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ノート:円仁誕生の地

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「安蘇郷説」について

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かねて利用者‐会話:126.255.150.184にて対話を試みましたが、可変IPアドレスによる編集をなさっているらしいので、改めて議論を提起します。

非ログインユーザーによる、出典なき改稿が相次いでいることに対しては、遺憾に思います。最初期こそ、下津原村および畳岡村が安蘇郡ならず都賀郡に属したという誤謬を改める収穫を得たものの(この点、固陋に謬説を守ろうとした自分も大いなる反省を要します)、爾後の編集が記事の向上に役立つものとは、正直思えません。問題点をまとめると、

  • 「安蘇郷説」について
    • 「安蘇郷」というのは、下野国安蘇郡安蘇郷のことなのか、出羽国最上郡阿蘇郷の誤りなのか、そもそも判然しない。おそらく前者であろうが、そうであれば立石寺に関する記述との脈絡が不明瞭であり、どちらであれ出典の明記を要する。
  • 和歌について
    • たびたび登場する、三毳山(安蘇山)南麓・現在の栃木市藤岡地域の地名たる「三鴨」(三毳)を詠んだとする和歌が、誰による何所収のどの和歌であるか不明である。その和歌に詠まれた「三鴨」が三毳山南麓の地名であるとする検証可能な出典とともに、明記されねばならない。

大きなところでは、以上二点です。

問題の編集を行われている方が全て同一人物であると断定する準備はありませんが、少なくともウィキペディアのルールに不慣れな方であるのは間違いないと感じます。そこで、まずWikipedia:検証可能性という記事だけは、お読み頂きたく存じます。その導入部を以下に引用します。

ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。

これは、ウィキペディアの内容に関する三大方針の一つであり、これを守ることは重要です。もしも情報源があるならば堂々とこれを示し、情報源がないならば(たとえ真実であったとしても)その内容を削除すべきです。情報源がない場合は、Wikipedia:独自研究は載せないも併せて参照なさってください。

我々が記事を良くしたいという意志を等しくしてこそ、このような事態も生まれますが、この場所には書けることと書けないことがあります。ルールに照らした時に、もしも書けない内容であると分かったら、残念ながらその時は諦め、手を引いてください。逆にそれが書ける内容であるならば、必ず信頼できる公刊された情報源を添えて書いてください。どうかご協力をお願いします。--うらにわ会話2020年12月29日 (火) 10:40 (UTC)[返信]

コメント まず和歌についての記述が削除されたと見え、安心しています(もっとも、記事にテコ入れする前にノートへ告知が欲しいのですが……)。
一方、上の書き込みで「安蘇郷説」の「安蘇郷」がどちらの郷なのか確認を取ろうとしましたが、こちらがまだよく分かりません。前者だろうと思っていたら、実は後者でしょうか。いずれにせよ、〈『角川日本地名大辞典(旧地名編)』より「河北町の歴史上」によれば古くは阿蘇川院を称したという。〉という記述のみで「安蘇郷説」の出典とする事は出来そうにありませんから、継続して有効な出典の明記を求めます。
報告 Wikipedia:コメント依頼#合意形成のためのコメント依頼へ、本件に関するコメント依頼を提出しました。--うらにわ会話2020年12月31日 (木) 01:19 (UTC)[返信]
コメント 編集されている方は、このページをご覧でしょうか。ご覧であるならば、もう一度読み直してみて欲しいのです。対話を拒否されつづけては問題の解決は難しいでしょう。
少し妥協して、只今の編集ではコメントアウトしてあった「安蘇郷説」の節を復活させました。ただし{{独自研究}}は貼らせていただきます(こればかりは最低限必要であると考えます)。--うらにわ会話2021年1月6日 (水) 10:10 (UTC)[返信]
コメント どうも問題点が増えてきたようです。
  • まず、「安蘇郷説」を加筆するならするで、新しいセクションを追加する場所について、もっと配慮を要するところです。「岩舟説」という名称のレベル2のセクションは、「岩舟説の研究史」という名称のレベル3のセクションを包含してはじめて成立しています。これらは入れ子になっています。「岩舟説」の後かつ「岩舟説の研究史」の前という位置に「安蘇郷説」というセクションを追加されては、不合理な分断が起きることになります。Wikipedia:スタイルマニュアル (見出し)Help:セクションも参考になさってください。
  • 次に、これを申し上げるのは大変恐縮なのですが、貴台の加筆・編集によって文意が不明瞭になっています。導入部における『おとぎ話には、・・・童話がある。』という一文では類義語が重複していますし、同じく導入部の「下野昔話井戸」という楽しい造語、「安蘇郷説」節の『1688年下野風土記に阿蘇川原並美加保乃関』という中絶の一文、そして何よりも、一体「安蘇郷説」がどういう説であるのか、この文章による把捉が困難であるという点は、その記述の意義に極めて重大な支障を及ぼすものと、懸念を申し上げるほかありません。
  • 最後に、これは最初から申し上げておりますが、抑も「安蘇郷」というのは、下野国安蘇郡安蘇郷のことなのか、出羽国最上郡阿蘇郷の誤りなのか、孰れでしょうか。どちらであれ「安蘇郷説」についての検証可能な情報源の明記を要するところです。「円仁が安蘇郷の出身ではないかと推論できる」内容ではなく、「円仁は安蘇郷の出身であると主張する」内容を持つ公刊された情報源が、必ずなくてはなりません。
編集を繰り返されている方がこのノートをお読みになり、まずは返信をお送り頂けることを願ってやみません。こうも梨の礫が続いては、合意形成への参加を拒否する行為と見做さざるを得なくなるかもしれません。--うらにわ会話2021年1月10日 (日) 07:16 (UTC)[返信]
  • 合 2020年12月から参りました。検証可能性の方針に従い、検証可能な出典が示せない場合、除去してください。加筆する側には除去するまでの期限として{{要出典}}、{{告知}}等が貼付されてから約7日間の猶予が与えられます。約7日間出典を示せなければ、「沈黙を同意とみなす」(Wikipedia:合意形成#合意のレベル)、「合理的な期間〔通常は168時間程度(約7日間=約1週間)が妥当」(Wikipedia:合意形成#合意形成)が適用されます。本件の場合、もはや合意は必要ありません。出典を上記期限内に示せなかったこと自体が沈黙の同意となります。--8B115会話2021年2月15日 (月) 23:36 (UTC)[返信]
  • 報告 上記8B115氏の意見も踏まえ、ページを半保護していただいた上で加筆前の状態に差し戻しました。むこう2週間はこの状態になります。--うらにわ会話2021年2月19日 (金) 00:34 (UTC)[返信]
  • コメント 半保護が解除された後、もしもふたたび合意・出典なき加筆があるようならば、その時も半保護を依頼することになります。そしてそれが繰り返された先には、「半永久的な拡張半保護」という選択肢も見えてくることになるのです。
  • これを避けるための唯一の方法は、編集を繰り返されている方がこのノートページにおける議論に参加され、有効な出典を示すことです。前述のとおり、
    • 『もしも書けない内容であると分かったら、残念ながらその時は諦め、手を引いてください。逆にそれが書ける内容であるならば、必ず信頼できる公刊された情報源を添えて書いてください。』
    • 『〈『角川日本地名大辞典(旧地名編)』より「河北町の歴史上」によれば古くは阿蘇川院を称したという。〉という記述のみで「安蘇郷説」の出典とする事は出来そうにありませんから、継続して有効な出典の明記を求めます。』
以上です。--うらにわ会話2021年2月19日 (金) 01:04 (UTC)[返信]
  • コメント 半保護期間が明け、再び無出典加筆がありました。この記事が「半永久的な拡張半保護」に追い込まれることを危惧しております。
一度このノートにいらっしゃって、この説の出典について教えていただければ幸甚に存じます。--うらにわ会話2021年3月17日 (水) 12:41 (UTC)[返信]

「掲示欄」

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コメント 編集を繰り返している可変IP利用者が「掲示欄」を設けて質問なさっているので、回答します。質問はノートページへお願いします。以下、当該IP利用者を「質問者」とします。

質問「西暦800年頃のことで まったく時代の違う江戸時代~昭和時代の妄想説ばかり残すのはなぜ?」
返信 端的に答えてしまえば、資料が少ないからです。時代が近いのは『八雲御抄』および『私聚百因縁集』だけで、これらの記述を読んでわかることは「円仁が生まれたのは三毳山(安蘇山)の周辺である」ということのみであり、「円仁の出身地は三毳山の東麓であり、手洗窪である」と断定することは、質問者の仰るとおり、尚早です。
しかし客観的事実として、「円仁誕生の地」という史跡として整備されている場所は日本に二箇所、壬生寺と手洗窪、これのみです。そうであれば、この二つを目下の有力説として扱わないわけにはいきません。三毳山の西麓に誕生の地があるという説を新たに唱えるにせよ、ウィキペディアを発表の場にしてはなりませんこれについては最後に詳しく述べます。
質問「岩船山麓ではないのに岩舟説??」
返信 この質問ですが、残念ながら意味が諒解できませんでした。
質問者は「岩舟」という地名が岩船山周辺のみを指すとお考えでしょうか。そうであれば、栃木市岩舟地域の西の端が三毳山であり、佐野(安蘇)と境を接しているという事実をご存知いただかなくてはなりません。三毳山の西麓は安蘇。東麓の手洗窪は一般に安蘇と呼ばれず、栃木市岩舟町下津原です。
質問「東山道が山麓の沼を越え山を越え下津原の湿地帶を越えた?」
返信 山麓が沼であったということも、下津原が湿地帯であったということも、どの史料に記載があるのか把握できておりませんので、ご提示いただかなくてはなりません。しかも、沼や湿地帯があったという事実がわかっても、東山道が実際にそこを通らなかったという研究結果が公刊されない限り、独自研究に当たるためこの場に載せることはできません。これについても、最後に詳しく述べます。

次に、私からの質問です。

質問 立石寺に関する記述は何のためのものですか?
「安蘇郷説」の節は、下の文で始まります。
安蘇郷説については、 円仁が開山したとされ関わり深い、立石寺(山寺)が阿蘇郷に在ったこと。 山寺の前を流れる立谷川の古名が阿蘇川→(阿所川)であり、立石寺の正式名称は宝珠山阿所川院(あそかわいん)立石寺である。
円仁が立石寺を開山したこと、その周辺に阿蘇という地名があることや、寺の正式名称や川の古名については出典に記載の通りで、紛うことなき事実です。
ところでこれは、円仁が安蘇郷で生まれたということとどのように関連していますか。「円仁は下野の安蘇郷で生まれたから出羽の阿蘇郷に山寺を建てた」では、論理が判りかねます。
質問「一里」という距離をどう捉えていらっしゃいますか?
質問者は記事本文に「佐野から一里は山の西側~南西付近にあたる。」と記されています。当時の一里というのは大体4,000km(コトバンク)で、佐野から東へ一里行けば充分、山の東に達します。#「掲示板」に就てでも別の方が説明してらっしゃるので、お読みになると良いと思います。
質問「藤岡町史」からの引用は何のためですか?
元和三年(1617)、家康公の棺を久能山より日光へ、家康公の遺言により移す折、朝廷の名代役をつとめていた歌人・烏丸大納言藤原光広卿は例幣使となって再び日光東照宮社参の折、帰途現地を尋ね、つぎの歌を残している。   「はるばると尋ね太田の八重一重 塚も名高きさくら木の里」 白兼の桜は、別に「太田のにほい桜」とも伝えられ。太田字白兼、二柱神社裏にある』(「藤岡町史」より
上のように『藤岡町史』から引用をなさっていますが、これは安蘇郷説とどのように関わるものですか。私なりに推理を試みましたが、残念ながらどうしても説明がつかないので、引用をお示しになった本人にお尋ねする次第です。

コメント 最後に申しあげます。

私は正直、「安蘇郷説」というものをいくらか買っています。振り返ってみれば、手洗窪というのは史跡として古くからあるにせよ、文献を読んだだけでは根拠に乏しいし、伝説に過ぎないのではないかと言われればその通りです。つまり、一次資料からは、「円仁は三毳山の周辺で生まれた」ということ以外なにも分からないのは、質問者のご指摘の通りなのです。
しかし、手洗窪(もしくは壬生)以外で円仁が生まれたという主張は、今のところ発表された事がありません。そういう新説が、どんなに有力で、どんなに明らかで、どんなに正しくても、それをウィキペディアに載せていいかどうかは別問題です。ウィキペディアは既存の情報や見解を掲載する場所であり、新説を発表する場所ではないからです。
これを知って、ウィキペディアはつまらない場所だと感じるならば、それが正しいと思います。現に質問者は私から執拗な妨害を受けているのです。だからもうウィキペディアから手を引いて、もっと正しい手段でこの説を提唱なさるのが唯一の方法です。あなたの新説は面白いのですから、こんなところで延々と削除されていては勿体無いと思いませんか。
もし、ある話題について今までに誰も行っていない研究を行ったなら、その成果は査読つき雑誌やその他の印刷媒体、評価の高いオンラインサイトなどの他の場で発表してください。そうやってあなたの成果が世に受け入れられた知識となれば、ウィキペディアはその成果について掲載することになるでしょう。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありませんより引用)
報告 新たにこの記事の保護依頼を提出しました。

私からは以上です。--うらにわ会話) 2021年3月18日 (木) 04:45 (UTC) 語句修正 --うらにわ会話) 2021年3月18日 (木) 09:44 (UTC) 誤字修正 --うらにわ会話2021年3月19日 (金) 11:45 (UTC)[返信]

「掲示板」に就て

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この版で疑問が述べられてゐたから、念のため私見を以てお答へしておかうと思ふ。「佐野より一里といふのは、三毳山(安蘇山と呼びたがつてゐなさるが)の西麓に当るのではないか。」

この人は恐らく、「一里」といふのが律令で定められた、五町(時には六町)、すなはち五百米余の長さであると信じなさつてゐるものと見た。慥かに古代に於てはさうだつた訳であるが、時代は下つて江戸初期の光広卿がかう書いてなさるのだから、更に吟味せねばなるまい。

中世以降の「里」といふ単位は一体好い加減なもので、条里制の一里が三十六坪だつたから三十六町を一里としたさうだ。太閤や家康公は是に遵て一里塚を設けたものである。

或いはもつと好い加減で、「半刻歩いた距離」を一里としたりもした。だから地方によつて一里の長さはまちゝゝで、三十六町すら統一的な基準には成り得なかつた。此処迄来ると、一里はたゞの「長い距離」といふ概念に収まつてゐる。

さて、光広卿が一里といふ距離を如何捉へてゐなさつたか、今となつては判らないが、少なくとも一里の長さを五百米余と見て計算しては時代が違つてしまふのは、まうお判りだらう。一町といへば約百九米であるから、三十六町といふのは三千九百米余、要は四粁弱である。佐野から四粁東へ往けば、三毳山の東麓に達するのも頷かれると思ふが、如何。

なほこの版でも何か述べられてゐるが、此方は何を言ふかいまいち理解するを得ぬので、答ふる用意が無い。佐野を沼と言つたり下津原を湿地帯と言つたりするのは、何を典拠とされるものかお教へ願へるか。

それから、質問は記事ではなく此の場所・ノヲトに書かれなければ、閲覧者の迷惑になる事甚だしいから気を付けられたい。機械に弱いのは仕方ないが、一寸固陋が過ぎる様に思はれる。--123.0.70.72 2021年2月18日 (木) 05:12 (UTC)[返信]