ノート:六義園
先日,強風のため六義園の木が2本折れていました。
年表について
[編集]歴史の記載で、 1888年(明治21年) - 岩崎弥太郎が購入 とありますが、弥太郎氏はすでに亡くなっている年です。 正確な出展資料のわかる方はいらっしゃいませんでしょうか。--TWAL 2009年4月23日 (木) 06:46 (UTC)
- 公園のパンフレットでは弥太郎の購入年のみ「明治時代」として明記を避けていますので、「不詳」というのが東京都側の見解のようです。国指定文化財データベースでも「明治初年」に岩崎家の所有に帰したとあるのみです。一方、三菱史料館のまとめた人物伝では、西南戦争(1877年)で得た「莫大な利益」で東京に3つの屋敷を購入したと説明しています。この説明に従えば、茅町本邸(旧岩崎邸庭園)・深川別邸(清澄庭園)と同時期(1878年)から弥太郎の死去した1885年までの間となります。
- 従って、年表中の1888年は恐らく1878年の誤記ではと推測されますが、正確な年次を示す資料が無ければ、「1880年ごろ」「明治初期」などの表記が妥当と思います。--碧城 2009年4月25日 (土) 15:17 (UTC)
綱吉は一度も六義園には来ていません。
[編集]本文中に、「将軍綱吉のお成りが実に58回もあり・・・」と記載されていますが、これは吉保の「上屋敷」に対してで、六義園には一度も来ていません。来ていたのであれば、「徳川実記」及び正親町町子の「山蔭日記」に記載があるはずです。どこの文献を当たられたのでしょうか。--六義園逍遥
- 出典の記述をもとに修正しました。--HANSON(会話) 2022年7月6日 (水) 12:52 (UTC)
煉瓦塀
[編集]昭和28年に東京都が管理するにあたって煉瓦塀を造り、耐震性の問題から、平成6年から今の煉瓦塀に改修されました。 岩崎彌太郎の造った煉瓦塀だとしたら、ボロボロ! 知ったかぶりもいい加減して、みんなウキペディアを見て書いているわけ、笑ってしまいます。 28年以前の外周塀についての記録はわからない。 わからないのは記録が無いから、記録が無いわけないから、煉瓦塀なんかなかった。 日本庭園に煉瓦塀がおかしいと思わないのでしょうか?岩崎彌太郎に失礼です。 古河庭園は和洋折衷だから、、、だから良くないけど 塀は白い瓦のった塀です。 お堀の有る地図、大正12年の都電の写真にある六義園は木が生茂り、煉瓦塀が有るとは思えません。 関係者でこれを見ないわけはないので、あえて陳腐な煉瓦塀を造ったのを岩崎彌太郎にしてる。 なんで煉瓦塀になってしまったか、細かいことはわかりませんが、巣鴨病院の煉瓦塀が残っています。 2400:4050:9701:DD00:18DE:F1FE:2557:5726 2022年6月28日 (火) 00:02 (UTC)