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ノート:アテルイ

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清水寺にアテルイとその母モレの石碑があります

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「清水の舞台」で有名な京都の清水寺に、近年アテルイとその母を顕彰する石碑が建立されたそうですが、史料価値はあまりなさそうなのでここで記事として掲載する意味はないでしょうか?TouzingSigeruu 2005年7月20日 (水) 23:37 (UTC)[返信]

良いのではないでしょうか。清水寺の石碑の方が訪れる人は圧倒的に多いでしょうし(と、片埜神社の若奥様がぼやいてる)。ただし、何故清水寺なのかも書く必要はあるでしょうね。(「その母」ではなく「モレ(母禮)」ではないでしょうか)。nnh 2005年7月21日 (木) 16:22 (UTC)[返信]
早とちりでよく調べずに投稿してしまいご迷惑をおかけしました。確かにモレは、アテルイの「母」ではありませんでした。一緒に処刑された「盟友」だそうです。訂正してお詫びします。TouzingSigeruu 2005年7月22日 (金) 01:03 (UTC)[返信]
何年に、と記してくだされば意義ある記述と思います。本当に最近ですよね。Kinori 2005年7月22日 (金) 09:03 (UTC)[返信]
私が適任か疑問ですが、清水寺の顕彰碑について追記しました。小説『火怨』とそれを原作にしたミュージカル『アテルイ-北の燿星』の上演もあったようですが、石碑建立の事実だけに留めました。その方面の事情に詳しい方にお任せします。TouzingSigeruu 2005年7月22日 (金) 23:01 (UTC)[返信]

「アテルイ (人物)」への移動について

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アテルイという列車は人物に因んだものでしょう。このような移動は適切とは思えません。johncapistrano 2005年8月11日 (木) 06:11 (UTC)[返信]


私もJohncapistranoさんの意見に賛成で、アテルイを削除してアテルイ (人物)アテルイに移動すべきだと思います。--Kouchiumi 2005年8月11日 (木) 08:25 (UTC)[返信]
リダイレクトの削除依頼に出しました。(そういえば今日(8月13日)はアテルイの命日ですね)。nnh 2005年8月12日 (金) 16:06 (UTC)[返信]

アテルイの評価と悪路王

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本文中に記したとおり、アテルイは1980年代までほぼ完全に無視されていました。エミシ=アイヌ説が強い時代のことですから、逆賊などという非難を受けることもなかったのです。平将門と並べられることはなかったはずですし、アテルイが脚光を浴びるようになったのも将門と関係ありません。悪路王=アテルイ説は、田村麻呂伝説が生きていた中世には一顧もされませんでした。多分に現代人の願望がまじった解釈です。これを確定的な説として紹介するのは不適当だと思います。Kinori 2005年10月15日 (土) 06:18 (UTC)[返信]

先ほどのIzayohiさんの編集なのですが、おっしゃるような「間違いを修正」したところはないと思います。「母禮」の禮は、礼の旧字です。他は新字なのにここだけ旧字にするのはおかしいです。また、「処刑された」を「斬り殺された」と書き直すと、戦死や混乱の中での死との区別が曖昧になると感じられます。多分に感覚の問題ですが。Kinori 2005年10月15日 (土) 11:14 (UTC)[返信]

石碑のとおり修正したまで。処刑では裁判と刑罰があっての用語。「斬り殺された」は「捕らえられたあと斬り殺された」と修正しましょう。Izayohi 2005年10月15日 (土) 11:18 (UTC)[返信]
碑を刻んだ人とウィキペディアで用字が違うことは意外ではありません。しかしいずれも『日本紀略』という同じ史料をもとにしたのです。碑文を典拠にしてウィキペディアを修正するのはおかしいのであって、ウィキペディアはウィキペディアの方針で書けばよいことと思います。写真でみるかぎり、清水寺の碑文は表が「母禮」、裏が「母礼」で統一がとれていませんが、それは百科事典ではないので。処刑については、これが正規の刑ではなかったとおっしゃりたいのでしょうか。近代以前には「処刑」が存在しなかったと言いたいわけではありませんよね。Kinori 2005年10月15日 (土) 11:52 (UTC)[返信]
それでは「処刑」を定義してください。Izayohi 2005年10月15日 (土) 12:14 (UTC)[返信]
死刑を執行することです。Kinori 2005年10月15日 (土) 13:28 (UTC)[返信]
お返事いただけませんでしたので、とりあえず元に戻しました。Kinori 2005年10月22日 (土) 20:57 (UTC)[返信]
Kinori さんが主張する通り、「処刑」という日本語が適切です。「斬り殺された」という表現は「斬り合いをして殺された」「刀を振りかざして斬りつけて殺した」といったニュアンスを含みますから不適切です。「処刑」とは「裁判と刑罰があっての用語」などというのは勝手な解釈でしょう。平安時代には現代のような裁判と明確な刑法があったわけではありませんが、その時代なりの規範のようなものはあったはずです。当時の朝廷はそうしたものに準拠して「アテルイとモレを殺すことに決めた」わけですから、「処刑」でなんらおかしくない、と考えます(2022年4月29日、長岡昇)。--長岡昇会話2022年4月29日 (金) 12:48 (UTC)[返信]

アテルイの出身地

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アテルイの出身地を水沢市とする編集がありましたが、彼の出身地について語る史料はありません。そうしたことを記した本か何かがあるなら、それは現代人の想像によるのです。また、胆沢町の胆沢は、奥州市の奥州と同じいわゆる僭称地名ですから、町の方にリンクをはるのは誤りです。Kinori 2005年12月19日 (月) 16:19 (UTC)[返信]

枚方市宇山の塚について

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宇山に元来「首塚」「胴塚」の伝承はありません。宇山古墳群の発掘により、宇山説が否定されて以降もなお、この地が「伝承地」として宣伝されていった経緯は以下HPに詳しいです。 http://www.geocities.jp/katanogahara/1.html --以上の署名のないコメントは、218.228.218.233会話/Whois)さんが 2007-07-24T11:20:46(UTC) に投稿したものです。

うーん。たしかに、私が参考文献として挙げた本(片埜神社の神職さんが書いた本です)の中でも、「古くから首塚・鬼塚と呼ばれる塚があり、古代の武将のものだという伝承があった」というような記述があって、それと宇山処刑地説が結びついて「アテルイの首塚だ」ということになったのだろう、と書いてあります。神社にもそれらしき文献はないそうです。が、完全に記述を消してしまうのもどうかと思い、あのような編輯をしました。枚方で動きがあるのは確かですので、書いておく必要はあると思います。ただ、書き方は変えないといけないでしょうね。nnh 2007年7月24日 (火) 14:12 (UTC)[返信]
片埜神社の現宮司さんは、直接お話を伺うと「『首塚』『胴塚』という言葉は聞いたことがありませんが、何かをお祀りしていると思われる石が昔からありました」とおっしゃいます。前宮司さんは地元での講演会の中で、一言もアテルイや塚について言及なさっていません。さらに先々代宮司さんは、大変熱心に地元の伝承や歴史について勉強・調査なさっており、記録に残しておられます。それにもアテルイや蝦夷に関する記述はない、と現宮司さんがおっしゃっておられます。しかし印刷物になると「首塚あり」と明記なさいます。市の(塚建立を含めた)牧野公園観光地化の動きと連動している、意図的な宣伝です。
宇山に「首塚」「胴塚」「伝説」が突然出現した経緯について、先述コメント末のリンクに詳しく書かれていますのでぜひご一読ください。宇山伝説が事実ではないことが御理解いただけると思います。虚偽の情報をウィキに載せるべきではありません。
お返事をいただけないようですので、「首塚」と記された画像を削除しました。「枚方に動きが」あったことについては古墳発掘の経緯などで言及し、今年建立された「塚」の画像を掲載しているので問題ないと思います。  2007年7月27日(金)11:03

画像については今まで話題にのぼっていなかったようですが、除去する必要がありますでしょうか。本題ですが、アテルイ首塚が学問的な説ではないことについては、異論がないと思います。(私には、紹介してもらった「蝦夷の首長アテルイと枚方市」の考証は納得いくものですし、9世紀初めの西日本で墳丘つきの墓を作ってもらった、という想定がそもそも変だとも思います。)その上で、伝説を伝説としてとりあげる分には良い、という点でも一致があると思います。アテルイ伝説の場合、20世紀後葉の産物というところが特徴ですが、一、二の人が唱える異説というレベルを越えていますので、虚偽だから排斥とはいかないでしょう。現代産の「伝説」であるということさえ押さえられていれば、非難したり賞賛したりせず淡々と記述することができると思います。書き方を工夫して、誤解を生む可能性をできるだけ小さくする必要はあるでしょうね。--Kinori 2007年7月28日 (土) 05:45 (UTC)[返信]

>一、二の人が唱える異説というレベルを越えていますので、
レベルを超えてしまったのは、枚方市による意図的な誤情報の宣伝もありますが、ウィキの当ページの情報がネットに拡散してしまったのも一因です。実際に牧野公園には行っていない管理者のHPに「首塚」の画像が掲載され、ひどいものだと「この下にアテルイが埋まっている」と書かれています。誤情報を絶たないと、尾ひれがついて更に広がります。
>虚偽だから排斥とはいかないでしょう。
虚偽を排斥しないのならば、責任をもって「虚偽である」と明記してください。このページを参照・引用しているHPの記事の多くは、ここの記述を「虚偽」だと受け止めていません。「書き方を工夫して、誤解を生む可能性をできるだけ小さく」してください。このページを見て史実もしくは長く語り継がれた伝承・伝説だと思い、遠方(東北や北海道他地域も含む)から訪ねてこられる方々がいらっしゃるのです。虚偽だと明記されていれば、また違った判断の材料になるかもしれません。
>現代産の「伝説」であるということさえ押さえられていれば
20年ほど前に何の根拠もなく出てきたものが「伝説」でしょうか。スポーツ選手などの活躍が語り伝えられた伝説や、都市伝説のようなものとは違い、アテルイの「塚」「伝説」は史実と誤解されやすく、実際に混同されています。この無根拠なホラ話をウィキに掲載なさるのであれば、史実の記述とは別項で「現代産の『伝説』」と明記して記載してください。2007年7月28日 (土) 20:19 (UTC)

モレ=副指導者について

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熱心な編集大変にご苦労様です。モレ(母禮)についての記述で蝦夷の副指導者と断定しているのが気になりました。浅学でお恥ずかしいのですがモレがアテルイの副指導者であるという根拠はあるのでしょうか?アテルイと同様に捕らえられ処刑されている経緯から、同等の蝦夷の指導者であろうことは推察出来ますが、蝦夷というのが単一の部族(氏族)であったかどうかは証拠がなく、反朝廷の連合軍であったとすればアテルイとモレは同盟関係、協調関係という可能性もあります。そのあたりについて詳しい方の解説をお願いします。--Easyman 2007年9月9日 (日) 17:19 (UTC)[返信]

特にご回答が無いので“副指導者”の記述を削除しました。--Easyman 2007年10月4日 (木) 15:26 (UTC)[返信]

アテルイの画像

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アテルイの画像提供依頼が出ていますが、アテルイの画像として出せるものはないはずです。おそらくこの依頼をした人は、茨城県にある悪路王首像を想定しているのではないでしょうか。その像は、アテルイにまつわる書籍の表紙などを飾ることが多く、一般にアテルイをしのばせる像と思われているのですが、実は悪路王がアテルイであると積極的に唱える学説はありません。専門の歴史学の本にも写真は出されるから、妙な感じではあるのですが。首像の写真が公開可能な形で手に入ったなら、悪路王の項目に置くのがよいでしょう。--Kinori 2011年2月14日 (月) 12:40 (UTC)[返信]

画像提供依頼を除きました。--Kinori 2011年2月28日 (月) 12:38 (UTC)[返信]

統合提案

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巣伏の戦い」と「丈部善理」について、このページとの統合を提案します。いずれも「1つのページ中で一緒に解説すべきにも関わらず、必要以上に細切れにされてページが作られている場合」に該当すると思われるためです。--Syamoriwka 2011年6月20日 (月) 02:23 (UTC)[返信]

巣伏の戦いはこの記事と内容的に大差ないのでどちらでもよいですが、丈部善理については反対します。日本古代史の事典で、六国史に載る人物を全部収録するというのは特別なことではありません。ウィキペディアが目標を下げることはないでしょう。古代の人物は、史料がごく少ない場合でもほとんどすべて歴史学者の考察の対象になっており、すべて独立項目として立てるべきと考えます。だいぶ前のことなので誰が書いた何とは言えませんが、丈部善理についても征夷軍の指揮官を分析する中で触れたものを読んだ記憶があります。氏族からの論考もあるはずです。そうした研究に関する言及がない現状の記事でも、調べる人を失望させない価値あるものになっています。統合すれば情報に到達しにくくなります。--Kinori 2011年6月20日 (月) 10:18 (UTC)[返信]
コメント頂きありがとうございます。丈部善理については、異論がなければ提案を取り下げたいと思います。--Syamoriwka 2011年6月21日 (火) 12:39 (UTC)[返信]

 タイトル名の変更 

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現在[アテイル]がページタイトルになっていますが、阿弖流爲がタイトルに相応しいのではないでしょうか?アテイルは仮にそう呼んでいるだけで確証はありません。正確性を求めるWIKIでは史料の中にある名前に変更を提案します。--WE2012年4月13日 (火) 10:39 (UTC)——以上の署名の無いコメントは、113.213.249.210ノート/Whois)さんが 2012年4月15日 (日) 01:24‎ (UTC) に投稿したものです(ろう(Law soma) D Cによる付記)。[返信]

一級史料上は「阿弖流爲」ですのでお気持ちは分からなくもないですが、「阿弖利爲」と漢字表記も揺れがありますし、現状ではリダイレクトになっているので格別の支障はないものと思われます。--ろう(Law soma) D C 2012年4月16日 (月) 03:00 (UTC)[返信]

現在ある資料が阿弖流爲なのであれば漢字で表記するべきだと思います。漢字にゆれがあるというのであればそちらの漢字表記と不確かな「アテルイ」と言う表記をリダイレクトにすべきでは?WIKI管理人である方が史実と異なる可能性がある名称を推奨するとはどういうことなのでしょうか?--113.213.249.2102012年5月20日 (火) 17:39 (UTC)

個人的にはどちらでも構いません。「阿弖流爲」と「阿弖利爲」のどちらも史料に出る名称です。なお、国立情報学研究所の論文検索によると「阿弖流爲」6件、「阿弖利爲」0件、「アテルイ」13件となっております。--ろう(Law soma) D C 2012年5月21日 (月) 03:31 (UTC)[返信]

古代東北の人物は邑良志別君宇蘇弥奈吉弥侯部真麻呂爾散南公阿波蘇盤具公母禮胆沢公阿奴志己等となっているためタイトル名の変更に賛成です。史料に複数回記録されていること、最後の記録であること、Wikipediaでは吉弥侯部や胆沢公と姓を含めてページが作成されていること、盤具公母禮との統一性から「大墓公阿弖利爲」が妥当かと思います。--メメメ会話2020年9月29日 (火) 21:47 (UTC)[返信]

あげられた5つは、歴史学でも世間一般でも片仮名で書くことはありません。アテルイは違います。歴史学者の間では両方あり、歴史の教科書には片仮名で書かれ、世間一般でも片仮名が普通です。「Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるには」は、5つの基準をあげていますが、その1番目、「信頼できる情報源において最も一般的に使われており」とあるのは、歴史学者の書籍や論文にあたるでしょう。5つには含まれない末尾には、「記事名を選ぶにあたっては、編集者の関心よりも読者の関心を、専門家よりも一般的な利用者の関心を重視して」とあります。総合的にみて、現状では「アテルイ」が妥当だと思います。
ウィキペディア内の統一性のために、世の中の慣行をひっくり返すことは、独自研究を載せないというウィキペディアの方針に反しています。メメメさんは、歴史学者がよく使う「阿弖流為」ではなく、「阿弖利爲」を改名先に選び、しかもことさら旧字で提案しています。統一性はあまり重要ではないとメメメさん自身も思っているのではありませんか。
史料通りの字というのは聞こえはよいですが、それをまともにやろうとすると、あちこちで慣行に反することになります。木簡で人名の「部」が「マ」と書かれているのはその極端な例ですが、「宿禰」が「宿祢」と書かれるなど「正字」とのずれは少なくありません。それをその通りに書くと自分だけ満足な独自世界になりますし、ここは例外、これは特別、とルールを整備すると、結局「史料通りでない」という点で歴史学者の慣行と同じになります。慣行も時とともに変わるものですので、将来「阿弖流為」のほうが広まることはあるかもしれません。それまでは現状でよいでしょう。--Kinori会話2020年10月10日 (土) 02:11 (UTC)[返信]
「信頼できる情報源において最も一般的に使われており」には「アテルイ」だけではなく「阿弖流為」も十分当てはまると思います。歴史学者の書籍や論文でも頻繁に登場していますよね。参考文献の中ですぐに確認できた中では鈴木拓也編『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』、高橋崇『坂上田村麻呂』、樋口知志『阿弖流為 夷俘と号すること莫かるべし』の3冊では内容で阿弖流為と表記されていますし、3冊とも帯にも阿弖流為と表記しています。将来「阿弖流為」のほうが広まることはあるかもしれませんとおっしゃられますが、アテルイを題材とする作品でのアテルイと阿弖流為の比率まで加味しても、阿弖流為に対してアテルイだけが一方的に広まっているとは私は思いませんがどうでしょうか? 総合的にみて、現状では「アテルイ」だけではなく「阿弖流為」も妥当だと思います。
私は最初の方がおっしゃられているのと同様に「アテイル」自体が確定された読み方ではない以上、原典にある「阿弖流爲」「大墓公阿弖利爲」のどちらかを用いるのが記事の内容から妥当であると考えています。付け加えると「統一性はあまり重要ではないとメメメさん自身も思っているのではありませんか」と言われたので、これについて否定をしておきます。盤具公母禮については私が新記事を作成しましたが「モレ」「盤具公母礼」「盤具公母禮」で悩んだ末に「盤具公母禮」としました。歴史学でも世間一般でも片仮名で書くことはありませんとおっしゃられますが、盤具公母禮に関してはモレと書かれていることがアテルイと書かれている以上に多い印象です。おそらくはモレだとアテルイ、盤具公母禮だと大墓公阿弖利爲とセットになるからでしょう。しかし単体で扱われる場合はアテルイと阿弖流為はあまり変わらない比率という印象です。「姓・名の順に、間にスペースなどを入れずに記す。原則として敬称・肩書はなし」に合わせて「盤具公母禮」としました。そういったことなどから『続日本紀』の「賊帥夷阿弖流爲が居に至る比」と動向が不明な部分よりも、『日本紀略』で動向が記録されていて、私以外の方が作成された他の蝦夷族長の記事も考慮して姓・名の「大墓公阿弖利爲」がより相応しいのではないかという考えです。新字体が慣例ならば「大墓公阿弖利為」でもいいでしょうし、そうなると旧字体の「阿弖流為」「大墓公阿弖利爲」でしか提案していない私の落ち度ですね、申し訳ないです。
それはそれとして、現状アテルイが記事名となっている以上、それに合わせて記事の内容を変更しました。
冒頭文では「大墓公阿弖流為(読み方不明)または大墓公阿弖利為(読み方不明)」として本来の名前を記載、読み方が確定していないことから読み方不明としました。合わせて史料上の漢字表記を「正しい漢字は◯◯」、読み方については確定していないので「一般的に◯◯と読まれる」としました。末尾に「本頁では◯◯として解説」として、記事名との齟齬の解消と、記述上必要となる部分のみ漢字表記を使用する趣旨を追加しました。名前についての節は「姓と名」「読み方」「本貫地」に分割しました。アテルイ、アテリイ以外の読み方など、読み方が不明であることも追記しやすいかと思います。生涯の節は原典に準拠している部分はそのまま阿弖流爲、大墓公阿弖流爲などとしています。解説している部分のみアテルイに変更しました。--メメメ会話2020年10月10日 (土) 21:32 (UTC)[返信]
約3年後、メメメさんがメメメさんの提案した記事名に移動し、USSR-Slavさんが差し戻しました。参考利用者‐会話:メメメ#アテルイ→大墓公_阿弖利為への改名について。 --2001:240:2404:447D:C542:36D1:E54:D97F 2024年2月10日 (土) 01:36 (UTC)[返信]

西本昌弘先生の処刑推定地・京都府八幡市について

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「そのためアテルイが斬られた地は河内国(現在の枚方市、交野市、寝屋川市、守口市、門真市、四條畷市、大東市、東大阪市、八尾市、柏原市、松原市、藤井寺市、羽曳野市、富田林市、河内長野市、大阪狭山市、太子町、河南町、千早赤阪村、大阪市の一部、堺市の一部)のどこかであるということ以外は不詳である。」 という記載ですが、

もし歴史学者の西本昌弘先生の推定が事実で河内国□山が本当に京都府八幡市の男山と呼ばれる地域であった場合、上記の記載は不正確なものになります。

西本氏は京都府八幡市男山の燈火が河内国との共同管理であったことから「河内国□山」を京都府八幡市橋本付近を含む平安時代初期の山崎橋南詰と推定されたのですが(山崎橋の位置は確定されていないようです)、 地域を記載する場合はアテルイの時代のものと合致させなければなりませんので、京都府八幡市の男山も河内国との共有があってそう呼ばれ得るとプロフェッショナルな歴史学者が判断された場合はそれも併記の上で尊重しなければならないのでは?と思う所存に存じます。

またこの河内国とそれに該当する現代の地名の記述が2箇所ありますが、河内国をクリックすれば該当する市区町村はわかりますので1箇所のみにしたほうが文章の体裁としては良いかもしれません。--Yoko Ai会話2020年10月15日 (木) 23:02 (UTC)[返信]

アテルイが斬られた場所については一級史料上で「河内国□山」としか記録されておらず、現在までその場所が特定されていません。その場所がどこであったか学者による論説が多々あるなかで、いずれも推測の域を出ない以上、生涯の節では一級史料の表記から逸脱しない「河内国と□山の間に郡名などが付されていないため□山が地名とは考えがたい」等の歴史学者の共通認識程度に抑えています。
しかし学者による論説はいずれも記述するに十分な内容であり、生涯の節の中で「河内国□山」についての記述をするとあまりに長くなることからも、アテルイに関する議論の節を設置して記述しています。例えば「斬」の解釈でも律令に基づく処刑であったのかどうか学者によって見解が別れているため、一級史料に基づいて「斬られた」とだけ記述しています。
ですのでYoko Aiさんのおっしゃられている「河内国□山が本当に京都府八幡市の男山と呼ばれる地域であった場合」という前提が西本氏の論説に基づくものである以上は、生涯の節ではなくアテルイに関する議論に記述してもらうしかありません。これは西本氏の論説以外にも、椙山説など他の論説を提唱する全てのプロフェッショナルな歴史学者を対象にして生涯の節には記述しない措置を取っていますので、西本氏のみ特別扱いしないことにご了承とご協力を頂ければと思います。
「(現在の枚方市、交野市、寝屋川市、守口市、門真市、四條畷市、大東市、東大阪市、八尾市、柏原市、松原市、藤井寺市、羽曳野市、富田林市、河内長野市、大阪狭山市、太子町、河南町、千早赤阪村、大阪市の一部、堺市の一部)」との記述についてですが、Yoko Aiさんのおっしゃられるように1か所でよいかと思われます。現在の行政区分のためアテルイに関する議論に残すのがよいかと思いますので生涯からは削除しておきます。
さて、Yoko Aiさんは西本昌弘氏の論説を大切にされておられるようですが、Wikipediaですから個人の私情は挟まず、生涯の節やアテルイに関する議論の節では西本氏以外のプロフェッショナルな歴史学者、例えば馬部隆弘氏の論説なども尊重して、全体的に平等な記述を心掛けていただければと思います。
ちなみにですが、私も現在のところ男山説が最も信憑性が高いのではないかと思っています。--メメメ会話2020年10月19日 (月) 21:12 (UTC)[返信]
ご配慮賜り誠にありがとうございます。「河内国と□山の間に郡名などが付されていないため□山が地名とは考えがたい」との歴史学のプロフェッショナルのご意見も、複数ある中での一ご意見なのでそれを指針にしていいものなのかどうなのか迷いがあります。
なぜかともうしますと、
禁葬埋雄河内国交野雄徳山。採造御器之土也。 — 類聚國史、[1]
という記述があるからです。西本昌弘氏が指摘した男山は雄徳山、牡山、丈夫山、香炉山とも呼ばれますが、明確に「河内国交野雄徳山」と書かれていて河内国交野郡であるのがわかります。それが現在の行政区分で京都府か大阪府なのかは不明ですが、西本昌弘氏のご指定「牡山烽火は山城・河内両国の境界にあった」のであれば、どちら側ともいえない共有地である可能性があります。
個人的には西本昌弘氏の山埼橋南河頭説は少し疑問があります。「牡山烽火」はのろしですから山の上の方で、共有地「牡山(雄徳山・男山)」は標高が高い側の地名ではないか?と考えているからです。--Yoko Ai会話2020年10月20日 (火) 08:41 (UTC)[返信]
ご説明いたします。
まず「河内国と□山の間に郡名などが付されていないため□山が地名とは考えがたい」についてですが、これは『日本紀略』延暦二十一年八月丁酉条に「河内国□山」としか記録されていないため、文献史料からアテルイの斬殺地について確実に判明するのは、河内国と□山の間に村名や郷名が記録されていないこと村名や郷名が記録されていないため河内国のどこかであることしか解らないこと文献史料によって□山の漢字表記に異同があること、この3点のみです。歴史学の共通認識として、文献史料の一字の有無や違いが解釈によっては大きな違いとなるため、『日本紀略』延暦二十一年八月丁酉条に郷や村が書かれていない以上は余計な解釈をせず、国名だけだそれとわかる著名な山であったと考えられるわけです。このあたりは鈴木拓也氏も書籍に書かれていますね。ですので文献史料からわかることは「河内国と□山の間に郡名などが付されていないため□山が地名とは考えがたい」のです。
この共通認識を前提とした上で、歴史学のプロフェッショナルが「杜山」「植山」「椙山」の比定について様々な仮説を重ねているわけですから、それらはアテルイに関する議論の節で別枠で記述しています。
次にYoko Aiさんのご指摘にあります「禁葬埋雄河内国交野雄徳山。採造御器之土也。」は『類聚国史』巻七十九 大同三年正月庚戌条の記録ですね。これも西本昌弘氏が山は山(山)の誤写であり「河内国□山」の漢字表記は「牡山」が本来のものであった(杜山=牡山説)、山城国と河内国の境にある男山は『類聚国史』に「河内国交野雄徳山」と書かれた記録がある(牡山=男山説)との論説でしかありません。鈴木拓也氏にならい西本説とします。
西本氏は歴史学のプロフェッショナルで尊重すべきではありますが、明確に「河内国交野雄徳山」と書かれているのは『類聚国史』巻十六「第七十九 禁制」大同三年正月条であって、西本説が傍証として「河内国交野雄徳山」を用いているにすぎず、西本説以外では『日本紀略』延暦二十一年八月丁酉条の「河内国□山」が河内国交野郡であるのがわかるわけではありません。
最初に書きましたように、河内国と□山の間に村名や郷名が記録されていないこと村名や郷名が記録されていないため河内国のどこかであることしか解らないこと文献史料によって□山の漢字表記に異同があること、この3点以外は論説でしかない現状、生涯の節には「河内国と□山の間に郡名などが付されていないため□山が地名とは考えがたい」としか記述できません。残念ですが「西本氏の論説によると交野郡が否定される」のようにアテルイに関する議論に記述していただく他ありません。--メメメ会話2020年10月22日 (木) 00:38 (UTC)[返信]
追記します。
生涯#降伏の記述を「いずれの漢字表記についても「河内国□山」として「村」や「郷」の名が付かないことから地名としての□山ではなく山そのもの指し、郡の名が付されていないことから国の名だけでそれとわかる著名な山であったものと考えられる(アテルイ終焉の地節も参照)。」として、アテルイ終焉の地へのリンクを貼りました。
あわせてアテルイに関する議論節#河内国と終焉の地をアテルイ終焉の地としました。また河内国の見出しを作りましたので「西本昌弘による杜山説のように、山城国男山(現在の京都府八幡市の一部)を含める見解もある。」に河内国交野郡などを補足していくのはどうでしょうか。--メメメ会話2020年10月22日 (木) 01:02 (UTC)[返信]
?そもそも男山(雄徳山・牡山・香炉山・丈夫山)は山の名前であり地域名でもあります。その山一帯が、山城国と河内国の共有地的性質を持っています。その男山にある石清水八幡宮の神人は河内国交野郡、山城国、摂津国山崎にいました。
京都府南西部、八幡(やわた)市にある山。標高143メートル。山頂に石清水(いわしみず)八幡宮がある。雄徳山。八幡山 — 小学館デジタル大辞泉、コトバンク
京都府南部,八幡市北西部の小丘。八幡山ともいう。大阪府境に近い生駒山地の北端部にあたり,古生層からなる。最高所は鳩ヶ峰の143m。 — 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版、コトバンク

--Yoko Ai会話2020年10月22日 (木) 12:28 (UTC)[返信]


「山埼橋の南は男山である」という記述は間違えですし、山崎橋南詰は現在の地名でいうと「橋本」ですし、「現在の男山は京都府八幡市橋本から大阪府枚方市楠葉中之芝付近に属するが」は全くの事実誤認です。この辺りは非常に複雑なので、ママ引用にします。法律家の方にママ引用でも引用のきまりごとを守れば法的に問題はなく、かつ、むしろその方が要約引用により歪曲や誤解がない分望ましいとの意見をいただきました。--Yoko Ai会話2020年10月22日 (木) 11:50 (UTC)[返信]
追記:「京都府八幡市橋本から大阪府枚方市楠葉中之芝付近」は、古代の山崎橋南詰の比定地の、現代の地名の記述による範囲です。--Yoko Ai会話2020年10月22日 (木) 11:52 (UTC)[返信]
ママ引用というのであれば鈴木拓也編『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』頁60に「山埼橋の南は男山であり、」とありますから、それを削除したあなたは身勝手ですね。もうハッキリと申し上げますが、ここはWikipediaであってYoko Aiさんの身勝手な論文を書く場所ではありません。あくまでWikipediaなのですからWikipediaらしい書き方を心得ていただく必要があります。さすがに冒頭にルビを使ったりWikipediaということを忘れて好きなように編集ているあなたとこれ以上議論するのが面倒になりましたし、細かい部分をいちいち修正していく日々が鬱陶しいです。駄々をこねて許されるのは小学生までですよ。--メメメ会話2020年10月22日 (木) 19:32 (UTC)[返信]
メメ様のバージョンに『山埼橋の南は男山である[25]。』と記載がありますが、これを引用とするには「」でくくるなど引用と他の部分との区切りが必要です。また、元々の本の文章が「山埼橋の南は男山であり、」であれば、それを要約による引用ではなくママで引用したい場合は「」でくくったり、wikipediaの引用のテンプレートでくくり、ママのままの文章で引用する必要性がございます。
wikipediaではルビを使用しない文化があるというご指摘をありがとうございます。wikipediaにはルビのテンプレートがあるので使用してもかまわないものだと思っていました。
789年の阿弖流為と13年後処刑された大墓公阿弖利為が同一人物かどうかは存じませんが、続日本紀と日本紀略の漢字は特に別バージョンがあるわけでもないので、検索エンジンの検索結果に反映される重要な箇所である冒頭で名前についての羅列が大量にあるのは、人物の要約ページのまとめとしては不適切ではないか?と思い縮小しました。名前については後方でくっきりくぐって議論し、冒頭部分はアテルイという人物像の要約を掲載した方が万人に開かれた百科事典的存在がwikipediaだと思われますので、ユーザーフレンドリーであると私は感じます。--Yoko Ai会話2020年10月23日 (金) 05:29 (UTC)[返信]
日本後記現代語訳のうち最も信頼できる記述なので森田悌先生のご著書を引用させていただいたのですが、もしどうしても河内国植山という記載がお気に召されないようでございましたら、「河内国……山」という記述にして省略した形とすれば、読者の方にも伝わるかもしれませんがいかがでしょうか?他者が勝手に□と記載するのは著作権法上まずいとのご指摘を法曹家の方から受けました。 p.s.ところで、そのルールとはどちら様がお決めになられたルールなのでしょう? --Yoko Ai会話2020年10月29日 (木) 13:24 (UTC)[返信]
  1. ^ 六国史 : 国史大系.  類聚國史https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950692/322