コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ノート:出陣学徒壮行早慶戦

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

初めて 投稿します。 私の父は 早稲田の吉江一行の 弟です。 生前から 早稲田のキャプテンであるとのことを言っていました。 他のサイトでもキャプテンとなっているようです。 よろしくお願いします。  --Dominikotyan 2008年3月2日 (日) 23:33 (UTC)[返信]

はじめまして。両校の主将を表記したのは私ですので、私から返答するのが筋かと思いますので、コメントさせていただきます。出典は『早稲田大学野球部百年史 上巻』です。前記文献では1943年9月にそれまでの主将・由利繁氏らが卒業した記事があり(448頁)、次いで「笠原主將となる」として「笠原和夫(市岡中学)主將となり、(以下略)」とあります。百年史上巻では次いで「新選手」「秋季対抗試合」「学徒入隊総力戰体制となる」の記事が続き、そして「出陣学徒壯行早慶戰」の記事となります。この記事においても笠原氏が当時の主将であったことが記されております。従って、百年史のこうした記述を根拠として、この試合における早稲田の主将を笠原氏とした次第です。
さて吉江一行氏についてですが、前記文献(『百年史』上巻)によれば、1944年(昭和19年)の記事の冒頭に「吉江主將となる」の記事があります。就任時期についての明確な記述は認められませんが、笠原らが「学徒出陣」で学窓を離れたことを受けて吉江氏が主将に就任されたという理解を、個人的にはしています。Dominikotyanさんのお訴え通りで、吉江一行先輩は確かに早稲田大学野球部主将の任に当たられていますが、それは出陣学徒壮行早慶戦時でなく、その翌年のことであると、部史上からは言うことができるかと思います。
しかしながら、ここまで掲げた文献以外には寡聞かつ勉強不足にして、吉江氏の当時の動向を存じ上げません。もしそうした文献をご存じであれば、このノートででも全く構いませんので、ご教示いただければ幸いです。この一戦を含め、戦前の野球弾圧の状況を少しでも明らかにして後世に伝えたく、伏してお願い申し上げます。--Takashieikou 2008年3月3日 (月) 21:40 (UTC)[返信]

早速 ありがとうございました。

[編集]

丁寧なお返事 ありがとうございます。

どこに返信したら良いか分からず 貴殿の利用者ページに 記入してしまいました。 そちらを ご覧になって もし邪魔でしたら 記述を削除してください。--Dominikotyan 2008年3月4日 (火) 01:22 (UTC)[返信]