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ノート:加藤礼子

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旧姓と現姓について

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旧姓が依岡姓であったという前提で、全日本ジュニアで優勝したことやレコードを出したことに対する「戦後10年の歌」という出典を明記されているわけですが、あくまでも現在も過去も加藤姓で依岡姓になったことはないというのならば全日本ジュニアでの優勝実績も「戦後10年の歌」という出典も否定されるわけです。またいまは依岡礼子からリダイレクトを張っているわけですがこちらも削除しなければなりません。現在も過去も加藤姓で変更はない、というのならその根拠なり出典を教えて下さい。--Soregashi 2008年1月4日 (金) 12:11 (UTC)[返信]

あくまで家庭の事情で依岡姓であった時期が10代にわずかあった事実はあります。旧姓~現姓という表現は、結婚を期に姓が変わるという通念です。本人、戦中~戦後を通じて加藤家(前系18代の当主)の人間として、神戸女学院(中退)時代~大阪音楽学校時代~早稲田大学時代およびそれ以降、加藤姓です(結婚は養子をもらう)ので、旧姓・依岡という表現はやめていただきたいと申しています。記述者である私は実の息子です。Sendagaya以上のコメントは、Sendagaya会話投稿記録)さんが[2008年1月5日 (土) 08:05 (UTC)]に投稿したものです。[返信]

ジュニア選手権の優勝者が記載されたHPで優勝者不明の年があったので100%確実とは言えませんでしたが、同一人物と判断しておりました。特殊な事情があるようですのでそれ以上確認させていただく必要はなさそうですが、Sendagayaさんが事実、加藤礼子さんの息子さんならば、お聞きできる機会があるときに月岡芳子さんと丹羽芳子さんが同一人物であるか、別人であるかお聞きしていただけると幸いです。--Tiyoringo 2008年1月5日 (土) 09:09 (UTC)[返信]

旧姓と現姓というのは通常婚姻をきっかけに変わることが多く次はおそらく両親の離婚解消によるものが多いと思われますが、改姓もあれば養子もあり婚姻や婚姻解消だけではありません。過去に依岡姓であったと言うのならば、依岡礼子からリダイレクトもされているわけですからその点について明記すべきで、依岡礼子からいきなり加藤礼子にリダイレクトされその点(依岡礼子=加藤礼子)について明記されていなければ閲覧者は戸惑うだけです。--Soregashi 2008年1月5日 (土) 12:08 (UTC)[返信]

Soregashiさんのおっしゃるように何も記載がないと何故依岡礼子から加藤礼子にリダイレクトされているかが理解できないのは問題ですね。細かい事情は書く必要はありませんがやはり何らかの記載が必要ですね。--Tiyoringo 2008年1月5日 (土) 13:22 (UTC)[返信]

Tiyoringoさんのご質問、月岡芳子さんと丹羽芳子さん、同一人物だと思います。利用者:Sengagaya以上のコメントは、Sendagaya会話投稿記録)さんが[2008年1月6日 (日) 01:06 (UTC)]に投稿したものです。[返信]

あなたの「感想」や「考え」を聞いているわけじゃないと思いますよ。それから母親ならば、当然誕生日くらい知ってますよね?--Soregashi 2008年1月8日 (火) 17:06 (UTC)[返信]

すぐ聞いてほしいといっているわけではありませんし、Sengagayaさんの意見をお聞きしているわけではありません。それでは勝手に同一人物と断定して編集を行ったIPユーザーと何ら変わりありませんので。--Tiyoringo 2008年1月8日 (火) 18:31 (UTC)[返信]

記述者である私は実の息子などという発言などから信憑性が非常に低く、議論放棄したため依岡姓についての記述を復帰し、タグを除去しました。--Soregashi 2008年1月26日 (土) 13:49 (UTC)[返信]

依岡禮子さんと加藤禮子さんは別人です

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 両者は別人です。

 依岡禮子さんは1922年生まれで、神戸スケート会に所属しておりました。 加藤禮子さんは1926年生まれで、戦前は大阪スケート倶楽部に所属し、戦後は早稲田大学に進学しました。

 1938年の第13回全関西スケート選手権では、依岡さんは女子選手権で3位、加藤さんは同じ大会のジュニア女子で2位となっております。依岡さんはこのシーズンはすでにジュニアではなく選手権クラスに参戦しており、第9回全日本選手権では5位になっています。そして、このシーズンを最後に依岡さんは現役を引退しています。(参考=「アサヒ・スポーツ」第17巻第1号;ガルミッシュ・パルテンキルヘン五輪当時フィギュア監督だった大石雄一郎氏執筆による1939年「氷上競技界展望」より。 記事では、依岡禮子選手と東京の東郷珠子選手の前シーズンでの現役引退を伝え、そして加藤禮子さんは生田艶子選手らと共に若手期待のホープとして紹介されています。)

 加藤さんが最初に全日本選手権に出場したのは戦前の1940年の第11回大会ですが、選手権クラスではなくジュニアクラス(現在の全日本ジュニア選手権に相当=第40回大会より分離独立)に出て2位になっています(所属は大阪スケート倶楽部)。さらにこのシーズンの第15回全関西選手権のジュニア女子で優勝しています。加藤さんが選手権クラスに参戦するようになったのはその翌シーズンからで、1941年の第16回全関西選手権で4位、第12回全日本選手権では5位になっています(所属は大阪スケート倶楽部)。

 加藤さんは戦後再開された後の1949年の第17回全日本選手権(会場:秋宮リンク&蓼の海=暖気による結氷不良で中止)からは早大所属でエントリーしており、以後、早大の女子エースとして活躍しました。1950年の第22回インカレで初めて女子部門が新設された際に個人で優勝し、翌年も優勝して2連覇、その翌年1952年に早大を卒業して現役を引退しました。このように、後の福原美和・八木沼純子さんらを輩出する名門・早稲田大学女子フィギュアの草分け的存在でした。

 このように、依岡さんは戦前に活躍した選手であるのに対し、加藤さんは主に戦後に早大に進学してからトップクラスで活躍した選手です。 (参考文献:大阪朝日新聞、アサヒ・スポーツ各号、早稲田大学スケート部75周年誌など)--polaris 2009年3月4日 (水) 11:54 (UTC)[返信]

加藤禮子は『君なら跳べる!』で佐藤信夫がフィギュアスケートを始めるきっかけとなった人物として登場しますが (p.13) 、一般書籍にはなかなか情報がないですね。資料準備の都合上(次に予約が入っていたり、少し遠くの図書館から借りていたり)、新しい資料を優先して見ていますので、この記事にはまだしばらく手が回らないかもしれません。とりあえず、記事本文の出典とされているサイトがすべて個人サイトのようでしたので、出典の明記と独自研究のテンプレートを貼り付けました。--Bluebell 2009年3月5日 (木) 02:46 (UTC)[返信]
加藤礼子依岡礼子は違う人物との指摘があり、それに対して二人が同一人物であるとの根拠は何ら示されておりませんので、依岡礼子に即時削除依頼を出しました。--Bluebell 2009年3月17日 (火) 02:54 (UTC)[返信]