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ノート:呉朝

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無題

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2012年5月から6月にかけての改稿([1])にあたって、初版投稿者が挙げた下記の書籍2点の書籍を参照しました。

  • 『アジア歴史事典』のうち、[2]の参考文献に挙げた項目
  • 『ベトナムの事典』、「呉権」(140-141ページ、呉朝の項目は無し)
  • 『中国歴代皇帝人物事典』 - 当該記事に関連する記述無し

で、初版から改稿前までの版[3]に存在していた以下の点について上記3冊の書籍および改稿に使用した他の書籍でも確認することができず、ちょっと気になったので削除しています。

  • 「中国の混乱をみて曲氏の反乱は拡大化」
  • 「南漢の烈祖劉隠の攻撃を受けて鎮圧され、ベトナム北部は南漢の支配下に入った。」 - 呉朝が南漢に攻撃されたのは劉隠が没してから20年近くの後の時代
  • 「後楊朝」 - 参照した書籍で単語を確認できず。(中国語版のみ、後楊朝の項目が存在しています(zh:後楊朝))
  • 矯公羨も938年に部下の呉権に裏切られて殺害される。 - 呉権を矯公羨の「部下」とする記述は無し
  • 楊氏の弟である楊三哥 - 楊三哥が楊氏より年少だと確認できる記述は無し
  • 12使君の1人である丁部領に屈服し - 参照した資料の中に丁部領を十二使君に数えるものが無い
  • 3.南晋王・呉昌文(ごしょうぶん、950年 - 952年) 4.天策王・呉昌岌(ごしょうきゅう、952年 - 954年) 5.南晋王・呉昌文(復位、954年 - 965年) - 呉昌岌の即位以前に呉昌文が即位した記述は無し
  • 6.南晋王・呉昌熾 - 呉昌熾が南晋王を称した記述は確認できず
  • 歴代王の王号は自称であるが、大半は宗主国である南漢を意識してのものである。 - 南漢を意識した王号を名乗った記述は確認できたのは呉昌文のみ。大半とは言い難い。

この分だと前黎朝や初版投稿者と同一の人物([4][5])が立項した胡朝などのベトナム史関連の記事の検証性と内容もかーなーりー怪しいので、改稿した方が良さそうですね。--オオミズナギドリ会話2012年7月5日 (木) 11:45 (UTC)[返信]

  • 丁部領楊廷芸ベトナム帝王一覧のページからも「後楊朝」の語句を除去しました。また、ベトナム帝王一覧では、楊清の乱が「前楊朝」、楊廷芸が「後楊朝」とされていたのでそれぞれ「楊氏」に書き換えました。さらには、趙國達の乱が「後趙朝」となっていたのも「趙氏」に直しました。「後趙朝」に至っては、もしかすると趙佗の南越国を「前趙朝」とすればこっちが「後趙朝」だろう、という勝手な解釈で記述したものではないかとも思われ、絶望的な気分となりました。履歴をたどると、趙氏を後趙朝に書き換えたのは、IPユーザ(202.224.73.130)でして、本項立項者と同一人物の可能性が高いです。大幅な再チェックが必要と思われます。--Tonbi ko会話2016年6月9日 (木) 00:14 (UTC)[返信]
  • 今見てみたところ、中文版の「後楊朝」は、2015年1月24日に「楊廷芸」へのリダイレクトに書き換えられていますね。それ以前の版に関しても、出典は全くついていません。--Tonbi ko会話2016年6月9日 (木) 00:39 (UTC)[返信]