武力は単独では治安確保に任じ得ない 〔軍事:襲撃、破壊〕一、交通、通信線に対する破壊が頻繁である 二、日本軍の小警備地点に対する襲撃も頻繁である」「未治安地区:〔総合的意義〕一、作戦討伐によって一時的に敵勢力を覆滅しうるが作戦終了とともに再び敵の根拠地となり、常時、敵の勢力が占有しているいわゆる敵地区 二、新政権の施策はほとんど浸透していない 〔軍事:作戦、討伐〕一、おおむね大隊以上の兵力をもって、作戦討伐を組織的に継続する要がある 二、中隊以下の長期行動は危険である 〔軍事:襲撃、破壊〕(原文、未記入。そもそも敵地区であるためだろう)」(防衛庁戦史編纂室編 朝雲社発行『北支の治安戦1』掲載の「占領地域の三区分に応ずる治安状況の基準概見表」より抜粋、なおここでいう「中国側」「新政権」とは汪兆銘の維新政府のこと)

 また北支那方面軍はこの現状分析を元に「粛清建設三ヵ年計画」を作成したが、それによれば昭和16年度の状況は「治安地区10% 準治安地区 60% 未治安地区30%」(『北支の治安戦1』より)としている。「自由に移動できた」「占領地域」とはこの「治安地区」を指すのが適切であろうが、しかしその地域は昭和16年度の段階でも10%しかない。だとすれば、わざわざその10%の地域を取り上げて記する意義は何か? もちろん記してもいいが、その場合その「占領地域」がどの程度の規模か、またどの段階での状況か併記しなければ誤解を招く。(タラ)2009年9月20日(日)


 長らく「要出展」がつけられながら出展が示されないものを、前後に矛盾しない程度に編集しました。(タラ)2009年9月20日(日)


>1944年までの戦果報告によると作戦行動は7万4千回、敵兵(日本兵及び満州国軍兵)79万人を殲滅したと主張している。

 以前より要求していますが、出典は何ですか? 中国側の最新研究では八路軍による日本軍の戦死傷者数は約40万人となっています(2009年、青島人民出版発行『八路軍史』より)。また同書によれば偽軍の戦死傷者数は約30万人となっています。この二つを合わせると誤差はありますが、79万という数値に近づきます。そして偽軍とは満州国軍のことのみを指すのではなく、主に汪兆銘政権など日本に協力した政権下の軍隊を指します。執筆者の方は、中国側が日本軍の戦死者と戦傷者を合わせた数として発表している数値を戦死者のみの数と,および偽軍とは満州国軍のことのみを指すと誤解されているのではないでしょうか? いろいろ探しましたが、そう考える以外に中国側が主張している「79万」という数がどこから出てきたかわかりません。

 ですが、まだ当分の間は書き換えず引き続き「79万」の出典を要求していきます。それと先日指摘した日本軍の行動は決して自由でなかったという点に反論がないので書き換えました。また長く出典を要請しながら出てこない箇所も書き換えました。--Tara16 2009年11月29日 (日) 03:21 (UTC)  [返信]


長く「要出展」をつけながら(一つは2009年9月、もう一つは2009年11月より求めていました)出展が得られないものを書き換えました。その前後で矛盾する文章も一部書き直しました。


>これは八路軍の力を見せつけて住民に恐怖心を抱かせるものであり、

 これは国民党との関係悪化により中国共産党が小作農や貧農など、本来の支持基盤と考えていた階層の支持を得るために行った、というのが妥当な説明だと思います。単に「恐怖を抱かせる」ためなら、わざわざ「富農」を狙い打ちにする説明がつきません。

>このような残虐行為は地域内の貧者の嫉妬心、復讐心を満たす事にもなり、かえって大衆の支持を集める事に貢献した面もある。

 「富農」のつるし上げによって「大衆の支持を集める」ことに成功したことを「嫉妬心」や「復讐心」に集約するのは、当時の中国の農村の状況や農民間の問題について誤解を与える恐れがあります。またそもそもそのことを理由に八路軍が支持されたかどうかは議論の余地があります。

--Tara16 2010年2月20日 (土) 14:51 (UTC)Tara16[返信]