ノート:割烹着/過去ログ1
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割烹着の起源について
[編集]STAP細胞の小保方さんによって実験着としての割烹着に注目が集まっているようですが、割烹着の起源についての情報をまとめておきます。
コトバンク - 割烹着によれば
料理,家事をするときに衣服の汚れを防ぐために用いる袖の付いた前掛け。おもに白木綿で作られるが,色物,柄物もある。着物の上から着けるため袖はたっぷりとし,袖口は絞り,背でひもを結び合わせる。1882年,東京の日本橋に初めて設立された赤堀割烹教場(現,赤堀料理学園)で考案された。教場は料理技術や栄養知識を家庭に広めるため開設されたもので,人力車で通うような上流階級の女性たちのサロンともなっていた。創始者の赤堀峰吉は,生徒たちの着物が油や水で汚れるのを防ぐために,布を体の前後に掛け,たすきで押さえさせた。
とのこと(強調は引用者による)。
一方で日本女子大学校(現、日本女子大学)で考案されたものという話もあるのですね(夏目☆記念日(テレビ朝日 2013年4月21日(日) 1:15~1:45放送), リケジョと割烹着 - 大隅典子の仙台通信)。
女子学生たちは自学自動の教育方針により、実験の際に使う作業着を開発。これは後に割烹着と呼ばれるようになる。
さて、コトバンクの文章だと割烹着が1882年に考案されたかのように読めますが、 赤堀料理学園のあゆみによれば、割烹着が考案されたのは1902年のこと。 どうもコトバンクの「1882年」がかかるのは「設立された」のようです(ひどい文章…)。 赤堀千恵美 ご挨拶にも以下のようにありました。
創立者の赤穂峯翁は和式エプロンともいえる「割烹着」を発案しその普及に努め
さらに、『赤堀料理学園のあゆみ』をよく読むと面白い事が書かれてあります(改行など体裁を変更しています)。
明治35年(1902年)
着物が汚れず、料理もしやすい服装を考えた結果、「割烹着」を考案、教場にて着用
日本女子大講師に就く
赤堀峯吉は日本女子大学校の講師だったんですね。 関連は不明ですが、少なくとも日本女子大学校との関わりが全くお門違いということはなさそうです。 日本女子大学校の講師であったことと日本女子大学の実験で割烹着を着ているという伝統(学校説明会レポート(PDF)、創立10年頃の授業風景)ともきっと無関係では無いでしょう。 少なくとも割烹着が生まれたのとほぼ同時に実験着としても使われていたというのは確実です。
雑誌『天然生活』の2012年10月号の特集「かわいきみ子さんのソーイング 温故知新のかっぽう着」の中で発案の話が紹介されています(赤堀料理学園の前身「赤堀割烹教場」で生まれた「かっぽう着」の誕生物語)。
最初は2枚の布を体の前後にかけ、たすきで留めた形。(省略)形が完成したのは開校から約20年を経た明治37年。
つまり、コトバンクの説明の最後に書かれてあるようなものは最初に考えられたものであって、その後改良が加えられ明治37年(1904年)に割烹着として完成とのこと。ここでは1902年ではなくて1904年ということです。
ところで、村井米子の記事にも「割烹着の発明者」とあるが1901年生まれなのでこれは誤解であろう。脚注の記述が興味深く、これによれば割烹着の発案者として香川綾、羽仁もと子、村井弦斎も挙げられるらしい。前二者に関しては詳細不明だが村井弦斎は手術服を元に考えたもので「音羽嬢式台所上衣」と言うとのこと(弦斎と食道楽:平塚 村井弦斎まつり)。村井弦斎の妻多嘉子が音羽嬢式台所上衣を着ている写真が『食道楽続篇 春の巻』に掲載されているのだが(古書の森日記 by Hisako:村井弦斎の『食道楽』(11)、近代デジタルライブラリー)、手術着を元にしたというだけあって袖が短く割烹着とは違うように見える。音羽嬢式台所上衣はあくまで音羽嬢式台所上衣なのではないだろうか。ちなみに村井弦斎が「音羽嬢式台所上衣」を発表したのは「月刊食道楽」の創刊号(1906年1月号)とのことだが、興味深いことに赤堀割烹教場もこの雑誌の中で連載していたらしい(1882(明治15)年創立の赤堀割烹教場における調理教育と女性の活躍)。