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ノート:堀井動物園

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典拠のある記述の除去は、合意形成を経てください

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12月8日付のこの編集で、典拠が示されている記述が議論なく除去されました。

Wikipedia:検証可能性#方針」に明記されているように「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。」というのは大原則ですが、出典が明示されている編集の除去は、しかるべく時間をかけた議論を経て行なわれるべきです。出典がある記述の除去が必要であれば、ノートなどで議論することを心がけてください。

今回の編集については、入れ替わりに追記された内容にも有益な記述はあると考えますので、単純な差し戻しはしませんが、この後、除去された内容を記事に反映させ直したいと思います。--山田晴通会話2013年12月9日 (月) 02:57 (UTC)[返信]

合意形成は、反対意見がある場合に行う行為ではないでしょうか?反対意見が無い場合はそのまま素通りするものではないでしょうか?--喬森会話2013年12月9日 (月) 03:36 (UTC)[返信]

さて、ノートで議論をしましょうと呼びかけられたので、議論を行います。

  • まず、次の編集は、蛇足を除去し、中立的な編集に手直ししました[1]。この理由は、この場所には、この立場(同情的な立場)この立場(過激な立場)の二つの立場があるため、原文の記事では、二つの立場の中立性が保てていません。--喬森会話2013年12月9日 (月) 03:36 (UTC)[返信]
  • ここでいう中立性とは、初稿投降者が書いた原文記事には、概要節が「三行」でありますが、ほか「三行」を用い、計六行で記事が構成されている中、「ほか」の部分がすべて事故節で「三行」を用いており、これではいかにもバランスを欠いた構成となっている(または、調査不足のため、他の書くべき構成要素を記述できていない)と判断したためです。--喬森会話2013年12月9日 (月) 03:36 (UTC)[返信]
  • 次に、肺魚とヤマアラシの件ですが、これは単なるゴシップ(100年も残す百科事典に記載するほどの重大事項ではない)です。記載する価値がありません。事細かに、事実を取り上げるのが百科事典の役割なのではなく、全体の構成を見て、全体的に詳しく書かれているのなら、事故節もそれに合わせて詳しく書くところなのですが、この原文では事故節だけが突出して詳しく書かれている構成となっているのも、加味しています。--喬森会話2013年12月9日 (月) 03:36 (UTC)[返信]
    • 道路に荷物を落とした、という出来事は、よくあること。飼っている動物が逃げ出した、というのも、電信柱をみれば動物を探している張り紙が(現在は違法のようですが)よく貼られ、インターネットでも探していることが告知されたりしています。また、多数の馬を飼育している場所では脱走はよくあること[2]なので、単純に脱走した出来事を百科事典に特筆すべきとは思えません。なお、特定動物といわれる危険な動物の場合は「社会的な扱い」が異なりますけれども、ヤマアラシや肺魚が危険な動物には成り得ません。これも単なるゴシップと判断した根拠です。(付記--喬森会話) 2013年12月9日 (月) 04:10 (UTC)、--喬森会話2013年12月9日 (月) 04:31 (UTC)[返信]
  • 次に、火災についてですが、企業が存続してるのでしたら、手直しした文章「2011年に火災に見舞われ多くの動物を失ったが、運営の継続は成せた。」だけで事足ります。
  • これらの検討の結果、事故節の存在自体が、「蛇足」となっているのです。以上です。--喬森会話2013年12月9日 (月) 03:36 (UTC)[返信]
  • また、出典がすべて、検証が安易に行えないものになっていますので、できるだけ検証が楽なものにしております。--喬森会話) 2013年12月9日 (月) 03:36 (UTC) 追記--喬森会話2013年12月9日 (月) 04:10 (UTC)[返信]
お考えをご説明をいただきありがとうございました。利用者:喬森さんは、編集をお始めになって間もないご様子ですので(IPでの編集経験を豊富にもたれていたのでしたら、お赦しください)、「Wikipedia:新規参加者を苛めないでください」に抵触すると誤解されないよう、少し丁寧に応答します。あるいは、回りくどい言い方に見えるかもしれませんが、ご容赦ください。
以下、喬森さんの論点について、こちらで整理のための番号を付けて、山田にはどう見えているかをご説明いたします。
1)「合意形成は、反対意見がある場合に行う行為ではないでしょうか?反対意見が無い場合はそのまま素通りするものではないでしょうか?」
  • まず、仰っている内容自体は、見方によっては間違いはないと思います。「Wikipedia:合意形成」にも「編集は大胆に行ってください。ノートページは記事の成長を議論したり、記事の編集に関係する合意形成のためにも利用することができます。この大胆な編集、リバート、議論の三つの繰り返しはウィキペディアに共通するテーマです。」とあるように、大胆な編集をなさる事自体は問題ではありません。しかし、今回の編集をされた際に、喬森さんが、このような編集をしても「反対意見が無い」はずだと見込まれたのだとすれば、それは危うい事であると思います。喬森さんの編集の個々の問題点は以下で言及しますが、ある程度まで編集経験を積まれて、こういう編集をしても反対は出ないだろうという感覚が鍛えられるまでは、慎重に編集していただきたいと思います。
2) 「まず、次の編集は、蛇足を除去し、中立的な編集に手直ししました[1]。この理由は、この場所には、この立場(同情的な立場)とこの立場(過激な立場)の二つの立場があるため、原文の記事では、二つの立場の中立性が保てていません。」
  • ある記述が、中立性を欠いているか否かは、誰かが独断で判断する事ではありません。喬森さんが、山田の行なった記述は中立性を欠くものである、とお考えになったのであれば、編集以前に、中立性を欠く事を指摘して議論を提起する事もできたはずです(具体的には、Template:観点の貼付なども選択肢となったはずです)。コミュニティの総意、ないしは、広い合意として中立性に欠けるという判断になれば、バランスをとる記述方法をめざすべくいろいろな方々が編集に参加されるでしょう。典拠を提示していた山田による記述が中立性を欠く、と喬森さんが思われたとして、その指摘に山田が即座に同意するともお考えになったのでしょうか? 山田が、喬森さんの編集に同意しないことは容易に想像できたのではないでしょうか? 明らかに異論が予想される場合に、出典付きの記述の除去を含む編集を、何らの事前の議論もなしに行なうというのは、議論を通してより良い記述を目指すというウィキペディアの根本的な方向性にそぐわない姿勢であるように思えます。
  • その上で、もし記事の現状が中立性を欠いていると考えたとして、なぜ、(典拠のある記述の除去ではなく)もっぱら加筆によって「二つの立場」を併記する方向での編集をなさらなかったのか、山田には疑問です。記事の充実を目指すのであれば、複数の立場からの議論を、それぞれ相対化して併記する事は有益であるはずです。
3) 「ここでいう中立性とは、初稿投降者が書いた原文記事には、概要節が「三行」でありますが、ほか「三行」を用い、計六行で記事が構成されている中、「ほか」の部分がすべて事故節で「三行」を用いており、これではいかにもバランスを欠いた構成となっている(または、調査不足のため、他の書くべき構成要素を記述できていない)と判断したためです。」
  • 記事がどのような分量配分で書かれるべきか、またどのようであれば「バランスを欠いた構成となっている」と判断するのも、上記の通り、初稿投降者=山田でも、喬森さんでもなく、コミュニティです。御主張の妥当性をコミュニティに確認することもなく、ご自身お一人の判断で編集をされたことは、適切ではなかったものと思います。
4) 「次に、肺魚とヤマアラシの件ですが、これは単なるゴシップ(100年も残す百科事典に記載するほどの重大事項ではない)です。記載する価値がありません。事細かに、事実を取り上げるのが百科事典の役割なのではなく、全体の構成を見て、全体的に詳しく書かれているのなら、事故節もそれに合わせて詳しく書くところなのですが、この原文では事故節だけが突出して詳しく書かれている構成となっているのも、加味しています。」
  • 新聞記事に「堀井動物園」が取り上げられている例を探すと、半数ほどは、喬森さんのおっしゃる「ゴシップ」です。また、これらの記事を「ゴシップ」であるとする見方が可能であるなら、肯定的に言及した記事はパブリシティに過ぎないという見方も可能ではないでしょうか? 「よくあること」であるなら、なぜ、新聞各紙は堀井動物園の事例を特に記事にしているのでしょうか? そこに特筆性があるからこそ、記事化されているのではありませんか?
5) 「次に、火災についてですが、企業が存続してるのでしたら、手直しした文章「2011年に火災に見舞われ多くの動物を失ったが、運営の継続は成せた。」だけで事足ります。全体的に文章が短いスタブ状態なのですから、短く事実を伝える工夫が必要です。...これらの検討の結果、事故節の存在自体が、「蛇足」となっているのです。」
  • 「...事足ります。」という判断は、喬森さんのものでしかありません。事実、山田はその判断を共有していません。ご自身ひとりの判断で突き進む事は歓迎されません。
  • 「全体的に文章が短いスタブ状態なのですから、短く事実を伝える工夫が必要です。」という御主張には根拠はありません。また、スタブ状態であるとするならば、なぜ、積極的に典拠のある記述を除去し、情報量をさらに削減する必要があったのでしょうか? 例えば、名誉毀損に当たり、訴訟リスクがあるという判断をされたのでしょうか?
6) 「また、出典がすべて、検証が安易に行えないものになっていますので、できるだけ検証が楽なものにしております。」
  • これには全く同意できないことを明確に申し上げておきます。一般的に新聞類の記事は、縮刷版等が公共図書館に所蔵されており、典拠とする事が問題視されることはないはずです。山田が提示した典拠は、いずれも、新聞記事か、ネット上でアクセス可能な典拠です。「出典がすべて、検証が安易に行えないものになっています」という御主張は、山田が提示した典拠のどれを指してそのように判断されたのでしょうか?
  • また、喬森さんが提示された典拠の中には、個人ブログに準じたものと思われる、市民運動団体名儀のブログに、新聞記事の内容とされるものが引用されている例が含まれています。この内容が、実際に紙面に掲載されたものと同じかどうかは、紙面ないし縮刷版まで遡って確認しなければならないはずです。もし、山田が提示した記事が「検証が安易に行えないもの」であるなら、個人ブログに引用された記事もまた「検証が安易に行えないもの」であると思います。
以上を通して申し上げたいのは、ある記述が典拠とともに提示されている場合には、その除去を独断でなさっていただきたくないという事です。もし、中立性を欠いたバランスを欠く記述であると考えられるのであれば、バランスがとれるように別の立場からの記述をなさってください。典拠がある記述であっても、誹謗中傷やプライバシー侵害などに当たるおそれがある場合は除去できると思います(その場合は、併せてその記述が残存している版の版指定削除などを求めるべきでもあります)。また、情報量が過剰であるとコミュニティが判断すれば、典拠がある記述であっても削除されるものも出てくるかと思います。しかし、いずれの場合であっても、丁寧にコミュニティの意向を確認する手続きをとってください。具体的には、ノートで合意形成を図っていただきたいという事です。
現時点で、山田は、喬森さんが行なわれた典拠のある記述の除去には同意できません。もし、山田の記述を残す事で記事がバランスを欠くとお考えなのであれば、その方向で記事を加筆、充実されることが喬森さんのなさるべき編集であると考えます。編集合戦になる事は本意ではありませんので、喬森さんが除去された記述の(再度の)復帰を行なうか否かは、以上へのお答えをある程度の時間を置いてお待ちしてからとします。できる事であれば、喬森さんのご判断で、除去された記述を復帰していただければ幸いです。--山田晴通会話2013年12月9日 (月) 13:19 (UTC)[返信]

報告 一週間以上、話の進展がないこと。対立者が対話に戻ってくる可能性がほとんどないブロック者であることから、記事を破壊前の状態に戻しました。--Bellis会話2013年12月18日 (水) 17:45 (UTC)[返信]