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ノート:垓下の戦い

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すいません、これって百科事典の項目というよりも、なにか有名な小説の一部のように思えてしまうんですが、勘違いでしょうか。Mishika 02:26 2004年3月11日 (UTC)

このIP氏の書き方の癖のようで、盗用ではないと思われます。らりた 2005年5月12日 (木) 09:53 (UTC)[返信]

テンプレート貼付部分について

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・要出典

①ここに列挙されている諸将が、垓下の戦いの段階で楚軍を離脱したことを示す史料を確認できません。

②漢将のうち何者かが漢兵に楚歌を歌わせたこと、また本文中に示されたような軍令が出されたことについての記録を確認できません。私が知り得た限りでは、司馬遼太郎氏が『項羽と劉邦』において、韓信が楚歌を歌わせた説の存在を紹介するのみです。

③「総決算」の意味は何か、また「一部の研究者」とは誰で、どのような文献(またはその他メディア)において提唱されたのか、が具体的に示されるべきであると考えます。
「総決算」とは、戦国楚の旧貴族出身である項羽が最期を迎えたことにより春秋戦国時代が締め括られた、というほどの意味ではないかと邪推しましたが、これに関連して堀敏一氏は、
「項羽が旧貴族階級の代表であり、劉邦が新庶民階級の代表であることははっきりしている」 「垓下の歌は項羽個人の身辺を歌った歌ではあるが、旧貴族階級没落の挽歌ともなりえているのではないか」
としつつ、
「劉邦が項羽に勝ったことをもって、貴族専権の時代から庶民参政の時代へと歴史が変わっていく必然性をしめしていると、簡単に考えるのは問題である」
と指摘されています(『漢の劉邦―ものがたり 漢帝国成立史』p110・p225、研文出版、2004年初版、ISBN4-87636-230-0)。
このような立場からは、項羽の最期をもって春秋戦国時代が締め括られたと解するのは難しいと考えます。

・正確性

「虞兮虞兮柰若何」は字義通りには「虞よ、お前をどうすればよいのだろうか」と解する他ないと考えられます。「何とか生きて欲しい」と項羽に言わせた例としては『通俗漢楚軍談』が挙げられますが、これは無論『史記』に取材した創作物として登場人物に自由に語らせることができるからこそ成り立つ解釈です。

--Would-be historian 2007年5月15日 (火) 12:10 (UTC)[返信]

該当部分を削除しました。--219.126.201.120 2007年6月12日 (火) 04:56 (UTC)[返信]

リバートされましたが、テンプレート部分について合理的な説明がなされる見込みがあるとは考えられません。また、2つ目の「正確さ」テンプレート部分について、

於是項王乃欲東渡烏江。烏江亭長檥船待,謂項王曰:「江東雖小,地方千里,眾數十萬人,亦足王也。願大王急渡。今獨臣有船,漢軍至,無以渡。」項王笑曰:「天之亡我,我何渡為!且籍與江東子弟八千人渡江而西,今無一人還,縱江東父兄憐而王我,我何面目見之?縱彼不言,籍獨不愧於心乎?」

という『史記』の原文が、なぜ本文のように訳されるのでしょうか。--219.126.203.22 2007年6月25日 (月) 09:42 (UTC)[返信]

項籍」や「楚漢戦争」の記事の方が、垓下の戦いの概略をより正確に伝えていると考えられる。現状ではこの「垓下の戦い」の記事の存在価値自体が認められない。--219.126.202.215 2007年7月5日 (木) 03:33 (UTC)[返信]

高校生の世界史Bの中国の古代文明のところでも、よく習うとこです。--119.63.154.150 2013年7月4日 (木) 12:48 (UTC)[返信]