ノート:南部祐長
『身延町誌』の引用除去について
[編集]『身延町誌』[1]からの引用部分(波木井南部7代信光の伝記)に関して、旧版では三戸南部茂行=根城南部政光の同一人物説が述べられているとされていました。しかしここは書状の南部雅楽助=三戸南部茂行と推定されたことに対し、南部雅楽助=波木井南部8代南部政光という町誌の別見解が出されたものと思われます。町誌はこの次に8代目の政光の伝記節を載せますが、茂行=政光との指摘はありません。他の出典も無く、三戸南部茂行(祐長)=根城南部政光説は執筆者の解釈と判断し除去致しました。--KurmUmy 2010年2月21日 (日) 12:39 (UTC)
記述内容の修正について
[編集]この地は南部信光・もしくは南部信行に譲られていると思われますので、津軽田舎郡黒石郷と鼻和郡目谷郷を相伝領掌するという(『寛政重修諸家譜』)記述から、陸奥国津軽田舎郡冬井、日野間両郷、并に外ケ浜野尻郷を相伝領掌するという(『南部史要』)に書き換えてあります。--真実一郎 2010年6月27日 (日) 06:20 (UTC)
- 『南部史要』を優先しなくてはならない根拠が不明なので両論併記化しました。問題の多いとされる『寛政重修諸家譜』(寛政譜)ですが、『寛政譜』の記述が間違いで『南部史要』説が正しいとする見解が学会・巷間で通説となっているならともかく、現状では『寛政譜』の所伝を除去する必要は感じられません。『寛政譜』は信頼できる情報源なのですから、その記述が間違いとしてもその旨を出典付きで載せておけばよく、異説を消してしまうことは避けるべきでしょう。--KurmUmy 2010年6月27日 (日) 09:02 (UTC)
KurmUmyさんは『寛政重修諸家譜』に祐長が津軽田舎郡黒石郷と鼻和郡目谷郷を相伝領掌したとして 一方、『寛政重修諸家譜』では津軽田舎郡黒石郷と鼻和郡目谷郷を相伝領掌するとする。 と付け加えられましたが、近世こもんじょ館の 南部を名乗る諸家 2-1 『寛政重修諸家系譜』所収「南部系図」1 には 祐長 雅楽助 │ 正平十五年(北朝の延文五年) 六月五日陸奥国津軽田舎 │ 郡冬井日野間の両郷、ならびに外浜野尻郷相伝にまかせ領 │ 掌 とあります。この近世こもんじょ館の『寛政重修諸家系譜』記述も八戸根城と南部家文書の記述と同じくしていて、kurmumyさんの見解と異なっていますが、KurmUmyさんはどうお考えでしょうか。--真実一郎 2010年7月1日 (木) 11:55 (UTC)
- 申し訳ありません。前に編集したときに内容を勘違いしていたようです。上の発言は間違いとして取り消します。『南部史要』の情報とのすり合わせができないので、修正を真実一郎さんにお任せできるでしょうか?--KurmUmy 2010年7月1日 (木) 13:47 (UTC)
私はKurmUmyさんにはよく指摘されましたね。『南部史要』の情報とのすり合わせということですが、ref1と2と4で関連情報を修正・追加しておきました。--真実一郎 2010年7月2日 (金) 09:07 (UTC)