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ノート:冊封体制

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本文の記述を西嶋説により拘束するのは反対

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冊封体制の節に、

以下、西嶋説を基本としつつ、冊封体制の各時代における展開を記す。
以下、特に注記しない限りは『西嶋定生東アジア史論集第三巻』を主点として記述する。

という記述があり、冊封と朝貢を媒介とした中国と近隣の諸国・諸民族との関係が西嶋説に即して記述されています。

【称号・册書・印章のセットの授受をともなう外交関係】はモンゴル帝国(元朝)時期も盛んに行われていたのであり、この時代を「崩壊」と位置づけ、明王朝の時代を「再生」と称する西嶋の価値判断は、客観的な歴史描写ではない。したがって、「冊封」の歴史的展開そのものについての記述を西嶋説によって拘束する上記の文面を本文に提示するのは反対。「冊封体制の各時代における展開」について、「西嶋説を基本」、「『西嶋定生東アジア史論集第三巻』を主点として記述」という限定は外すべき。「冊封体制の各時代における展開」についての「西嶋説」が記事中に紹介されるのは当然だとはおもうが、しかし西嶋の説は単に「西嶋の説」として扱われるべき。--Dalaibaatur 2010年9月2日 (木) 06:21 (UTC)[返信]

私には、上の記述は「西嶋説」を中心に記述とすると書いてあるだけで、記事内容を西嶋説に拘束すると宣言しているわけではないと思います。これはあくまで現在の記述が西嶋説に基づいているからそう書いてあるだけで、当然西嶋以外の有力な見方があれば、それを出典を注記して加筆していきましょうと述べているのだと思えます。バランスの問題ではないでしょうか。Dalaibaaturさんの編集内容は記事内容を大きく書き換えることを意図しているようではないですから、とりあえず現在の記述が西嶋説に大部分依拠している以上、それを素直に表明しておくことは利用者にとっても益ではないでしょうか。あと、Dalaibaaturさんの編集後の記事だとむしろ検証可能性で問題があると思えたので、差し戻しました。とりあえずは出典を注記して加筆していただくのがよろしいかと思います。--Kanbun 2010年9月3日 (金) 11:08 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。
Dalaibaaturさんの編集内容は記事内容を大きく書き換えることを意図しているようではない
とんでもない。【称号・册書・印章のセットの授受をともなう外交関係】の歴史的展開について、乙坂智子氏の論文を典拠としてモンゴル帝国/元朝による「冊封」について、あるいは石濱裕美子氏の論考を典拠としてチベット仏教圏諸国に対するダライラマと清朝の「冊封」権の争奪戦などについて、大幅に、盛大に加筆したいと考えています。そのためには歴史の節の冒頭に【「西嶋説を基本」、「『西嶋定生東アジア史論集第三巻』を主点として記述」という限定】があるのはきわめて不都合な拘束です。【称号・册書・印章のセットの授受をともなう外交関係】の歴史的展開をのべる箇所で「冊封体制」という用語が使用されているのも、「西嶋説による拘束」にあたります。西嶋の「冊封体制」論では「律令」や「儒教」の受容も条件に入っているため、【称号・册書・印章のセットの授受をともなう外交関係】がユーラシア大陸レベルに拡大した時代が「崩壊」の時代になってしまう。
これはあくまで現在の記述が西嶋説に基づいているからそう書いてあるだけで、当然西嶋以外の有力な見方があれば、それを出典を注記して加筆していきましょう
ここのところに反対。西嶋説の枠組みでは【称号・册書・印章のセットの授受をともなう外交関係】の一部だけしか扱えないため。現状では「西嶋以外の有力な見方を加筆」ことそのものに制約がある。
したがって私は、史実に対する学者たちの価値判断は、学者ごとの学説として記述されるべき、と考えます。たとえば「ヒミコが魏から冊封を受けて金印を授かった」こと自体は史料に記載があり、学者たちも一致して史実として承認しているとおもわれます。ただしこれにいかなる意義をあたえ解釈をほどこすかという部分で、学者間の見解に多彩な相違が生ずる。私は、「歴史」の節では【称号・册書・印章のセットの授受をともなう外交関係】についての史実のみ記載し、【「冊封体制」が「完成」「崩壊」「再生」】等の学者の歴史解釈は、その学者の学説のための節をもうけてそこに記述すべきだと考えます。
「出典が必要」だとお感じになる箇所は、ぜひ、まず「要出典タグ」でご教示いただければと。概説書または研究論文にもとづく出典を示す用意がありますので。--Dalaibaatur 2010年9月3日 (金) 11:41 (UTC)[返信]
私が用いる典拠をおおむね記事のほうに載せました。ここから出典をしめしますので、いきなりの「差し戻し」はどうぞごかんべんを。--Dalaibaatur 2010年9月3日 (金) 12:58 (UTC)[返信]
根本的に冊封記事の該当節は、記事本文と構成を見れば明らかなように、本来いわゆる「冊封体制」の歴史の内容となっていて、冊封の「歴史」節ではないのではないということ。つまり、西嶋の冊封体制論に基づいた整理を加えられた歴史であると思われます。おそらくこれは「冊封体制」という記事などに分割も可能なように考えられていたのではないでしょうか。もう一つは西嶋説にこだわりたくないのは分かるのですが、現状の記事が西嶋説に基づいているのは事実なので、その出典に関する情報を削除するのは検証可能性の上で適切ではないでしょう。それにDalaibaaturさんは全体像をそっくり改変したいのではなく、チベットやネパールと清朝との関係を中心に加筆したいようですので、まずはそこを盛大に加筆してはいかがでしょう?現状では、冒頭の出典についての明記を消すのは検証可能性の問題から大きな問題があると思います。なので、「冊封体制」節の節構造と節の冒頭文のみ巻き戻し、チベットの箇所には出典を求めます。おそらく出典は手許にあるものと思いますので、まずはしっかり示して加筆していただければと思います。無用な混乱はそれで避けられますから。--Kanbun 2010年9月3日 (金) 22:11 (UTC)[返信]
補足として、致命的な問題としてDalaibaaturさんの編集での節構造では「~と近隣諸国・周辺諸民族」となっており、これでは単なる外交史になってしまいます(冊封の歴史ではありません)。中国歴代王朝と近隣諸国・周辺諸民族の関係には様々なものがあり、朝貢や互市などの形式的な面でも、そして同じレベルの外交関係内の実際的な面でも(たとえば同じ朝貢国どうしの従属度合いの差)多様な関係が成り立っていたことはかなり明らかにされています。冊封はあくまで中国と周辺諸国の関係の一面にしか過ぎず、冊封体制論はそれに注目した外交史の整理の一つであって、全てではありません。冒頭に述べました節構造の編集の仕方などからも、私にはDalaibaaturさんは中国と周辺民族の外交史みたいな記事内容を期待しているように思われますが、ここはあくまで冊封の記事ではないでしょうか。ただ、Dalaibaaturさんの予定されている加筆はなかなかワクワクさせられそうな内容で面白そうですので、非常に楽しみであります。--Kanbun 2010年9月3日 (金) 22:38 (UTC)[返信]
Kanbunさんが出典が必要だと判断なさった箇所をコメントアウトすること、私がつけた節名をよりよいものとお考えの呼称に変更なさることはかまいませんので、西嶋説の枠組みで記事本体を拘束するのはやめてください。--Dalaibaatur 2010年9月4日 (土) 03:32 (UTC)[返信]
とりあえず出典の問題から唐代以前は「冊封体制」の記述になっていますから、それに戻しました。そのうえで、Dalaibaaturさんがお考えの、元代以降の「冊封関係」についての部分を加筆していただければと思います。何度も申し上げているように、こうしているのは西嶋説によって記事を拘束したいからではなく、あくまで検証可能性の問題からです。いまいち議論が噛み合ってない気がするのですが、なにとぞご理解をお願いいたします。西嶋説によって記事を拘束うんぬんは目下誰も主張していないようですので、これ以上的外れなことは言わないでいただきたいと思います。--Kanbun 2010年9月5日 (日) 10:24 (UTC)[返信]
「西嶋説の枠組みで記事本文を拘束しないでください」と繰り返しお願いしているのですが。下記の一節が「歴史の節」の冒頭にあるのが、今後の加筆修正に著しく邪魔。
  • 以下、西嶋説を基本としつつ、冊封体制の各時代における展開を記す。
  • 以下、特に注記しない限りは『西嶋定生東アジア史論集第三巻』を主点として記述する。

また、【称号・册書・印章のセットの授受をともなう外交関係】の時代区分に「西嶋用語」を用いるのも、今後の加筆修正に著しく邪魔。したがって、前回の投稿とまったく同一文面ですが、Kanbunさんには以下の2点をお願いしておきます。

  • Kanbunさんが出典が必要だと判断なさった箇所をコメントアウトすること
  • 私がつけた節名をよりよいものとお考えの呼称に変更なさること

はかまいませんので、西嶋説の枠組みで記事本体を拘束するのはやめてください。--Dalaibaatur 2010年9月5日 (日) 11:12 (UTC)[返信]

なんだかレイアウトが乱れていますが。
とにかく、私の編集をもう一度よく見て下さい。該当記述は「歴史」節の冒頭ではなく、「冊封体制」節の冒頭にあり、内容も変更されています。とりあえず誤解をなさっているようですので差し戻します。--Kanbun 2010年9月5日 (日) 12:18 (UTC)[返信]
検証可能性における問題とは以下のようなことです。私はDalaibaaturさんの編集を邪魔しようとしているわけではないので、落ち着いてよく読んでいただければと思います。まず、本来の記事の節は「冊封体制」となっており、それをDalaibaaturさんは「歴史」節に改変して加筆なさろうとしました。この点で一つ問題があります。というのは、元来は冊封体制論に則った解説をしていた記事が歴史という節名に変えられることによって、その役割が変更させられてしまっていること。これは改変前の記事内容の意図しているところとはずれています。次に、元来は「節の大部分は西嶋の著作による」という注意書きが添えられることによって検証可能性が担保されており、当該記事の出典がどこにあるかこれで明瞭になっていました。しかし、Dalaibaaturさんはそれを記事の内容を西嶋の説に拘束するもの(?)と断定して、除去し、節とは関係ないところに移動させようとしています。これは検証可能性の上で当該節の記述の出典情報を除去する行為ですから、検証可能性の上で大きな問題です。以上の点から私は編集を行っているので、私が西嶋の説によって当該節を拘束しようとしているとか、西嶋用語を濫用しているとかあらぬ言いがかりはやめてくださいますよう重ねてお願い申し上げます。Dalaibaaturさんの編集行為は出典情報を除去しているという意味で重大な問題行動であります。--Kanbun 2010年9月5日 (日) 12:49 (UTC)[返信]
Kanbunさんがハッキリおっしゃってくださらないのでなかなかすぐには理解できなかったのですが、私が【称号・册書・印章のセットの授受をともなう外交関係】の歴史について述べているとおもっていたパラグラフは、全節まるごと「西嶋の冊封体制論」を紹介する節だったのですね。西嶋の説を西嶋説として紹介することにはまったく異存がありませんので、Kanbunさんがくりかえし「差し戻し」を実行なさった部分は西嶋説と明示させていただいたうえで、以後は手を付けないことをお約束いたします。「編集合戦で保護」なんかされたらたまらんし。--Dalaibaatur 2010年9月5日 (日) 13:09 (UTC)[返信]


【「冊封」を媒介とした「天子」と周辺諸国・諸民族の交際の歴史】の節を設置します。

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前節で私は「西嶋の冊封体制論」について描写・紹介されている部分に対して『「西嶋説」や「西嶋用語」で文面が拘束されているのはおかしい!』と述べていたわけで、辛抱づよくお相手くださったKanbunさんには深くお礼申し上げます。

  • 「西嶋の冊封体制論」は西嶋自身の言説に則して紹介されるべきだと思います。
  • 西嶋は、東アジアにおける「冊封体制」が「はじまり」「完成」「全盛」「崩壊」「再生」「終焉」という歴史的展開をたどったとしているので、「西嶋の冊封体制論」を紹介する箇所がこのように時代区分されているのは「西嶋自身の言説に則して」おり、当然だと考えます。
  • このノートの前節で主張した「史実」と「西嶋説」の分離は、【「冊封」を媒介とした「天子」と周辺諸国・諸民族の交際の歴史】を述べる節を、別に新たに設けるという形で実施します。
  • 「西嶋の冊封体制論」に体するKanbunさんの最新の「差し戻し」には、私に遠慮なさって中途半端になっている部分がみうけられましたので、私が加筆・修正をいっさい加えていない「 2010年8月26日 (木) 01:29 」の版の状態で記事の文面に復帰させました。その上で、「西嶋の冊封体制論」を紹介している節であることをハッキリさせる若干の語句の修正も加えてあります。--Dalaibaatur 2010年9月5日 (日) 13:58 (UTC)[返信]

「冊封体制」の頁について

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本記事と同内容の冊封体制という記事が存在していますが、両記事の関係や取り扱いはどのようなものなのでしょうか。--59.191.178.33 2019年6月9日 (日) 02:53 (UTC)[返信]

返信 私見ですが、冊封はあくまでも本来の語義、冊命封爵についての記事に整理し(古い日本の書籍でも普通にその意味で冊封の語を使っているのが見えます)、東アジアの国際関係を表す語としては冊封体制に分離・統合するのが無難に思えます。ベトナム語版はそういう記事であり、zhやkoも(多少主従関係が微妙な所もありますが)概ねそういう形になっています。もともと冊封という国内概念があり、それを国際関係に拡張したのが冊封体制、というロジックで行くのが整合的でしょう。--シダー近藤会話2023年12月8日 (金) 10:11 (UTC)[返信]

改名提案

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#「冊封体制」の頁についてにも書いたとおり、この記事を冊封体制に改名し、跡地は原義である冊命封爵に対応する記事とすることを提案します。調査によって、冊封体制はこの記事からの履歴不継承コピペ記事であることが判明したので、現在、Wikipedia:削除依頼/冊封体制を提出中です。--シダー近藤会話2024年1月4日 (木) 11:30 (UTC)[返信]

自動失効 削除依頼が受理されたら新しい節で提案し直して下さい。--FlatLanguage会話) 2024年2月3日 (土) 13:03 (UTC)-(打ち消し)FlatLanguage会話2024年2月4日 (日) 01:30 (UTC)[返信]
返信  「議論停止から一ヶ月」には、約1日足りていないと思うのですが、そういう規程なのでしょうか? 30日なら経過していると思いますが、私の認識では、翌月同日同時刻まで、が一ヶ月との定義と認識していたのですが、違うのでしょうか。--シダー近藤会話2024年2月3日 (土) 21:13 (UTC)[返信]
間違えて少し早く失効させてしまいました。ただ、告知から長期間経過していますので、提案し直すべきというのは変化ありません。--FlatLanguage会話) 2024年2月3日 (土) 23:41 (UTC)-(打ち消し)FlatLanguage会話2024年2月4日 (日) 01:30 (UTC)[返信]
返信 期限ギリギリまで待って、異論が出なければ合意成立として、削除後に改名しますと告知を変更する予定だったのですが、これはガイドライン等に反する行為でしょうか?--シダー近藤会話2024年2月4日 (日) 01:24 (UTC)[返信]
それでいいかもしれません--FlatLanguage会話2024年2月4日 (日) 01:30 (UTC)[返信]
返信 ありがとうございます。とりあえず、この改名提案は合意成立として、削除依頼の方にもその旨を書いておきます。--シダー近藤会話2024年2月4日 (日) 08:13 (UTC)[返信]
チェック 移動しました。ノートもおいおい処理します。--シダー近藤会話2024年2月9日 (金) 08:22 (UTC)[返信]