ノート:前桐生氏

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

本稿の信頼性について[編集]

本稿は「桐生頼忠」の作成者が立てた記事と思料され、同様の問題点を含みます。ノート:桐生頼忠ノート:桐生六郎に移動)を参照のこと。--Сорасоуё 2008年2月3日 (日) 06:16 (UTC)ノート移動先付記--Kurihaya 2008年8月5日 (火) 11:18 (UTC)[返信]

本項の存在意義について[編集]

須藤 聡氏の論文「桐生佐野氏に関わる研究史とその史料紹介」(桐生文化史談会・編『桐生佐野氏と戦国社会』所収、2007年)によれば、『桐生市史』(昭和33年刊行)が桐生国綱以降の桐生氏を桐生六郎と区別するため「後桐生氏」と呼んだとのことです。

もっとも、須藤論文には六郎が「前桐生氏」と呼ばれた旨の指摘がありません。『桐生市史』にはその旨記載されているのかも知れませんが未見です。「前桐生氏」をGoogle検索すると[1]のような桐生市のサイトがヒットするので、恐らくは『桐生市史』が桐生六郎を「前桐生氏」と定義していたとは思われますが。また、『桐生市史』は桐生氏研究において「軍記物や系譜に頼」ったものと批判されており(詳細はノート:桐生六郎#桐生氏研究における『桐生市史』の位置付けについてを参照)、近時では桐生氏と佐野氏との関連に着目して「後桐生氏」の代わりに「桐生佐野氏」と呼ぶ見解が登場しています(須藤論文参照)。

このように「後桐生氏」の呼称が学界で動揺している以上は、前後桐生氏の区別が確立しているかのような印象を与える「前桐生氏」の項目を存続させるべきではないと考えます。さらに、仮に「前桐生氏」なる概念が確立されていたとしても知られている事は恐らく桐生六郎に関する事項のみであり(六郎の祖先・子孫がいかなる者で、いかなる事跡を遺したか自体が史料からは窺えないため)、桐生六郎から独立した別項を立ててまで論じるべき事はないと思料します。

よって、本項の存在意義はないものと考えます。--Сорасоуё 2008年2月29日 (金) 13:08 (UTC)[返信]